(12) スタンリーが行方不明のリヴィングストンを探し当てる 

 リヴィングストンはムウェル湖の南方のバングウェウル湖がナイルの水源ではないかとにらんでいた。しかし確かめるべくニャングウェまでたどり着いたものの、そこで病が重くなった。ニャングウェがアラブ商人の中心地であったこともあり、結局彼はウジジまで戻されてしまった。その頃彼の死亡説が欧米に届くようになった。多くの人がすでに高い名声を得ていたリヴィングストンを探し出そうとした。『ニューヨーク・ヘラルド』紙はその一つだった。

 同紙の特派員ヘンリー・モートン・スタンリーは、私生児としてウェールズに生まれるが、18歳でアメリカに渡り、複数の新聞の海外特派員となった。イギリス軍のアビシニア遠征の従軍記者としてアフリカに渡り、ニューヨーク・ヘラルドのリヴィングストン捜索の呼びかけにすぐ呼応した。1871年11月、ウジジ村でのリヴィングストン発見の際の情景はいつまでも語り継がれることになった。

「リヴィングストン博士でいらっしゃいますよね(Dr. Livingstone, I presume?)」
そうです。ここであなたを迎えることができることに感謝しますYes, I feel thankful that I am here to welcome you)」

 スタンリーはリヴィングストンの病が重く、探検どころではないと見て、帰国をすすめたが、彼は首を縦に振らなかった。一度英国に戻れば、二度とアフリカに来られないことを承知していたのだろう。彼は最後の力をふりしぼって、単独でバングウェウル湖の調査に乗り出した。しかしチタンポ村で彼の生命の火は消えてしまった。わたしが驚くのは、彼の防腐処理の施された遺体がザンジバル島へ運ばれ、さらに海路はるばる英国に運ばれ、ウェストミンスター寺院に埋葬されたことである。



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