(8) スピークとバートンのナイル源流発見争い
1857年6月16日、バートンとスピークはザンジバル島を出発し、港のあるバガモヨから100人のポーターとともにアラブ人が切り開いた「奴隷と象牙の道」をたどって、135日後、ヴィクトリア湖南方のカゼに到着した。しかし途中でふたりともマラリアにかかるなど、体力を奪われる結果となった。最後のほうはふたりともともハンモックで運ばれていた。現代でさえマラリア予防接種が必要とされているのに、無防備の状態でアフリカ内部に入るのはいかに危険なことだったろうか。
カゼでしばらく休養した彼らは、首長から北方のそれほど遠くないニアンザ湖へ行くことをすすめられた。ニアンザ湖は現代のヴィクトリア湖だった。のちにナイルの源流と認定される(その後ヴィクトリア湖にそそぐ川の源流がナイルの源流とされる)ことを考えれば、惜しいことをしたともいえる。首長は白人たちの話を聞いて、ナイルの源流ならニアンザ湖だろうと直感的に考えたのかもしれない。
しかしバートンはもっと西方の湖がたくさんあるあたりへ行こうと考えていた。プトレマイオスの地図によれば、これらの湖へ流れ込む川はすべて月の山に発しているはずだからである。彼らは1858年2月、ウジジ湖(タンガニーカ湖)に達した。ウジジは昔から交易の要衝としれ栄え、とくに奴隷貿易の中継地点として知られていた。しかしヨーロッパ人がここを訪れるのははじめてだった。
ふたりとも体調を崩し、結局バートンはカゼに戻って静養することになった。一方スピークはひとりでタンガニーカ湖を探索した。しかし結局この湖が標高が772メートルしかないことがわかり、ニアンザ湖のほうに興味が移っていった。彼はカザに戻り、バートンを置いてひとりニアンザ湖へ向かう。ふたりの仲が決裂するのは目に見えていた。1858年8月、スピークはニアンザ湖南岸のムワンザに到着。眼前に広がる広大な湖を女王の名にちなんでヴィクトリア湖と命名した。彼は十分に確認を取らないままこの湖がナイルの水源であるとみなした。おそらく聞き取り調査で湖から北へ流れ出ていることは知っていただろう。
一方の置いてけぼりを食らったバートンはキリマンジャロこそ「月の山」であると主張し始めていた。プトレマイオスの地図を見る限り、月の山はアフリカ大陸の東側に位置しているように見えるからだ。ただ、湖沼地帯が中央アフリカにあり、白ナイルの上流がキリマンジャロにまでさかのぼれるようにはどうしても見えなかった。しかしともかくふたりで帰国の途に就いたのだが、途中のアデン(イエメン)でバートンは熱病にかかり、ここにとどまることにした。
1859年5月、スピークはひとりでロンドンに戻り、王立地理学協会でナイルの源流を発見したと発表した。しかし論拠が十分でなかったため、大きな論争を招くことになった。スピークとバートンの仲はもう修復不可能だった。スピークはナイル源流の発見者という名誉を手にしたが、証拠が足りないと考え、1860年9月、ジェームズ・オーギュスタス・グラントという新しいパートナーともにアフリカに戻った。ふたたびザンジバル島を出発し、カゼに到着。このときもグラントが病気になったため、スピークはひとりでヴィクトリア湖の探索を進めなければならなかった。
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