G・W・カーヴァー伝
奴隷から科学者になった男
ジャネット&ジェフ 宮本訳
02 問い
八歳になったジョージは立ったまま静かに母の糸車のスポークを回した。集中しているスーザンおばさんの邪魔をしないよう彼は息をひそめた。スーザンはジョージの母メアリーについて話すことはほとんどなかった。メアリーについて語ろうとするたびに、言葉を口にする前からスーザンおばさんはむせび泣きを抑えることができなくなった。しかし今朝は違った。いくつかの理由からスーザン・カーヴァーは心の準備ができていて、ジョージに、ある晩、ブッシュワッカーたちが農場を襲い、彼と母親を連れ去ったことについて語ることができた。
スーザンが事の次第を話し終えたあと、ジョージはやさしくたずねた。「そのあとママからは連絡があったの?」
スーザン・カーヴァーは首を振った。その青い澄んだ目は涙でいっぱいになった。「いいえ、最悪の事態も考えられるわ」と彼女はこたえた。「南北戦争のあと奴隷は解放されたはずなのに、あなたのお母さんは戻って来なかったの。そうしようと思えばできるはずなのに」
ジョージはうなずいた。スーザンおばさんは質問に答えたかったのに、彼はこれ以上尋ねたくなかった。背負い込んでいる重荷でジョージは前かがみになっていた。母はもういない。父は死んでしまった。ジョージが生まれた家の隣の農場で木材を切り出しているときに事故で死んでしまったのである。どう考えてもジョージの家族と呼べるのは十歳の兄ジムとカーヴァー家の家族だけだった。正式ではないが、奴隷解放宣言が発布されたとき、彼らはこの兄弟を養子に迎えたのである。
「ぼく、行って植物の世話してもいい?」ジョージはようやく尋ねた。
「ええいいわよ」スーザンおばさんはこたえた。目の端にはまだ涙が残っていた。
ジョージは暖かい春の日差しの中、外にいるのがうれしかった。彼の頭は奴隷制やある種の人々に関するまとまりのない考えや疑問でいっぱいだった。彼らは犬や馬であるかのように女を盗む人々だ。中庭を横切るとき、ジョージは自分を胸に抱いている母親が引きずられていき、ブッシュワッカーの馬に乗せられたのがまさにここであることに気がついた。母親は略奪され、二度と見られることも、消息を聞くこともなかった。思いは強烈であり……痛々しかった。ジョージは急いで横切った。母親の誘拐の話は耐えがたく、彼の心をかき乱した。
ジョージは耕したばかりの田んぼの端を歩き、焦げ茶色の土に1インチの高さのキャベツを植えているモーゼスおじさんとジムに手を振った。田んぼの向こう側に立つ大きな栗の木を見ながら左に曲がり、森のほうへ歩いていった。母親がブッシュワッカーに連れ去られたという記憶が心をかき乱していたが、次第に収まっていった。できごとをめぐる疑問が渦巻いていた心も落ち着きを取り戻した。おだやかになり、いつものように森の中へ歩いていった。
森はジョージの秘密の世界だった。どこよりも愛する場所だった。ときおりジョージは野生の七面鳥を追っていったり、ひなが孵ったばかりの瑠璃コマドリの巣を覗き見るために木に登ったり、見慣れない形の岩を探しに水路の中を歩いたりした。何よりも好きだったのは、新しい植物を探して自分のコレクションに加えることだった。それは文字通りコレクションだった。森の中の半円形の開けた場所に菜園を作り、見つけた新しい植物をひとつずつ植えたのである。野生の中で植物がどんな条件を好むか彼は正確に知っていた。そして菜園の中でできるだけマッチさせようとしていた。陰で、あるいは太陽の下で、掘った穴の中で、小さな盛り土の上で、彼は植物を育ててみた。
ジョージは弱冠8歳だったが、ニュートン郡あたりではすでに名声を得ていた。彼は「小さな植物博士」として知られていたのだ。カーヴァー家の友人や隣人はしばしば病気にかかったり死にかけたりしている植物をジョージのもとに持ち込んできた。黄色がかった木の葉や奇妙な黒い斑点が出たり、小さなダニが食い荒らしたりした茎などである。ジョージはそれぞれが強さや健康を取り戻す試みにチャレンジするのが好きだった。植物の世話をするのに努力しすぎるということはなかった。冬の間彼は森の中の空き地に溝を掘り、そこに植物を入れた。溝の上に板を置いたので、植物が凍ることはなかった。晴れた日には空き地に行き、溝から植物を出して日光のもとにそれらを置いた。
ジョージにはすばらしい思い出があった。植物や動物、昆虫について細かいことまで記憶していた。彼にはよい記憶力が必要だった。なぜなら彼は詳しく書き記すことができなかったからである。といっても紙やペンを持っていないのではなかった。単純に読み書きができなかったのである。ジョージは学校に行ったことがなかった。1マイルと離れていないローカス・グローブに教室が一つだけの学校があった。しかしこの学校は白人の子弟向けだったので、ジョージが通うことはできなかった。
読み書きができないことは、ジョージにとってはかりしれないほどのフラストレーションとなった。少年の頭は植物、動物、昆虫に関する問いでいっぱいだった。読むことさえできればこれらの問いに彼自身が答えられるのは間違いなかった。
モーゼスおじさんは実用的なことはたくさん知っていて、実際ジョージに教えることもあったが、読み書きについては教えることができなかった。ジョージはモーゼスおじさんが蜜と蜂パンの香りで蜂をおびき寄せ、蜂が蜂の巣に戻るのを追跡するところを観察していた。モーゼスおじさんが蜂の巣を見つけたとき、巣の入っている木を伐採して巣を分離させた。彼はこうして50の活発な巣を集めた。今やこれらはカーヴァー家に十分な蜂蜜を生産しているのだ。
モーゼスおじさんは猟犬の育て方を知っていた。彼はそれを狩猟犬として郡内の金持ちに売っていた。彼はまたジョージが見たなかでもっともまっすぐに溝を掘り、耕すことができた。
スーザンおばさんもまた賢い人だった。彼女は羊毛と亜麻から糸を紡ぎ、糸を織って布片を作り、布片を縫製して衣服を作った。彼らはこうして自家製の衣服を着たのである。彼女はまた冬の間モーゼスが納屋でなめした馬皮や牛皮から靴を作り出した。
実際カーヴァー家の人々が作り出せない実用品はなかった。農場で作れない唯一のものは砂糖とコーヒーだけだった。そこで彼らは野菜や蜂蜜とこうした日用品を町の人々との間で交換したのである。
こうしたことをモーゼスとスーザンから学んだにもかかわらず、心の中には答えられない疑問が湧き出ていた。なぜ空は日暮れ時、赤くなるのか。なぜクリークで捕まえたウナギの年を言い当てることができるのか。なぜ草は樫の木の下では育つのに、松の木の下では育たないのか? ジョージはこれらの答えを知りたかった。何百ものほかの疑問の答えもほしかった。
新しい植物の根に引っ掛かってつまずいたとき、そのあたりを掘りながらジョージは問題について考えた。スーザンおばさんは読むことができる。ではおばさんに読み書きを教えてくれるよう頼むべきだろうか。しかし彼女に何かを頼むのは気が進まなかった。といっても彼が頼みごとをするとき、彼女が陰険で不親切だというわけではなかった。彼女はいつも忙しかったのだ。モーゼスおじさんも忙しく、おじさんとおばさんはジムとジョージにも忙しくしてほしいと願っていた。農場に関するすべての仕事を与えられて、読み書きを学ぶことがモーゼスおじさんが警告したように「どうだっていいこと」になるかもしれないとジョージは心配した。
ジョージは森の中を歩いて戻りながら、一歩ごとに止まって身をかがめ、動物の足跡や鳥の羽根、虫などをよく調べた。そしてスーザンおばさんに読み書きの習得について聞くべきだと確信した。歩きながら彼はおばさんに対してどう話すべきか、大きな声で練習してみた。彼はしゃべるときにひどくどもってしまうからである。それだけでなく、赤ん坊のとき肺が弱く、咳き込みがちだったせいか、とくにナーバスになったとき、自分の声が裏返ってキンキンすることを知っていたのである。それだけにいっそう熱を込めて練習をした。
うれしいことに、スーザンおばさんは読み書きを学びたいというジョージの熱望を理解してくれたようだった。「そうねえ」彼女は編み棒を置きながら言った。「どこかそのへんに古いスペル・ブックがあったかと思うわ」彼女は部屋の隅に置いてあったトランクのところまで歩いた。ジョージの心臓は高鳴った。そんな宝物がこの家の中に隠されていたなんて。
スーザンおばさんはすぐにすり切れた、ページの端が折れた青い本を引っ張り出してきた。「この本が助けになるかもしれないわ」と彼女は言った。「これ、『ウェブスターの初級スペル・ブック』よ。文字の音に関してはいっしょに勉強できるわ。でも学習は自分ひとりでやってちょうだい」
まさに学習はジョージ本人が望んだことだった。数週間以内に彼はスペル・ブックを丸ごと暗記した。彼は今や文字がさまざまな音を表していること、そしてこれらの音がいっしょになると言葉になることを理解していた。彼は文字を読み、文字が作る言葉を言うことができるようになった。しかし読めるからといって多くの問いに対する解答を見つけることはできなかった。
スペル・ブックをマスターしたあと、ジョージがつぎも何をすればいいかスーザンにはわからなかった。最終的に、農場で物事を学び続けながら待つようアドバイスした。実際、ジョージは言われたとおりに待った。
スペル・ブックから読みを学んでまもなくのこと、ジョージは虫を探しに外に出た。そしてベイナム家に属する隣の農場の敷地内に入っていた。彼はベイナム氏を訪ね、接ぎ木について尋ねることにした。彼の農家の家はカーヴァー家よりはるかに大きく、堂々としていた。モーゼス・カーヴァーはこの地区でもっとも有望な農場を所有していたが、不必要なものに出費するのを好まなかった。彼のようなドイツ人は倹約を信仰していて、必要なものだけを買い、持っているものの最後の一滴まで絞って使うのを旨としているとジョージに語ったことがあった。ジョージが見るかぎり、カーヴァー家には、ベイナム家の気まぐれなダイニングルームやパーラーのような余分なものがなかった。
ジョージはベイナム家の台所の入口から大きな声で呼んだが、中から返答はなかった。彼はドアを開け、もう一度呼んだ。やはり返事はない。ジョージは中に踏み入ると、どうしても我慢できなくなった。彼はかつてスーザンおばさんがベイナム家のグランド・パーラーについて話しているのを聞いたことがあった。今、自分の目でそれを見てみたいと思ったのだ。だれも家の中にいないようなので、彼はそっと歩き回り始めた。両手は背中に回していたが、それは物に触れないようにするためだった。
台所を通り抜けてジョージは新しい鋳鉄のストーブに気がついた。その端や表面はよく磨かれていた。それはスーザンおばさんが上の窪みを利用して調理をした古い木製のストーブよりも効率的だった。ジョージがそのあと廊下を歩いていくと、パーラー(応接室)があった。中に入ると、彼は立ちすくんでしまった。部屋は想像を絶するほど豪華だったのだ。イスは詰め物がされているだけでなく、革張りの上に豪華なビロードがしつらえてあった。カーヴァー家のすり切れた床とは異なり、木目の床は見事なまでに磨かれ、部屋の中央には木の葉模様のペルシア製のラグが飾りのポイントになっていた。ジョージがもっとも気に入ったのは壁だった。壁は代々のベイナム家当主の肖像画で覆われていた。彼らは威風堂々とした目つきで彼をじっと見ていた。ジョージは絵画というものを見たことがなかったので、肖像画のひとつに近づいて見た。彼は絵筆のタッチや鮮やかな色使い、生きているとしか思えない目つきなどに気がついた。それらすべてが彼を魅了させた。同様に彼を夢中にさせたのは世界でも珍しい植物のコレクションだった。
ジョージは長い間それらの絵画を見つめていた。絵画を見ている間、ひとつの考えが心の中から消えなかった。どうしたら人はこんな美しい絵を作り出すことができるのだろうか。それからしばらくしてもうひとつの考えが頭に浮かんだ。おそらくぼくもこうしたものを作ることができるはずだ。そこに一匹の猫が忍び足でパーラーにやってきたため、絵画がジョージにかけていた呪文が解けてしまった。突然彼はつぎにやるべきことがわかった。つまり何かを描くということだ。
森の中を疾走して家に向かいながら、ジョージは次第に我に返っていった。カーヴァー家に暮らす限り絵を描くなんてことができるはずがなかった。彼らは感性があるとはとてもいえず、絵筆や絵具、画用紙を買ってくれるとは思えなかった。彼は歩くペースを落として、フウッとため息をついた。モーゼスおじさんとスーザンおばさんがすることはすべて実用的なことばかりだった。まったくもって、美しいものを描くのは、実用的なことではなかった。
ついにはジョージは立ち止まり、切り株の上に坐った。というのも絵画についてカーヴァー家に話をするために走っても意味がないことに気づいたからだ。坐ったとき、灌木に小さな綿毛のような黄色い花々が咲いていることに気がついた。彼は何度もこの灌木を見たことがあった。しかし今それはまったく別のものに見えるのだった。興奮して彼の体はゾクゾク震えた。これらの花々を摘んで、ジュースになるまでつぶすのはどうだろうか。ジュースは黄色い絵具として使えないだろうか。淡黄色の植物の小さい房状の芽はどうだろうか。それらを小枝のまわりに束ねたら、絵筆として使えないだろうか。また紙のかわりにヒッコリーの木の樹皮やクリークの滑らかな石を使って絵を描くというのはどうだろうか。絵を描く可能性について思いを巡らすと、森はますます生き生きしているように思われるのだった。
このあとジョージはほかのことが考えられなくなり、植物の世話をして新しい趣味となった実験に力をそそぐようになった。さまざまなものを絵具にできないか試してみた。うまくいくものもあれば、そうでもないものもあった。ベリーや根、土壌、葉などをつぶしてあでやかな色を作り、淡黄色のつぼみを使ってキャンバスとして使えるあらゆるものに絵具を塗った。彼は樹皮や石、古いボード、モーゼスおじさんがなめした皮の切れ端、スーザンおばさんが自分のために縫製した新しいスカートの余り生地などに絵を描いた。さてジョージは何を描いたのだろうか。森の中のすべての驚くべきものを描いたのは、疑いがない。つまり花々や木々、虫たち、リス、クリークの中の石などである。
新たに趣味のできたジョージは幸福を感じていたが、彼の内側ではもっと学びたいという気持ちが大きくなった。読み書きにかぎっても、彼にできることはもっとたくさんあるはずだと感じていた。しかしどうやったらもっと読み書きができるようになるだろうか。彼は10歳になっていたが、小さめの黒人の少年だった。自分の教育に払える自前の金などなかった。彼が知っていることのすべては、自分がもっと学びたいということだけだった。モーゼスおじさんからだけでなく、学校から学びたかった。ジョージはそのときはわかっていなかったが、独立独歩の道を歩み始める必要があることを確信するようになっていた。それは奇妙な体験としてやってきた。彼はそれをうまく説明できなかったし、おとなになってからも説明できなかった。この体験は、ジョージが木から落ちて両足を骨折した隣人の少年のために松葉杖を作っているときに起きた。ジョージは松葉杖をこしらえているとき、モーゼスおじさんから借りた狩猟用ナイフを使っていた。ジョージはナイフで木を削り、形を整えれば整えるほど、自分自身のナイフが欲しくなった。そしてもう自分を抑えることができなくなった。
ある夜彼はベッドに横になったままもし自前のナイフを持っていたら何ができるだろうかと考えていた。うつらうつらしているうちに奇妙な、鮮やかな夢がやってきた。夢の中で三本のトウモロコシの茎を見ていた。それらの横の土の上には食べかけのスイカがあった。スイカの横には、柄の部分が黒いレザーで、二つの刃がついた小さなポケットナイフがあった。
ジョージは起きるとき、夢の内容をすぐ忘れたが、この日の朝は違った。夢を見て、奇妙にも、これは夢以上の何かだと感じた。彼はだれかが、おそらく神がどのようにしてナイフを得るか、示そうとしているのだと思った。
その朝、牛のミルクを絞り終えたあと、ジョージはトウモロコシ畑まで走っていった。彼はトウモロコシの列の間を走り回って夢の中に見た三本のトウモロコシの茎を探した。隣の列の間にそれはあった。それらをじっと見つめると、腕や足に鳥肌が立ってきた。トウモロコシの茎の隣の地面に食べかけのスイカがあった。そのスイカの横に夢に見たとおり小さなナイフが落ちていたのである。
ジョージは立ったままその情景を見ていた。恐ろしくてナイフを取り上げることができなかった。おそらくまだ夢を見ているのだ。おそらくそこに近づいてナイフを取り上げようとしたらすべてが蒸発してしまうのだ。彼は恐る恐る近づき、ナイフをつかんだ。それは現実にほかならなかった。彼は手の中でナイフを転がした。
つづく数日間、ジョージはポケットの中のナイフを触り続けた。触るたびにナイフの柄に革に触れ、たしかな感触を得ることができた。おそらく、そう、夢が現実になっただけなのだ。十歳の黒人の孤児が教育を求めて、ここを離れることを暗示しているのだ。トウモロコシ畑でナイフを見せた神、あるいはだれかは、彼が読み書きをちゃんと学んでいるかどうか見張っているのだ。それは彼がすべてから離れて、あるいは知っている人全員から離れて遠くへ行かねばならないことを示しているにしても。
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