(10) 突然のスピークの死 

 少し時計を戻すと、1864年4月、スピークとグラントは南スーダンのゴンドコロで船に乗り、ナイルを下ってエジプトを経て、帰国の途に就いた。スピークはアレクサンドリアから王立地理学協会会長のマーチソンへ電報を打ち、そのなかで「ナイルの問題は解決した」と記した。ホメロスやヘロドトス以来解けなかった謎がついに解けたのである。ナイルの源流が発見されたというニュースは民衆を興奮させた。

 英国科学振興協会の毎年恒例の会合がはじまる前日の9月13日、リチャード・バートンと妻イサベルはバースのホテルにチェックインした。王立鉱水病院でバートンとスピークのディベートが行われることになっていた。15日、レクチャーホールに行くと、面変わりしたスピークが演壇上で待っていた。アデンで別れて以来、何年かぶりの再会だった。イサベルによると椅子に坐ったスピークは落ち着きがなく、様子がおかしかった。しばらくしてスピークは立ち上がり、よろめきながら「もうこれ以上耐え切れない!」と叫んで会場をあとにし、バースの東のネストンパークへ向かった。

 15世紀に創建されたネストンパークの当時の所有者はスピークの叔父ジョン・バード・フラーだった。家族は敷地内の大きな石造の屋敷に住んでいた。当日の午後2時半、バートン夫妻と別れてわずか一時間半後、スピークといとこのジョージ・フラーはネストンパークの広大な猟場を歩いていた。管理人のダニエル・デーヴィスはその様子を見ていた。フラーとデーヴィスはスピークの銃の扱いが雑であることを懸念していた。それはスピークらしからぬふるまいだった。スピークは銃を持ったまま低い石塀に上がろうとしていた。 デーヴィスが視線をそらしたとき、銃声が鳴り響いた。ウズラを撃ったのだろうと音の方向を見ると、フラーが必死の形相で走っていくのが見えた。フラーが駆け寄ると、スピークはハンティング用シャツの左脇から血を流し、倒れていた。そばには安全装置の付いていないランカスター銃が転がっていた。スピークは息絶え絶えに「わたしを動かさないでくれ」と言った。デーヴィスが駆けつけたとき、フラーは流れ出る血を止めようと手で胸を押えていた。スノーという名の外科医が呼ばれて駆けつけたが、もはや手の施しようがなかった。

 翌9月16日朝、何も知らないバートンは王立鉱水病院のレクチャールームでスピークが現れるのを待っていた。息が詰まりそうなほど人で埋まった客席の聴衆は、この世紀のディベートが始まるのを待ちきれなかった。近くの別の部屋では王立地理学協会の会合が開かれていた。そこに緊急の知らせが届いた。それはすべての人に回された。その知らせはようやくレクチャールームにも届き、バートンが見ることができたのは最後のほうだった。委員会のメンバーに沈鬱な空気が流れた。聴衆に発表するのはマーチソンの役目だった。

「遅れてしまっていることに対し、つつしんでお詫びを申し上げます。われらの親愛なるスピーク大尉が生命を落とされ……」この「生命を落とす」という言葉が聴衆にどれだけの動揺を与えたことだろうか。世紀のディベートが行われるはずの場は、世紀の探検家の訃報を知らせる場となってしまった。

 現代の感覚からすれば、死因を特定するのはむつかしいことではない。しかし当時の捜査では銃の暴発による事故死と考えるほかなかった。しかしスピークの当日の様子などから、自死の可能性も捨てきれない。あるいは自暴自棄なふるまいが事故を呼び寄せたのかもしれない。こうして思わぬ形でナイル源流をめぐる論戦のチャプターは終わることになった。

 スピークとバートンは共同で探検を行ってきたが、しばしばバートンを置き去りにし、スピークが単独で動くことがあった。それだけ見ると、スピークがナイル源流発見の功を独り占めしようとしているように見える。しかし実際は、バートンが病気にかかったり、ケガを負ったりすることが多く、仕方なく単独行動を行ってきたのである。

 損な役回りをすることが多いバートンだったが、じつはもっと広い視点から眺めると、バートンこそ主役にふさわしい人物だった。文化的業績ははかりしれず大きかった。たとえばリチャード・バートン版『千夜一夜物語』のリチャード・バートンとは、彼のことだった。彼は25の言語を解する語学の天才であり、若い頃からの知的冒険家だった。はじめ心霊主義に興味を持ち、その方面でいろいろな実験をしている。最初にESPという言葉を用いたのは彼だった。彼はイスラーム神秘主義のスーフィズムにも強く惹かれ、実践した。ムスリムの変装をし、聖地メッカを訪ねた。彼はつねに社会の常識にとらわれない人物だった。



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