(13) スタンリー、ついに月の山脈発見 

 スタンリーはリヴィングストン物語の助演を演じるだけでなく、やはりナイル源流物語の主演のひとりである。1888年5月、彼は欧米人としてはじめてルウェンゾリの万年雪を見たのである。湖沼地帯にある雪山、これこそ伝説の月の山ではないのか。ナイルの源流とはみなされなくても、ナイル源流地域にそびえたつ高峰であることにちがいはなかった。

 もっとも、正確に言えば最初に月の山を見たのはアーサー・ジェフソンと軍医トマス・パークだった。1888年4月、彼らはアルバート湖に向かう蒸気船から月の山の雪を見たのである。同行していたザンジバル人の一部は、あれは塩に違いないと主張したが、ジェフソンもパークも同意しなかった。実際、それが塩であるなら、むしろそのほうが奇跡的な存在だった。なお、ジェフソンもパークもスタンリーのチームの一員だったので、スタンリーのチームが月の山を発見したといえば、まちがいではない。しかしスタンリーがジェフソンとパークの報告を意図的に無視した疑いは残ってしまう。

 じつはスタンリー・チームよりも前に、サミュエル・ベーカーとロモロ・ゲッシは万年雪を戴くルウェンゾリを見ているのだが、彼らは自分たちの目を疑ってしまった。「そんなものがあるはずがない」と論理的に考えてしまったのだ。せめて地元の人々に話を聞いていれば、「月の山」ルウェンゾリを発見した人として名を残したかもしれない。スタンリーがすぐれていたのは、雪山を見た瞬間にプトレマイオスが言及した月の山だと直感的に理解したことである。

 スタンリーは翌年自分の遠征隊の副官であるウィリアム・グラント・ステアーズにルウェンゾリに登るよう命じている。彼はセムリキ川の河岸からルエンゾリの北西面を登っていった。興味深いのは、同行したのはザンジバル人から選んだ40人だけだったことだ。ザンジバル人は、海は知っているが、山を知らないはずだ。一方地元のバコンジョ族はひとりも連れて行かなかった。おそらく山を聖域、とくに雪線より上を神域とみなす彼らは足手まといになるだけだと考えたのだろう。実際、登り続ける登山隊に対して、彼らは下の方から叫んだり、角を鳴らしたりして警告を発したという。「それ以上登るな、罰が当たるぞ」と言いたかったのだろう。

 彼はバコカ渓流を上って、標高3254メートルの地点に達した。そこから二つの雪峰が見えたという。彼はまた博物学者でもあったエクアトリアのエミン・パシャ(註1)のために、38種の植物を採集した。スタンリーの遠征隊はそもそも「エミン・パシャ救済遠征隊」(1887-1889)だった。

 未踏の地に入るのはいかにたいへんなことだったろうか。深い森のなかで道を失わず、湿地帯の道なき道を進まねばならない。最近の写真を見ると、湿地帯に板を敷いて尾瀬のような歩道が作られている。トレッカーをサポートするものが何もなく、前進するのに苦労したわたしのルウェンゾリ・トレッキングは、19世紀の探検の時代に半分属していたかのようだった。


註1:エミン・パシャ(1840-1892) 中流のユダヤ系ドイツ人の家庭の息子として現ポーランド領内に生まれたアイザック・エドゥアルト・シュニッツァーは、一冊の本に収まりきらないほどの数奇に満ちた人生を送った。医師として活動していた彼は1875年、カイロに姿を見せ、そのあとスーダンのハルツームに向かった。この時点で彼はメヘメット・エミンと名乗り、医療活動をしながら博物学者として植物、動物、鳥の標本をヨーロッパの博物館に送るようになった。

 1878年、エジプトのヘディーヴ(オスマン帝国の称号)はエミンをチャールズ・ゴードン(太平天国の乱鎮圧で名を挙げた将軍)のあとを継いでエクアトリア(サミュエル・ベーカーが1870年に建設した州で南スーダンの南部)の知事に任命し、ベイという称号を与えた。
 1881年頃からスーダンでイスラム教徒の反乱が起こった。英国はハルツームのエジプト軍に撤退を命じたが、動きが取れないので、1884年にゴードン将軍をハルツームに送った。しかしゴードン将軍の部隊はイスラム教徒軍によって殲滅されてしまった。

 1885年、スーフィー系のマフディー運動の軍隊はエクアトリアに迫り、エミンはアルバート湖の北のワデライに避難した。そのあとの三年間、エミンの動静はまったく外に出なくなった。窮地に追い込まれていると思われたエミンを救うために、コンゴ川のほうからやってきたスタンリーの遠征隊は、難関のイトゥリの森を抜けてアルバート湖に達し、ようやくエミンと会うことができた。エミンはそのときエクアトリアにおいて何の権限も持っていなかった。彼の白い制服の精鋭部隊は反乱を起こし、マフディーのダルヴィーシュ軍団は北方から攻め込んできていた。それでもエミンはスーダンを離れようとしなかったが、1890年、最終的に従者とともにエクアトリアをあとにして、バガモヨに到着した。

 その後エミンはドイツ東アフリカ会社の仕事を請け負うようになり、遠征隊に参加してアフリカ内陸部に戻ったが、1892年、ニャングウェの近くでアラブ人奴隷商人に殺されてしまった。アラブの奴隷商人たちは欧米人が奴隷売買の妨害をしていると信じていたのだ。




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