6章 イスラム版イエスのインド伝説 (1)宮本神酒男 

ミルザ・グラーム・アフマド お騒がせメシアの誕生 

 ハズラト・ミルザ・グラーム・アフマドは1835年、インド・パンジャブ地方のカーディアンに生まれた。双子だったが、妹は数日後に死亡した。

当時は激動の時代だった。シーク教徒軍がカーディアンに侵入してきたのは1802年のことである。85の村を所有していた領主のミルザ家(当主は父ムルタザ)はカーディアンから追われて難民となってしまう。1834年、マハラジャのランジット・シンから許可を得てミルザ家はもといた領地に戻ることができたが、取り戻すことができたのは5つの村にすぎなかった。

1839年にランジット・シンが没すると、シーク帝国は瓦解をはじめ、その隙に乗じるかのように英国がパンジャブ地方に勢力を伸ばしてきた。英国の支配下でミルザ家は領地回復に努め、ニコルソン将軍から心強いサポートを得ることができそうだった。しかし1857年にインド大反乱(セポイの反乱)が起こり、ニコルソン将軍は死亡し、混乱のなかで努力の成果は水泡に帰してしまった。ミルザ家は二度ともとの栄光を手にすることはなかったが、英国から特別待遇を受けることはできた。

没落したとはいえ、グラーム・アフマドは地方の名家(ラジャと呼んでもいいだろう)という裕福な境遇に生まれ育った。いわばボンボン育ちだったのだ。当時学校はなかったので学校教育とは無縁だったが、何人もの家庭教師を雇っていたので、彼は高度な教育を受けることができた。医師でもあった父ムルタザからは医学も学んでいる。

のちに開祖と言われるほどの人物になったのには、尋常ならざる豊富な読書体験が生かされたようである。コーランのほか、彼はルーミーやムハンマド・アル=ブハーリー、ダライル・アル=ハイヤト(祈祷集)、タズキラトゥル・アウリア、フトゥフル・ガイブ、サファルス・サアーダトなどを好んだという。彼は聖書やシーク教の聖典にも通暁するようになる。

 17歳のとき彼はフルマット・ビビと結婚した。親の取り決めによる愛のない結婚だった。二人の子供をもうけるが、妻は子供をつれて家を出てしまう。それからグラーム・アフマドは26年間も独身生活を送った。

 彼は啓示を受け取った。「汝はわが贈り物に感謝せよ。わがハディージャを見つけることだろう」

 ハディージャとはムハンマドの最初の妻の名だった。(ハディージャは15歳年上で未亡人だった) 啓示から3年後の1884年11月、彼はヌスラト・ジャハン・ベグムと再婚した。「年の差カップル」ではあったが、4人の男の子、2人の女の子に恵まれた。

 当時彼は肺結核から回復したばかりであり、糖尿病と偏頭痛を患っていて、健康な体とは言い難かった。彼は大のスイート好きで、とくにライス・プディングには目がなかった。新妻は夫に喜んでもらおうと通常の4倍の砂糖を入れてライス・プディングを作ったところ、砂糖ゼリーのようなしろものができてしまった。それでも夫は喜んで食べたという。このような他愛のないエピソードから、グラーム・アフマドのつかの間のやすらぎを感じ取ることができる。しかしこれ以降の彼の晩年は、ライバルや敵とのやむことのないバトルの連続だった。


*アフマディヤ派の統合本部は、1947年のパキスタン独立以降、インドのカーディアンからパキスタンのラブワに移った。その際にダルヴェーシェと呼ばれるメンバー313人が、アフマドの墓を守るためにもカーディアンに残った。313人というのは、ムハンマドの313人の少数軍隊がバドルの戦い(624年)で大軍に勝った故事に由来する。313という数字はイスラムの勝利の象徴なのである。 (⇒ 参考「アフマディ没後のアフマディヤ派」) 





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