(5)マグダラのマリアが本当に愛したのは 

 『子羊』の後半、とくに「受難」の章は、もはやユーモア小説ではなく、臨場感あふれるサスペンス小説へと変貌している。ラザロをよみがえらせる奇跡を行う頃には、ヨシュアは危険人物とみなされるようになっていた。ヨシュアを捕えて裁判にかけるという筋書きを書いたのは、サンヘドリン(最高議会)のメンバーであるマギーの夫、ヤカンだった。マギー、すなわちマグダラのマリアが本当に愛していたのは、本書の語り手であるビフだった。ビフはイスカリオテのユダを追跡し、追い詰め、その際にみずからも崖から落下し、命を落とすことになる。現世ではふたりの愛は成就することがなく、天国においてふたりは結ばれる。

 そこはビフでなく、ヨシュア(イエス)であるべきではないか、と多くの人は考えるかもしれない。キリスト教の権威がマグダラのマリアを伝統的に売春婦とみなしてきたのに対し、ニューエイジ世代は彼女をイエスの妻ではないかと考えたがった。しかし聖書を読むかぎりでは、売春婦や売春婦上がりではないにせよ、妻という決定的証拠もまた得られないのだ。

 作者は後記でつぎのように言う。

「1世紀のユダヤ人社会に生きたマギーは、12歳で婚約し、13歳で結婚しただろう。そしてユダヤ人少年は10歳までに交易のことを学び、13歳で婚約し、14歳で結婚しただろう」

 そうすると(作者が述べているわけではないが)イエスが結婚していたなら、30歳のイエスは、結婚してから16年がたっていたことになる。子供がすぐに生まれていたら、その子は大きくなって結婚をし、子供を産み、イエスはおじいちゃんになっていたかもしれない! 青年イエスでもなかなかイメージできないのに、おじいちゃんイエスだなんて、想像がつくだろうか。

 聖書には、おじいちゃんイエスを示す何のヒントもなく、既婚者である証拠も見出すことができない。では一度も結婚したことがなく、子もなく、十代の頃から修道士のような生活を送っていたのだろうか。それよりもむしろ、インドやエジプトで哲学を学んだり、修行したりしていたのではないか、と考えたくもなるのだ。




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