ブッダなしにはキリスト教徒たりえなかった      宮本神酒男 

 「普遍宗教」を求める人々に感化されたわけではないだろうが、神学者のポール・F・ニッターは宗教の多元性を探ってきた。これは平たく言えば、キリスト教以外の宗教にも価値を見出そう、ということである。当然、この宗教多元主義にたいし、キリスト教内部から反発の声が起こった。激しく批判した中のひとりには、のちローマ法王ベネディクト16世(在位2005419日―2013218日)となるヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー司教も含まれていた。

 ニッターの『ブッダなしにはキリスト教徒たりえなかった』(2009)はそんな異端的神学者が放った、静かな、しかし大きな波紋を広げた著作である。信仰が揺らぐことはあったにしても、ニッターがキリスト教を捨てることはなかった。しかし何度もキリスト教に疑義を抱くことがあった。彼によれば、信仰のつまずきのもととなるのは、イエスが救世主であるとされるまさにその点だという。

 われわれはいったい何から救われるのか? イエスはどうやってわれわれを救うというのか? そういった質問をわれわれは投げかけずにはいられません。その問いにたいする昔からの答えは、われわれの人生経験や常識からずいぶんとかけ離れているように思われるのです。

 われわれは罪から救われる。これが一般的な答えでしょう。しかしそれはもともとのだれかが犯したヘマのおかげで、まるでバッターボックスに入ったとき、すでにストライクが2球入っていて、追い込まれているようなものです。

 ニッターは、どうやらイエスが救世主であることに納得がいかないようだ。キリスト教徒としては大問題である。それどころか彼はブッダこそ救世主ではないかと考えるようになっていた。

 私は告白しなければなりません。(イエスよりもむしろ)ブッダがどうしても救世主に思えてならないのです。彼のメッセージや生涯はイエスとかなり異なります。彼は最終的に信者の人生を変えてしまいます。そうやって変えられた人々は平安を得ることができるのです。そして他の人々とも平安を分かち合うことができるのです。

 救世主という概念を体現しているのは菩薩(ボーディサットヴァ)である。菩薩という存在と役割を「砂漠で道を失った4人」というたとえ話でニッターは示す。

 水なしに何日間も酷暑の砂漠をさまよった4人の男たちは、高い壁に囲われた地域に出ました。彼らが懸命に駆けて壁の上に出ると、向こう側には水とフルーツがたっぷりとある緑豊かなオアシスが広がっていたのです。彼らのうちの3人は壁からジャンプして、この砂漠のニルヴァーナへ向かって走っていきました。しかしひとりだけは踵を返し、このオアシスについて教えるため、人々のところへ戻っていったのでした。彼こそがボーディサットヴァ(菩薩)です。彼は自分自身のためにニルヴァーナを得ようとするのではなく、他者と分かち合いたいと思っているのです。

 菩薩というのは、ブッダ(悟りを開いた人)になることができるが、その手前で立ち止り、他の人々、すなわち衆生を救おうとする存在である。ニッターにとっては、菩薩のような救世主こそが本当の救世主に思えてならなかったのだ。

 では、キリスト教徒をやめて仏教徒に転向してはどうか、という陰口が聞こえてきそうである。実際、神の名前は多々あれど、実体の神はひとつであるとするジョン・ヒックやカール・ラーナー、ハロルド・ネットランドらの宗教多元論には批判があいついだ。

 ニッターはそうした批判にたいし、「キリスト教徒の井戸で仏教徒のつるべを使う」という巧みな表現で反論する。この井戸は、キリスト教の神秘主義的な側面を深く掘ったものだ。それは「不二」の境地へと達する。そこでは父なる神と合一し、キリストの生を生きる体験を味わう。われわれはそこにおいて「霊によって、霊とともに、霊の中で」生きるのである。

 この井戸の比喩にたいしても、同僚らは「フットボールのやりかたで野球をやるようなものだ」と批判した。ニッターは答える。

 たしかに、キリスト教徒と仏教徒が求めるものは違います。キリスト教徒にとってそれが「キリスト・霊」との合一なら、仏教徒にとっては「仏性を悟ること」でしょう。しかしこの両者の体験は異なるとしても、共通するものがあります。それは合一的で、不二の神秘主義的体験なのです。

 こうしてノトヴィッチがラダックで「発見した」疑惑のイッサ文書にはじまり、インドのイエス伝説を追い求めていくと、ヒンドゥー教思想家の唱える普遍宗教へといざなわれ、ついには異端的キリスト教神学者の宗教多元論に行きついた。要は、真実へ向かう道はいくつもあり、多くの人がその発見に挑んできたということなのだ。イエスがインドに来て学び、修行したという伝説は、そうしたわれわれの真理への渇望のあらわれと言えるのではなかろうか。

 

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