ティック・ナット・ハン「イエスはブッダのように菩提樹の下で瞑想した」 
                                                 宮本神酒男 

 ベトナム・フエ出身の禅僧・平和活動家で、世界的なベストセラー作家でもあるティック・ナット・ハンは、「瞑想するイエス・キリスト」という「インドのイエス伝説」そのものともいえる姿を思い描く。といってもイエスがインドにまで来て瞑想を学ぶ必要があると、ティック・ナット・ハンは言っているわけではない。学ぶべき場所である「家」は、われわれの内にあるのだ。 

 瞑想というのは、深く見ること、深く触れることです。そうしてわれわれはすでに自分が「家」にいることを理解します。われわれの「家」は、手に入れることのできるまさに今、ここにあるのです。(『帰郷 兄弟としてのイエスとブッダ』)

 そしてティック・ナット・ハンは、イエスが瞑想によって悟りを得たという考えを披歴する。

 イエス・キリストは瞑想を実践しました。バプティスマのヨハネがイエスに洗礼を施したとき、それによって人間のイエスの中に聖霊が生まれた、あるいは顕現したのです。それからイエスは山へ行き、40日間の隠棲生活を送りました。そしてイエスは瞑想をおこない、聖霊の力を強めて全体的な変容をもたらしたのです。イエスがどんな座位でもって瞑想をおこなったか記録されていませんが、座しての瞑想のほか、ウォーキング瞑想も実践したであろうと確信しています。そして「深く見る、深く触れる」という瞑想をおこない、彼の中の聖霊に力を補給したことでしょう。おそらくブッダのように菩提樹の下に坐ったでしょう。

 イエスは喜び、幸せをもたらし、他者を癒す能力をもっていました。というのも彼の中にはエネルギーがあふれていたからです。われわれは皆自分の中に聖霊の種子をもっています。われわれ仏教徒のあいだではそれを仏果と呼びます。気づきという言葉をわれわれは使ってきました。気づきはエネルギーであり、それによって泰然としていられるのです。すなわち「深く見る、深く触れる」ことができるのです。そうしてわれわれは自分たちが我が家にいることに気づき、理解するようになるのです。(同上) 

 この「深く見る」とは、サンスクリット語のヴィパシャナー、すなわち上述のパーリ語のヴィパッサナー(観行瞑想)のことであり、洞察を意味する。われわれは集中力を高めて何か、あるいは何者かを見ることで、観察する者と観察されるものとのあいだの境界線が消えていくという経験をするのだ。

 「あいだにあるもの」の本質を見ることで、われわれ自身と他者とのあいだの障壁が消えていきます。そして平和、愛、理解が可能となるのです。理解があるところに慈しみは生まれるのです。(『生けるブッダ、生けるキリスト』) 

 こうしたことを理解することによって、仏教徒とキリスト教徒も違いを越え、真理を分かち合うことができるとティック・ナット・ハンは考えているのだ。

 ひとつの花が「非・花」の成分でできているように、仏教は「非・仏教」の成分からできていて、それにはキリスト教の成分も含まれているのです。キリスト教にもおなじことが言えます。キリスト教は「非・キリスト教」の成分からできていて、それには仏教の成分も含まれているのです。われわれは異なるルーツ、伝統、物の見方をもっていますが、愛、理解、受容を分かち合うことができるのです。(同上)

 ここにラーマクリシュナにはじまる普遍宗教という考え方が結実しているというのは言い過ぎだろうか。

 

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