G・W・カーヴァー伝
奴隷から科学者になった男ジャネット&ジェフ 宮本訳
04 永久に心に刻まれたもの
「ホールさんは今すぐこれが必要なんだ」ジョージの新しい雇用主は、修理を終えたばかりの馬具を手に持ちいった。「ホールさんのお屋敷がどこにあるか知ってるだろう?」
ジョージはうなずいた。「はい、だんな様、今すぐ持っていきましょう」二分後、ジョージは馬具を手に持ち、フォート・スコットのメイン通りを歩いていた。昼下がりのことである。郡刑務所の前を歩いて過ぎるとき、群衆が集まり始めていることに気がついた。20人ほどの男女が立っていて、声をひそめて互いに何かを話し合っていた。
ホール家の農場は町から3マイルほど(5キロ弱)離れたところにあった。ジョージは馬具を届け、また病んだ樫の木をどのように扱ったらいいかアドバイスをした。ホール家を離れる頃には、長い影が町の周辺まで伸びていた。ジョージは来た道を逆にたどっていたが、尋常ではない数の荷馬車も町のほうへ向かって走って行った。フォート・スコットの境界にさしかかったとき、ジョージは群衆のどよめきのようなものを聞いた。町の中心へ近づけば近づくほど群衆のざわめきが大きくなってきた。小間物屋がある角を曲がってメイン通りに入ったとき、ジョージは大群衆と直接向かい合うことになった。刑務所の前に集まっていた20人ほどの群衆は、今や千人ほどの大群衆に膨れ上がっていた。本能的に彼は玄関先に身を隠した。そこに貼りついたように立っていると、メイン通りを白覆面の三人の男が黒人を引きずりながら歩いているのが見えた。そしておよそ25人の白覆面の男たちがつづき、さらに残りの大衆がつづいた。だれもが口ずさんでいた。「こいつをリンチせよ、こいつをリンチせよ」
行列が通りをもう50ヤードほど進んだところで、突然止まった。白人の群衆は狂乱の極みに達しようとしていたので、ロープが街灯柱に掛けられ、その端の輪が黒人の男の首に引っかけられるのを見たときも、なすすべなく傍観しただけだった。よく見えるようにと幼い子供たちを肩にのせた男たちが上下に揺れていたので、ジョージは黒人を見失ってしまった。しかし見る必要はなかった。何が起こるか知っていたからだ。群衆から歓声が沸き起こった。黒人の絞首刑が執行されたのである。しかしロ^プの端に生命を失った体がだらりと垂れ下がったところで、群衆の興奮が冷めるわけでもなかった。憎悪の狂乱じみた状態にある群衆は絞首刑だけでは満足しなかった。彼らはさらなる血を求めていた。
「こいつを焼き払え!」群衆の一番前にいた女が叫んだ。「こんなんじゃ、まだ罰が足りないわ!」
いくつもの男女のグループがかがり火を作るため燃料を探し回り始めたときは、ジョージは恐怖のあまり総毛立ちした。ジョージが潜んでいる玄関横の茂みから10フィート(3m)のところに置いてあった山積みの木片を数人の男女が持っていった。ジョージはじりじりと後ろに下がると、ドアノブが肩にめりこんできた。見つからないよう、彼はさらに息を止めた。実際、見つからずにすんだ。彼らはせわしなく木片をメイン通りの真ん中まで運んだ。だれかが前に踏み出して、木片のかたまりと燃料を燈油のなかに突っ込んだ。ロープが切られ、黒人の体が街灯柱から下ろされ、積み薪の上に載せられた。それが引きずられる間、人々は遺体を蹴っ飛ばしたり、ツバを吐きかけたりした。それは無作法に積み薪の上に投げ置かれた。
ピューッ! ジョージは燃え盛る炎の音を聞いた。群衆には活気がみなぎり、照りかえる火影のなかで、ジョージは人々の表情の中に勝利の徴を読み取った。一瞬、彼は地上のどこかに、ここ以外のどこかにいたいと願った。しかし彼はあえて動かなかった。人々は報復のために外に出ていたのだ。ジョージは今火の中に横たわっている男とおなじくらい黒かった。しばらくすると人間の肉体が焼ける匂いが空気を満たした。ひどい匂いが彼の鼻に押し寄せてきたので、ジョージは腰をかがめ、ゲロを吐いた。
男の体が十分に焼け、群衆がまばらになるまで一時間以上かかった。母親たちが子供を集め、男たちが握手を交わし、互いにお祝いの言葉を言い合って、ようやく家路につく様子をジョージは見ていた。
月が空高くに昇った頃、ようやくジョージは隠れている玄関から這い出ても大丈夫だと感じ、そっと抜け出た。住まいである小さな木製のキャビンの扉を開けるとき、彼の手はブルブル震えていた。扉の鍵を閉めて安全が確認されたとき、ジョージはガタが来ている木製のイスに坐り、壁をじっと見つめた。絶望的なほど彼は今しがた見たことを忘れたかった。しかし残像が永久に彼の心に刻まれたことを理解していた。仲間の人間を殺し、焼き払ったとき、群衆が熱狂し、喜び、興奮していたことを彼はいつまでも憶えているだろう。
ようやく彼は横になった。でも睡眠はやってこなかった。だれかが開けようとするかもしれないと思い、神経質に扉を瞠らなければならなかった。何度も彼は立ち上がり、きちんと鍵がかかっているかどうかたしかめた。努力はしているものの、安全だという確信は得られなかった。
リンチされていた黒人は何かとても悪いことをしたのかもしれなかった。しかしそれでも彼は裁判官の前で裁判を受けるべきであったし、自分の行為について釈明する機会は与えられるべきだった。憲法は、すべての人間、白人も黒人も、有罪が証明されるまでは、無罪と仮定されると宣言したのではなかったのか。群衆は黒人のこのシンプルな権利も否定したのだ。群衆は裁判官であり、陪審であり、死刑執行官でもあったのだ。さらに悪いことに、群衆の中には善良な人々や教会に通う人々、ジョージの知人がいた。しかしだれも群衆をとめようとせず、行為をやめさせようともしなかった。しかしジョージをもっとも悩ませたのは、明日、男が無罪であることを発見するかもしれないということだった。あるいはある白人の男が自分の犯罪を隠すために物語を作って黒人に罪をなすりつけたかもしれないことだった。いずれにしても遅すぎた。黒人はすでに死んでしまっているのだから。
キャビンを照らす灯火のもとで、彼は数少ない持ち物を集めて包みの中に入れ、よく縛った。彼は扉の錠を開け、そっと外に出た。その夜は満月だったので、雇用主の家の前を忍び足で過ぎ、門から出た。ジョージは走らなければならないという思いに駆られ、走り出した。ほとんど全力疾走といってよかった。全速力で彼は町から出た。どこへ向かうのか、彼にもわからなかった。
リンチと人体焼却を目撃したあと、ジョージは一つの場所に腰を落ち着けるのはむつかしいと理解した。彼はつねに神経質になり、すべてのことが本当に安全かどうか確信が持てなくなっていた。彼はカンザス中を旅してまわったが、どの町にも長くはとどまらなかった。彼には才能があり、一生懸命に働く心構えを持っていたので、すぐに仕事を得ることができた。いくつかの場所で彼はランドリーのビジネスをした。ほかの場所では雄牛の群れを追い、ホテルでコックとして働いた。彼はまた速記やタイプライターについて教え、夏の間は電報局で働いた。しかしながらいつもジョージは教育を受ける機会を模索していた。フォート・スコットのできごとがあったからか、彼はいつもおどおどしていたが、行く先々で黒人、白人両方の友人ができた。カンザス州オレイサでは、しばらくの間ルーシー・セイモアとジョージ・セイモアとともに移動した。セイモア夫妻はネオショーのマリア・ワトキンスとアンディ・ワトキンス夫妻を思い起こさせた。彼らもまた子供のいない黒人夫婦で、確信に満ちたキリスト教徒だった。ジョージは彼らとともに長老派(プレスビテリアン)教会へ通った。
ジョージは道すがら出会った新しい友人すべてと関係を保ちたいと思った。彼はつねに時間を取って彼らに手紙を書いたのである。彼がミドル・ネームを得たのはこの手紙を書くという習慣があったからだった。カンザス州に滞在している頃、彼は自分がたくさん手紙を書いているわりには受け取る手紙が少ないことに気がついた。このことについて彼は郵便局長に尋ねる機会があったが、局長は、それはもうひとり町にジョージ・カーヴァーがいるからだと教えてくれた。もうひとりの男は白人で、彼がジョージ宛ての郵便物のほとんどを受け取っているはずだという。なぜなら黒人宛てにそんなにもたくさんの手紙が来るはずがないからである。
「じゃあ、どうすればいいでしょうか」ジョージはたずねた。
「そうだね」局長は自分の頭をかきながらこたえた。「なぜきみは二番目のイニシャルを使わないんだね。そうすりゃもうひとりのジョージ・カーヴァーと区別できるだろうに」
ジョージはこれはなかなかいいアイデアだと思った、ひとつの引っかかる点を除いて。つまり彼はミドル・ネームを持っていなかったのだ。そこで彼はイニシャルを考えた。彼が選んだのはWだった。
ある日彼は新しい名前を使ってみた。学校の答案用紙にジョージ・W・カーヴァーと書いたのである。
「このWは何の頭文字なの? ワシントン?」ある友人がそう聞いてきた。
「それがいいみたいだね」とジョージは頭の中で何度も繰り返してから、そうこたえた。ワシントンは印象的なミドル・ネームだった。それ以来、カーヴァー家の農場に生まれた元奴隷は、ジョージ・W・カーヴァーとして知られるようになった。
1883年前半のある日、ジョージはモーゼス・カーヴァーからの手紙を受け取った。それには悲しい知らせが書いてあった。ジョージの兄ジムが死んだという。手紙によればジムは天然痘にかかり、彼の体はアーカンサス州ファイエットビルに埋められた。彼はここで農場労働者として働いていたのである。ジョージは手紙を受け取ったあと何日もぼうっとして過ごした。彼が知っているすべての人が家族を持っていた――叔母、叔父、兄弟、姉妹、いとこ――でも今、ジョージには生まれによって関係のある人が地上にひとりもいなくなったのである。何年間もジムとは会っていなかったとはいえ、彼がそこにいるというだけで安心感を得ることができた。人生においてはじめて彼は天涯孤独を感じることになった。
ジムの死を知ったあとの孤独な時期、ジョージは聖書を読むことに、また木の下でアコーディオンを演奏することにやすらぎを見出した。彼は今まで以上に自然を愛するようになり、毎朝夜明け前に起きて周辺の草原や森の中を歩くようになった。
永遠にそうやって時間がたつように思われたが、高校卒業というゴールが近づきつつあった。そして大学(カレッジ)に進もうとしていた。彼はフォート・スコットにいたとき、頭の中を飛び跳ねている問いの答えが、通っている小さな教室がひとつだけの黒人学校には見つからなかったことを思い出した。それと同様に、彼の教師の多くは、高校を卒業したら、カレッジに行くべきだといったのである。
1883年後半、ジョージは高校を卒業した。彼は19歳で、身長6フィート(180センチ)だった。今、大学に進むべきか考える時だった。カンサス州ハイランドの長老派の学校、ハイランド大学に通うことをめざしていた。大学は小さく、在籍している学生は100人ほどだった。入学許可が下りればこの大学は彼の求めるものに合致していると彼は考えた。
毎晩ジョージは大学の申請用紙を書くことに取り組んだ。彼は最初に回答欄に鉛筆で書き込み、それからチェックし、さらにダブルチェックし、ミスをしていないかどうか確認した。ミスがないことを確かめたあと、彼はペンで書き入れ、申請用紙を入れた封筒を郵送した。不安に感じながら大学からの返答を待った。
そしてようやく大学の入学許可部門から返事が届いた。ジョージは怖くてなかなか封が開けられなかった。もし断られたらどうしよう? そのときはどうしたらいいだろうか。幸いにもいい知らせが入っていた。ジョージは1884年のクラスに受け入れられたのである。感情を制御できなくなった彼は、純然たる喜びを雄叫びで表した。心の中にはさまざまなプランが渦巻き始めた。彼は小さなランドリー・ビジネスを立ち上げていたが、本を買い、大学の授業料を払うためにこの事業を売却する必要があった。大学へ行く前に彼はジムの墓参りをして、モーゼスとスーザン・カーヴァーの農場を訪ねようと考えた。
入学までの数か月間はあっという間に過ぎ去ろうとしていた。八月が来る前にジョージは大学に払う一年分のお金を得ていた。彼は新しい靴やシャツを買うのにも十分だった。そして彼はジムのお墓へ行くために、アーカンサス州ファイエットビル行きの列車に乗った。そこから北方のミズーリ州ダイアモンドへと向かった。
カーヴァー家の農場はジョージが去ったときとほとんど変わっていなかった。モーゼス・カーヴァーの二人の大いとこが農場を手伝いに来ていた。農場はなおもドイツ式効率主義で運営されていた。ジョージはモーゼスおじさんとスーザンおばさんと再会することができてほんとうにうれしかった。彼らはトウモロコシの収穫作業をしながら何時間も楽しく話をした。
モーゼスとスーザンはジョージの成功をとても喜んだ。彼が一途に努力し、高校へ行き、大学に入学が認められたことを誇りに思った。彼が滞在している間、モーゼスおじさんはかつて言ったアドバイスを繰り返し伝えた。「いつもだれかがおまえのお金や持ち物を奪おうとするだろう。でもおまえの教育を奪うことはできないんだ」
ジョージは心からおじさんの意見に同意した。そして彼はカンザス州ハイランド行きの列車に乗った。だれも人から教育を奪い去ることはできなかった。ジョージはまさにその教育を受けるために向かっている途中なのだ。
ハイランドに着くと、ジョージは大学まで歩いていった。校舎は簡単に見つかった。町でもっとも大きな建物だったのだ。彼は飛び跳ねるようにしてメインの建物の階段を上がっていった。そして一番上の二重扉を引いて開けた。彼は深呼吸してはじめて大学の内側に一歩を踏み出した。
彼が教室に入ろうとすると、髪を丸く束ねた年長の女が疑わしそうに彼をじろじろと見た。
「何か用かしら、坊や?」横柄な口調で彼女はたずねた。
一瞬、ジョージの頭は真っ白になった。すぐに合格通知の手紙がシャツのポケットに入っていることを思い出した。「わたしは入学するために来たのです、奥さま」彼は口ごもった。「ここに通知の手紙がございます。わたしの名はジョージ・ワシントン……」
女の眉毛は上がった。彼女は手紙をジョージの手から奪った。「ここに待っていなさい」事務的に彼女はそういった。
辛抱強く待っていると、ふたりの学生が入学通知を持ってやってきたが、すぐに受け入れられて、寄宿部屋が示された。ようやく廊下の向こうの扉が開き、磨かれた板敷きの床の上を靴のこすれる音が近づいてきた。ジョージがゆっくりと見上げると、背の高い赤ら顔の男が歩いてくるのがわかった。彼は校長だろうと推測した。そこでジョージは待って握手をするために手を出した。しかし校長は握手をしようとはしなかった。かわりによそよそしい目つきでくジョージを見た。
くじけることなくジョージは自己紹介した。「ジョージ・カーヴァーです、校長先生」と彼はいった。「入学するためにやってきました」
「へえ!」校長は掃き捨てるようにいった。「おまえは自分がニグロだとはいわなかったじゃないか。この大学はニグロをうけいれてないんだ」
ジョージは茫然と立ち尽くした。言い争いたい気持ちもあったが、校長の声には断固たる意志が感じられた。争うかわりに状況の不公正さに異を唱えないことにしたのである。異を唱えればトラブルを呼ぶことを彼は知っていた。白人との間でトラブルを起こせば、その先に何があるか、ジョージはよく知っていた。結局彼は旅行かばんを持ち上げ、しずかにハイランド・カレッジの扉を開けて、外に出ていった。今しがた起こったことを考えるうちに、自然と前かがみになって歩いていた。モーゼス・カーヴァーは間違っていた。だれかがジョージの教育を盗んだのだ。
カレッジのドライブウェイを並木沿いに歩くとき、涙が視界の邪魔になった。いま、彼がすべきことは、仕事を探すことであり、住むところを探すことだった。仮の住まいと仕事を探す必要性が生じる以前に、彼は見知らぬ町にやってきていた。今回はいつもと事情が違った。いつもだと、高校を卒業するというゴールへ、あるいはカレッジへ行くというゴールへ向かってわずかずつでも進んでいた。しかし今回はその夢が絶たれてしまったのである。ジョージにはもはや期待するものがなかった。目標がなかった。将来を見ようとしたが、人生においてはじめて、将来は空白になった。