Ⅲ ナイル源流をめぐるアフリカ探検史
(7)月の山脈
「月の山脈」はおそらく二千年前から知られていた。2世紀のアレクサンドリア在住の『地理学』を著した大学者プトレマイオス(83?-168?)によれば、地理学者のテュリオス(現レバノン)のマリノス(70?-130?)の著作から、ナイルの源流とされるこの山のことを知ったという。この情報源はディオゲネス(犬儒派のディオゲネスとは別人)というギリシア人商人の報告だった。「月の山脈」の下に湖があり、いくつかの湖を経て流れ出した川がナイルなのだという。この記述が19世紀のナイルの源流を探し求める「アフリカの探検の時代」を生み出したのである。
赤道直下にありながら万年雪を戴くというのは、現代人でもにわかには信じがたい。つねに雲に覆われていて、その姿を拝める機会はめったになかっただろう。地元のバコンゾ族は当然雪の線までは到達していたはずだ。わたしが行った三十年前は、標高4200mが積雪ラインだった。その先は神の領域だった。
彼らの神話によれば、この雪(ンズルル)を創り出したのは創造主ニャムハンガ(Nyamuhanga)である。万年雪や氷河に覆われた各峰の領域は、精霊の父であるンズルル(Nzururu)と彼の子孫、誕生と生存の顕現であるニャビブヤ(Nyabibuya)、自然界とバコンゾ族の生命を管理するキタサンバ(Kitasamba)が住む世界である。
ナイル川の支流のひとつ、青ナイルの源流は比較的早く見つかっている。スコットランドの貴族ジェームズ・ブルース(1730-1794)は、1769年に紅海の港マッサワ(現エリトリア)に滞在し、1770年、アビシニア(エチオピア)の首都ゴンダルに到達した。そこで宮廷に迎えられたあと、南方のタナ湖に向かった。彼はタナ湖にそそぐ川の源をつきとめ、そこをナイルの源流とした。
実際、支流の源流まで数えていたら、大きな川の源流は無数に増えていくことになる。わたしも西チベットのインダス川源流とブラマプトラ川源流(両者は百メートルしか離れていない)に行ったことがある。しかし両者とも無数の源流のひとつにすぎないので、地理学的にはまったく意味をなさないことになる。青ナイルの源流はポルトガル人宣教師たちによってすでに発見されていた可能性もあり、発見そのものは高く評価されるものではなかった。
しかし彼の民族誌的著作5巻の『ナイル源流を発見する旅』(1790)は貴重な資料となった。また帰途に立ち寄って数か月を過ごしたセンナル(スーダン)のフンジ王国の記録もかけがえのない記録となった。ナイル源流の探索はこうして副産物を生むことになるのである。
ナイル川源流探索は、大英帝国の世界戦略の一環として19世紀に大きな意味を持つことになった。「カイロからケープタウンまで」というスローガンのもと、中央アフリカを知るべく、王立地理学協会と英外務省は、1856年にインド駐留軍に属する二人、リチャード・バートンとジョン・ハニング・スピークをアフリカに送ることにしたのである。
『愛と野望のナイル』(1990)という映画はこの時期の二人を描いた作品である。映画の原題はまさに<Mountains of the Moon>(月の山脈)であり、ナイル源流を探し求める歴史アドベンチャー映画だった。二人の間に最後、愛が芽生えるような描写には辟易したが、当時の雰囲気を教えてくれるという点ではとても役に立つ映画だった。
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