(9) サミュエル・ベイカー夫妻 

 1862年7月、スピークはついにヴィクトリア湖北岸に滝を発見した。彼は王立地理学協会会長の名にちなんでリポン滝と名づけた。グラントはそれ以前の探検においてヴィクトリア湖にそそぐ川、カーガラ川を発見している。ナイル源流は厳密に言えばヴィクトリア湖ではなく、ヴィクトリア湖にそそぐ川の源流ということになるので、この発見の意義は大きかった。

 当時、ハルツームの領事はジョン・パセリックという個性的な人物だった。王立地理学協会に頼まれて、ゴンドコロで、ボートなど探検に役立つものをスピークとグラントのために用意している。しかしスピークとグラントの到着が遅れたため、実際に会うことはできなかった。パセリック自身博物学者的なところがあり、探検家でもあった。同時に象牙貿易業者であり、奴隷貿易業者でもあった。

 もう一組の重要な「探検クラブ」のメンバーはサミュエル&フローレンス・ベイカー夫妻だった。1863年、王立地理学協会に依頼されて「行方不明」になっていたスピークとグラントを探しに現在の南スーダンにやってきた。ゴンドコロで彼らは会うことができた。スピークとグラントはブニョロ王国で再会を果たしていたのである。ベイカーはスピークとグラントからルタ・ヌジゲ湖のことを聞き、強く惹かれた。

 夫妻は苦労しながらようやくブニョロ王国の都ムローリに到着し、スピークの兄弟として、カムラシ王に面会した。「大きな水たまり(湖)に行きたいという希望がかえって猜疑心を生み、何か裏があるのではないかと王に疑われてしまったようである。この厳しい旅は報われ、彼らはルタ・ヌジゲ湖に到達し、ヴィクトリア女王の亡き夫アルバートの名をつけた。これでナイル川の水源が増えたように見なされたが、実際湖から川が流れ落ちるところは発見されなかった。

 サミュエル・ベイカー夫妻のように夫婦でアフリカ探検をするのは当然きわめて珍しかった。妻のフローレンスはハンガリー人だが、トルコで奴隷として売られているのをサミュエルが買い取ったのだという。白人奴隷はもともと少なくなかった。奴隷(slave)という言葉を見ればわかるとおり、スラブ人(Slav)の奴隷が多かった。フローレンスがなぜ奴隷として売られていたかはよくわからない。夫への愛と忠誠を誓った彼女は、寝室で夫を待つのではなく、ともにアフリカの奥地へ入っていくことを選んだのである。夫妻は1865年に帰国し、翌年66年にベイカーは探検記を出版した。大衆がこの冒険物語に熱狂したのはいうまでもなかった。



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