(18) ルウェンズルル王国の独立宣言と虐殺 

 1962年6月30日、すなわちウガンダの独立(1962年10月9日)の3か月前、イサヤ・ムキラネをオムシンガ(国王)とするルウェンズルル王国の独立が宣言された。しかしこれでストーリーが完結するわけではなかった。1963年、64年とトロ王国の兵士によるバコンゾ族とバアンバ族の虐殺が始まるのである。そこへウガンダ軍が仲介に入る。しかしそれは仲介というよりルウェンズルル運動の弾圧だった。このウガンダ軍の核となったのは、ウガンダ国軍第一部隊である。すなわち、外国軍に対するかのように、本格的な国軍の主力を投入したということになる。

 ウガンダ・タンザニア戦争(1978-79)のあと、ウガンダのアミン政権が倒れると、そのどさくさに紛れて、ルウェンズルルの戦闘員たちはウガンダ軍が放棄した武器・物資をかっさらった。思わぬことから彼らは軍隊をパワーアップすることができたのである。

 1982年になると、思いがけず、オボテ大統領政権はルウェンズルル運動のリーダーたちに話し合いによる問題解決を提案してきた。ルウェンズルル国に十分な自治、そして経済的、教育上のメリットを与え、バコンゾ族とバアンバ族に政府のポストを用意しようというのである。

 しかしここにアモン・バジラという才能ある特異な人間が現れる。彼はバコンゾ族の支族バニャビンディ族出身で、ルウェンゾリ山南麓で育ち、キトルやブウェラの学校に通い、マケレレ大学で政治科学や哲学の学位を取った。また英国の通信教育によって国際法の二級学位を取得した。ユスフ・ルール大統領政権下で情報局副長官に任命され、国勢調査を実施した。彼はアミンの独裁政治の時代もダルエスサラームに亡命しているウガンダの社会主義者やリベラル派と会うことができた。彼はルワンダで虐殺が起きることを予知し、そのために難民保護について提案しているが、そのことは彼がいかにすぐれた情報ネットワークを持っていたかを示している。またマイナーな部族に属したことから、のちにルウェンズルル分離独立主義のリーダーとなっていった。

 アモン・バジラは1988年、反政府組織NALU(ウガンダ解放国民軍)を結成する。彼はケニアやザイールに支持と経済的援助を求めている。しかし1993年、彼はケニアで、おそらくウガンダ政府の送った刺客によって暗殺された。



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