アガルタ 

2 アガルタ 地球内部のパラダイス 

「悲しみの存在しない国があったなんて!」マヌルが巨大な笑顔のようにデザインされた村を案内してくれたとき、ぼくはそう叫んだ。

「それはそうだが」と彼は答えた。「しかしここに住む人の大半は、わたしたちのように普通の人だ。悲しみはたしかにある。ただ、ここでは違ったとらえ方をするのだ。おまえはそれに支配されるがまま。でもわたしたちは、悲しみと挫折をコントロールできるのだ。助けを必要とするとき、やさしい手が差し伸べられる。それは実際の手かもしれないし、心の手かもしれない。

 一見したところ、おまえは互いに助け合う喜びを見出していないようだ。頭はお金のことでいっぱい。助けるのにもお金がかかるもの。そしてだれもが買えるわけではない。でもティム、だれもが心を持っている。それはタダだ。心に耳を傾ければいいのだ。心はいいアドバイスをくれる。でもおなじ言葉を話さなければならない。経験と理解がおまえを助けることになる」

 つぎに何が起きたか、よくわからない。すべてがあっという間に起きた。マヌルがぼくの手を取った。はじめて学校へ行く7歳の少年みたいに、ぼくは不安と期待でいっぱいだった。飛び過ぎる風景を見る余裕はなかった。ある瞬間、ぼくの下には水があった。小さな白いガチョウの群れが青黒い波間に揺れていた。つぎの瞬間、黄金色の砂浜の砂の上にいた。最後はエメラルドグリーンの草の上だった。ドサッと軽く音をたてて、ぼくたちは陸地に降り立った。

「まわりを見まわしてごらん」マヌルが口を開いた。

 ぼくはそうした。マヌルがぼくの手をはなさなかったので、ぼくは気を失わずにすんだ。でもぼくはほんとうに混乱していた。大気も、美しい景色も、生きていた。おだやかな、永遠の呼吸をしていた。触れることができそうなほど、生き生きとしていて、むしろ荒々しかった。茂みや木々、花々のひとつひとつが雑音を発し、不協和音を奏であっていた。小さな影があちこちと、またぐるぐると泳ぎ回っていた。それらは植物の間をうねるように進み、植物の上や中に入っていった。

 夏の草地はもっと生き生きとしていた。

 四大元素と人々がここに集まっていた。ぼくは人々を――おとなも子供も――見た。活気ある音楽を聞いた。だれもが踊っていた。

「かれらは朝から踊ってるの?」とぼくは質問をぶつけた。一日のこんな早い時間から熱狂的であることに軽いショックを受けたのだ。

「そのとおり」まるでぼくが変わり者であるかのような目で見ながら、わがガイドは言った。「だれかが踊りたくなったら、われわれは歌とダンスの会を開催する」

「それじゃあ、なんだってできるんですね」とぼくは食い下がった。

「踊らない以外のことならね」と反論が返ってきた。ぼくは、ふうっとため息をついた。ここは違う国なのだ。新しい考え方に心を開かなければならない。すべての国がそれぞれの習慣を持っている。地球の外側と同様のことが地球の内側でも言えるのだ。とてつもなく大きな違いだけれど。

 ぼくたちはダンスを見ながらしばらく立っていた。それはフォークダンスみたいだった。といってもぼくはカナダとスウェーデンのフォークダンスしか見たことがないので、専門家じゃないけれど。ミュージシャンたちは演奏しながら踊っていた。バイオリンやほかの知らない楽器が奏でる音楽はおばあちゃんが住んでいるスウェーデンのダラルナのフォーク音楽とよく似ていた。おばあちゃんの家は数年行ってないけど、スウェーデンの真夏がどんなにすばらしいかよく覚えている。それと似ているけれど、ここでは酔っ払いもいないし、ケンカもない。

 ぼくは問いかけるような目でマヌルを見た。マヌルはクスクス笑いながらぼくの手をとると、ひらりと跳んでぼくをつれてダンスの輪に入った。気づくとぼくは柔らかい女性の手をとっていた。ぼくは笑みを浮かべた少女の周囲をまわっていた。いつまでも踊っていたかった。けれどもダンスを楽しむのはこれで終わりだった。わが「地底ガイド」がぼくの手を引っ張って外に連れ出したのだ。

「つぎに行かなくては」がっかりしたぼくの顔を見て笑いながらマヌルは言った。ぼくの喜びに輝く目の前をすばらしい風景が飛びすぎていった。そして村に到着した。いくつかの家があるだけだったが、どれもおなじ様式で建てられていた。ぼくはそれを蜂の巣様式と呼んだ。蜂の巣より丸くて屋根がなかったのだけれど。ここは雨も嵐も雪もないのだろうかとぼくは驚いた。

「ないね」マヌルはぼくの心を読んでそう言った。「ここでは一年中が初夏のような気候だ。いつも花が咲き誇っている」

「地上が雨や雪や嵐のときも、ここではそんなすばらしい天気だなんて、どういうことだろうか」ぼくは驚きを口にした。

「どこかからこっちの天候が地表ににじみ出るとでもいうのかい」マヌルはゲラゲラと笑った。彼が何を笑っているのか、ぼくにはわからなかった。ちょうど近くにベンチがあった。彼はぼくにそこに座るよううながした。地底の驚くべき天候について彼は説明してくれた。

「すべては信仰と関係がある」とマヌルは言った。「ここは完全に安全だと感じる。恐れも、心配も、邪悪さも、羨望も、嫉妬もない。完全な安全のなかで生き、永遠の力を信じることを学んできた。永遠の力によってわれわれはいつもここで助けられ、保護されてきた。マイナス思考は大気圏下層や成層圏を阻害するだけだ。天候のパターンは思考のパターンを反映しているのだ。

 地球の表面の破壊は気象学的な力が破壊的であることを意味する。調和的とは言い難い地球上の環境に影響を及ぼしている。宗教的な軋轢もある。お金やドラッグによってたきつけられた羨望や疑惑は、建設的ではなく、破壊的なのだ。ティムよ、地上で善と悪を秤にかけるとしたら、毎回善は負けてしまうだろう」

「なんという嘆き節でしょう」ぼくは信じられないというふうに叫んだ。「天気は人々がどう考えているかによる? たしかに天気は他の力によってパターン化されているんでしょうけど」(ぼくは国立気象局のことを考えていた。しかしこの文脈ではそれはあてはまらないと感じてもいた)

「われわれはここ大地のくぼみ(訳注;安全な場所の意)にいる」マヌルは笑いながら言った。「このこと自体が安全であることを物語っている。おまえは逆境に陥ってしまったのだが、だからといって、わたしたちの間にある分厚い地層を突き進むわけにはいかないのだ。われわれは文字通り、毎日、母なる大地に敬意を払い、感謝し、愛撫する。するとそのお返しに彼女はわれわれを守り、愛してくれる。地表居住者は、アガルタ(この地球内部の世界の名前)の住人のことを集中して考えるなら、心地よくなるだろう。そして憂鬱なとき、あるいは苦境に陥ったとき、ここからパワーをもらえるだろう」

「どうしてぼくたちはあなたがたのことを知らないのですか」とぼくは不意をついて聞いた。「あなたがたの存在を知らないのに、どうやってあなたがたと接触するというのですか」

「地表の人々と接する時期がやってきただ」答えは即座に返ってきた。「けれども異議と不和の種を植えようとする人々を勇気づけようとは思わない。長い間接触を断ってきたのはそういった理由からだ。ところで信仰する神についてはどうだろうか。世界中で仰々しく崇拝されているようだが。彼に対して祈り、彼のために戦争をし、彼について論議し、すべての非難を彼の足元に置く。それはどんな種類の宗教なのか。論理的だと考えるようだが、われわれはそうは思わない。だから地表の人々にはここに住んでもらいたくないのだ。特別に選ばれた人々やおまえのようにたまたまやってきた人々は別だが」

「ぼくは地表に戻りたいんだ。戻ってみんなにあなたのことを話したい」

 マヌルはうなずいただけだった。そしてぼくがベンチから立ち上がるとき、支えてくれた。

 この村は人影がまばらだった。子供たちが遊んでいたが、地表の子供たちと大差なかった。砂場があり、ブランコがあり、子どもたちを見守る親たちの姿があった。

 プールがあり、子どもたちが泳いでいた。プールはすばらしかった。それには滑り台のようなものがついていて、子どもたちがその上で遊んでいた。葉の多い植生に囲まれた小さな、砂だらけの滑り台になる斜面があり、子どもたちはそこを滑って水に落ちて楽しんでいた。ワクワクさせる、曲がりくねった石段があり、子どもたちははしゃいで上がったり下りたり、ときにはそれて草むらに入ったりした。子供たちは妖精の国のなかに生きているかのようだった。

「ここは子どもがあまり多くないんですね」とぼくは言った。子どもたちはどうやってここに来たのだろう、といぶかしく思ったが、あえて聞かなかった。マヌルははじけるように笑い出した。ふだんならぼくがそんな笑い方をするのだけれど。

「聞いてくれ、若い人よ」彼は激しく鼻を鳴らしたあと、話を再開した。「セックス教育の授業は必要か? 授業は地表とまったくおなじだ。でもここではそれを愛と呼ぶ。地表ではセックスを愛とはめったに呼ばないだろう。セックスは地表では堕落している。ここではもっとポジティブにとらえられ、尊重されている。そもそもここには結婚というものがない。そのかわりに、体と魂の結合があるのだ。結合を理由によくパーティが開かれる」

「不貞、間違い、不謹慎、離婚は……」とぼくはつづけた。

 マヌルの口からあぶくのように笑い声がはじき出された。「また悪くとらえているな、息子よ。これらの言葉はこちらの辞書には載っていない。地表では、人々は体だけのように生きている。一方、われわれははるかに高いレベルの意識を持った魂なのだ。しかし楽しみはここも地表もそれほど変わらないだろう。違いは、われわれが生涯を通じてともに暮らすということだ」

「何百年間も」ぼくはクスクス笑いながら聞いた。「いっしょにいたら、あきあきするでしょう。ほかのことをやってみたくなるはず。セックスにしても」

「なぜかはわからない」本当にマヌルは理解していないようだった。「それは愛とはまったく違った話だ。さあ、つぎに移ろう。テロスのシャスタ山の下で開かれるシンポジウムに出席しよう。かれらは地表居住者とディスカッションしている。私はおまえをつれて参加したいと考えている」

 ぼくは好奇心でいっぱいだった。たぶんそこから地表に行くことができるだろう。シャスタ山はたしかカリフォルニアにあるはずだ。ぼくの家はシアトル。シアトルまでのフライトはたくさんあるだろうけど、ぼくはお金を持っていない。いや少ししか持っていない。

「心配するな、息子よ。われわれはそれを解決することができる。もしおまえが家に帰りたくなり、みなが同意したら、そのお金を見つけることができる。ともかく、いまはひとつのことに集中しよう」

 ぼくはダンスを踊った信じられないほどかわいい女の子のことを考えていた。そして滞在するのもいいのではないかと思った。マヌルはぼくの考えていることを簡単に読み取った。ぼくのほうを目を細めて見て、ニヤリと笑った。

「あの娘(こ)の名はシシーリャだよ」


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