ダライ・ラマ「仏教とキリスト教は似ている」
ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダ、そしてヨガナンダら19世紀から20世紀にかけてのインドで輝きを放った「賢者たち」が求めた普遍宗教という概念は、現在に至るまで継承されている。それを受け継いでいるのは、ラーマクリシュナ・ミッションやセルフ・リアリゼーション・フェローシップといったワールドワイドな組織である。
直接的な継承者以外にも、ダライ・ラマ14世やティク・ナット・ハンといった仏教の指導者にもその精神は活きているといえるだろう。彼らはとくにキリスト教と仏教という異なる宗教を超えたところに真理があることを示してきた。
ダライ・ラマはブッダとイエスはよく似ていると語る。
仏教とキリスト教といった、長い歴史のある宗教を比べると、キリスト教ではイエス・キリスト、仏教ではブッダというその創始者の物語が、驚くほどよく似ていることに気がつきます。この二人の教祖の人生そのもの、また彼ら二人の教えのエッセンスに、きわめて重要な相似があると思います。たとえば、ブッダの教えのエッセンスは「四つの聖なる真理」である「四聖諦」としてブッダの人生に体現されています。すなわち、苦しみの真理、苦しみの原因の真理、苦しみの止滅の真理、この止滅へ至る道の真理です。この四つの聖なる真理は、教えの祖であるブッダ自身の人生にありありと体現されています。これは、キリストの人生においても同様だと思います。イエスの人生を見てみると、その中に、キリスト教の本質的な実践や教えがすべて体現されているのではないですか。もう一つ似ていると私が思うのは、苦難や献身、専念、そして信念を曲げないで守り通すことによってしか、人は霊的に成長できないし、解き放たれることもないのだ、とイエス・キリストとブッダの人生がしめしていることです。これは、二つの宗教の教えの中心をなす、共通のメッセージだと思います。(『ダライ・ラマ、イエスを語る』)
ダライ・ラマはすこし踏み込んで、仏教のカルマという概念がキリスト教にも受け入れられるかどうかについて発言している。
『福音書』の中で、イエスは「わたしは世を裁くために、来たのではない。わたしの語った言葉が、その者を裁く」と言っておられますね。これは、仏教のカルマ(業)の考え方とよく似ていると思います。自分が経験しなければならないこと、自分が知らなければならないことに、審判を下す自律した存在が、「どこかよそに」いるわけではなく、そうではなくて、因果の法則それ自体に、真理が含まれているのです。道徳的できちんとした行動をとれば、望ましい結果を得られますが、悪い行いや他に害をなす行いをすると、その行為がもたらす結果を引き受けねばなりません。因果の法則の真理そのものが裁きであって、裁きを与える人や存在が、よそにあるのではありません。(同上)
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