ヤングハズバンドとノトヴィッチの一瞬の出会い
想像上の地図の上に、赤線と青線を引いてほしい。ロシアや中国のほうから南下してきた武勇の旅人の赤線と、インドやアフガニスタンのほうから北上してきた謎めいた旅人の青線が、カラコルム山脈とヒマラヤ山脈を結ぶ山なみのある一点で交わった。
1887年のことである。
満州から北京をへてゴビ砂漠を渡り、海抜6千メートル余りの難所ムスタグ峠を越えて現パキスタンのバルチスタンに入り、カシミールを目前としたゾジラ峠にさしかかったのは、「グレート・ゲーム」時代(アフガニスタンを中心とした中央アジアにおける大英帝国とロシア帝国の覇権争いをチェス盤に見立てたもの)の大スターとなる若き探検家にして軍人、フランシス・ヤングハズバンド(1863−1942)だった。
一方ラワルピンディからカシミールを通り、ラダックをめざしてゾジラ峠にさしかかったのは、われらの主人公のひとり、クリミア半島出身のユダヤ系ロシア人(ロシア正教に改宗していた)ジャーナリスト、ニコライ・ノトヴィッチ(1858−1916?)だった。
ヤングハズバンドとノトヴィッチという数奇の星のもとに生まれた二十代の二人がこの凍てついた美しい峠で偶然に出会うとは、なんという星の巡り合わせだろうか。
ノトヴィッチと出会う前、ヤングハズバンドはスカルドゥ(バルチスタンの都)を過ぎたあたりでドーヴェルニュというフランス人と出会った。
高峰K2近くの危険な氷河を踏み越えたばかりで疲労が極限に達していたためか、同国人に会いたいという気持ちが強くなっていた。もう7か月も英語を話す機会がなかった。フランス人で悪くはなかったが、英国人と話をしたかった。
ノトヴィッチを最初に見たとき、一瞬英国人かと心を躍らせたが、対面したときロシア人と聞いてやや落胆した。ヤングハズバンドの目には、のちの印象が加味されているのだろうが、ノトヴィッチは胡散臭い人間に映ったようだ。この出会いそのものは、彼にとって興味深いものだった。別れ際、ノトヴィッチが「東洋のふたりのパイオニア、ここに別れる!」と舞台上であるかのように仰々しく宣言したことを珍しそうに記している。
ゾジ峠で別れたあと、ノトヴィッチはラダックで「世紀の大発見」をすることになる。その寸前に会ったのだから、この奇遇をもっと喜んでもよさそうなものだが、ヤングハズバンドは著書に「ノトヴィッチが発見したと称する文書は信用するに値しない」と素っ気なく記した。東洋学の泰斗マックス・ミュラーがその発見を捏造として批判していたので、ヤングハズバンドもそれにならったのだろう。
ヤングハズバンド卿(のち爵位を得てSirの称号で呼ばれるようになる)は探検家でありながら軍において立身出世を果たした人物である。その名を後世にまで残すことになったのは、1904年のチベット遠征を指揮したからだ。たんなる遠征隊のはずだったのに、英国軍は数百人、一説には数千人のチベット人の命を奪う大虐殺を引き起こしてしまう。現在なら戦争犯罪人として裁きを受けていたかもしれない。いまも、チベット自治区のギャンツェなどに行くと、英国軍の残虐ぶりを示す展示を見ることができる。チベットにおける中国の人権侵害を問題にしようとするとき、中国政府はこの行為を盾にして西側諸国に対抗しようとする。
ヤングハズバンド卿は帝国主義者としての表の顔とは別に、元祖ニューエイジ的な側面をもっていた。
宇宙線(当時は宇宙にみなぎるエネルギーと考えられた)のパワーを信仰し、アルタイルという星(牽牛星)には半透明の肉体をもつ異星人がいると信じていたという。(パトリック・フレンチ『ヤングハズバンド』)
ヤングハズバンド卿は陸軍将校であり、チベット行政長官などの要職を歴任した。探検家としても若くして王立地理学会のメンバー入りを果たしている。こうした輝かしいキャリアに加え、心霊学にのめりこんだ博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスや作家コナン・ドイルのように、ミステリアスな(言葉をかえるならあやしげな)分野にも挑む多面性は魅力的である。だからこそ他の帝国主義者と違って現在まで記憶されているのだ。