G・W・カーヴァー伝
奴隷から科学者になった男
ジャネット&ジェフ 宮本訳
05 頑なな夢
ジョージ・カーヴァーは歩き続けた。教会で立ち止まったのは、中から歌声が聞こえてきたからである。教会の扉の前に立ち、音楽が彼の精神を元気づけてくれるのではないかと期待し、歌声を聞いた。礼拝が終わったとき、何人かの女たちが、彼がずっと立っていることに気がついた。彼らはジョージのまわりに集まり、彼がどこから来たのか、ハイランドで何をしているのかと聞いた。ジョージはあまりに意気消沈していたので、いま起きたことを隠すことができなかった。気がついたら彼はいきさつを白人の女たちに打ち明けていた。彼女らのほとんどはカレッジのこのような仕打ちに対し激怒した。そしてジョージには仕事を探してあげようと約束した。
女たちのひとり、ビーラー夫人は裕福な果樹園主の妻だった。彼女はジョージに自分が開催するパーティの助手をやってくれないかと提案した。そして二日以内に彼女は彼に専属の助手にならないかとたずねた。ジョージはビーラー夫妻がとても気に入ったので、大学で学ぶ機会を失った悲しみを紛らわすためにも、何かができるのはとてもうれしいことだと言った。それについて考えるのはとてもつらいことだった。彼は20歳で、スタート地点に戻ったのである。カーヴァー家の農場でジョージはほとんどの時間、スーザン・カーヴァーの家庭内の仕事を手伝っていた。彼は教育を受けるために農場を離れたのだった。しかしここでまた彼は家庭内の仕事をしようとしていた。教育を受けるという夢は実現半ばだった。これはなかなか耐え難いことだった。
一年後、ジョージは何かを変えねばならないと考えた。すぐに動きを見せなければ、残りの人生を白人の家で洗濯や調理の仕事をして終わることになるだろう。彼はほかの大学をめざしたいとは思わなかった。希望がまた潰えることに耐えられそうもなかった。何か違うことをしなければならないと考えた。皮膚の色に関係なく成功できる何かを。
ジョージの求めていた答えを提供してくれたのは、ビーラー夫妻だった。1886年春のある日、ジョージとビーラー夫人はいっしょにハーブ庭園でハーブ栽培の作業をおこなっていた。
「ジョージ、あなたはほんとうに植物のことをよく知ってるわ」ローズマリーの剪定をしながら彼女はいった。「なぜあなたはわたしの息子フレッドみたいに西方へ行かないの? 息子がうまくやってることはご存じでしょ?」
ジョージはすぐにこたえることができなかった。彼は雑草を取りながら、ビーラー夫人が示唆したことについて考えた。彼女がいっていることは正しかった。フレッド・ビーラーは自力でよくやっていた。彼が住む小さな集落は彼の名にちなんでビーラーとよばれているほどである。ジョージはまた1862年のホームステッド法を活用したいくつかの黒人一家を知っていた。この法によって、カンザスの西の平原に定住した者は160エーカーの土地がもらえたのである。もし定住者がこの土地で五年間働いたら、24ドルの登録費を払うだけで所有することができたのである。
「そこまで列車で行くことができるわ。そのあたりはもう線路だらけなんだから」ジョージの考えを遮るようにビーラー夫人はいった。
ジョージは移植ごてを下に置いた。「ビーラー夫人、あなたのおかげでいろいろと考えることができます」と彼はいった。「西方には人がやれることがたくさんあります」
ジョージは数日間そのことについて考えた。考えれば考えるほど、このアイデアが気に入ってきた。西へ行き、土地の請求権を申し立てることは、自力で生きるチャンスを得ること、つまり自身を証明することなのである。
1886年7月、カレッジの教育が受けられるという大きな希望を持ってやってきてから二年後、ジョージ・カーヴァーはハイランドを去り、カンザス州ネス郡のビーラーへ向かった。列車の窓から外を見るうちに、しだいに気持ちが萎えてきてしまった。カンザス州東部の波打つ丘の連なりは、果てしのない平坦なプレーリーに変わっていった。風景の中でまばらに点在しているのはソッド・ハウス(芝を多用した小屋)で、それらはトウモロコシ畑や小麦畑に囲まれていた。またアンテロープの大きな群れや雁(がん)の空を移動する群れが見えた。
ようやく列車はキーキーいいながら停止した。車掌はビーラーに到着したとアナウンスした。駅はレールの隣に立つ掘立小屋で、その前にベンチがひとつ置いてあった。彼はアコーディオンとタイプライター、何冊かの本を持って、用心深く列車から降りた。彼はプレーリーに対処する装備はまったく持っていなかった。
いつものように新しいチャレンジをはじめるにおいて、ジョージは想像力と甚大な努力を費やした。雑貨屋で彼は仕事を探し、ジョージ・スティーリーという男を紹介された。彼は小さな居住区の南部にある成功した家畜農場の持ち主だった。スティーリー氏は家畜小屋や鶏小屋を建てるさいに助けてくれるアシスタントを探していた。ジョージはこの仕事をやりたいと思った。賃金以上の報酬を望んでいた。土地を開墾するためにスティーリー氏が何をしたか観察することで、ジョージがのちに土地を得たときに、何をすればいいかわかった。ジョージ・スティーリーの母親がその頃、ちょうど息子のところを訪れていた。彼女は息子が黒人を連れて帰ったことをこころよく思わなかった。彼女は鼻先をつんとあげて、ジョージ・カーヴァーは屋敷の後ろの差し掛け小屋を寝床として使いなさいと命じた。そこで食事もとりなさい、と彼女はいった。白人といっしょに食事をすることはここでは許されなかった。
ジョージは以前はよくこんな扱いを受けていた。このことで煩わされないように彼は努めていた。そのかわりプレーリーの農業や自身の土地の請求申請についてのすべてを学ぶというゴールに集中することができた。
すぐにスティーリー氏は、母親が自分の家に帰る時期が来たと考えた。今やジョージ・カーヴァーと雇い主は互いによく知ることができた。彼らはともに食事をとった。そしてジョージは屋敷の中に居を移した。ジョージ・スティーリーは厳しいカンザスの冬がやってくる前に動物たちを守る大きな家畜小屋をどうしても建てたかった。彼はすでに近隣の人たちに手伝ってもらって自分が居住する家は建てていた。そしてプレーリーにはどんな建築物を建てるのかジョージに教えたがった。
家畜小屋の建築は時間のかかる、骨の折れる仕事であることがわかっていた。プレーリーには木がわずかにはえているだけだった。つまり窓や扉のフレーム、屋根の垂木のためにわざわざ材木を運んでくるのはとても費用がかさむことだった。結果として、ビーラーあたりのほとんどの建築物はソッド・ハウスになってしまったのである。ソッド・ハウスの屋根の上には土が敷かれ、そこから草が伸びていた。ジョージ・スティーリーはジョージにベストのソッドはまわりの土地より水分が多い低地帯に見いだされるのだと説明した。そこでは順繰りに草が厚く成長するのである。ふたりは約束のソッドの地を特定することができた。彼らは選んだ馬二頭をそこにつなぎ、草原の端で、ヴァージン・プレーリーに鋤を入れた。一つの方向に30センチの間隔をあけた二つの畝を掘り、耕していった。彼らは朝早くと日没前だけ作業をおこなった。というのも日中、暑い日差しの下では体力を消耗してしまうからである。日射病と脱水症は不注意な農民を簡単に殺してしまうのだった。初日の終わりに、彼らはレンガ状のソッドを積み上げた。ジョージは背中に炎症を起こしてしまった。
十分なレンガ状のソッドを集めると、つぎのステップはそれらを新しい家畜小屋へ輸送することだった。そしてそこにレンガ状のソッドをうず高く積み上げていった。それはしだいに高くなり、10フィート(3m)の壁が作られた。それから彼らは壁の上に垂木をいくつか作っていった。そしてそれらをタール紙で覆った。タール紙の上にソッドが積み重ねられ、屋根が形成された。家畜小屋には窓がなかった。前面にドアがひとつあるだけだった。大体においてふたりにとって努力が報われたようで、うれしかった。
もちろん何をすべきか、ジョージにはわかっていた。彼は土地を見つけたかった。そして彼自身の家を建てたかった。彼はスティーリー農場に隣接する土地に目星をつけた。だれもその土地の購入を申請しようとしないので、おそらく泉がないのだろう。水のないプレーリーに農場を持とうとする者などいないだろう。しかしジョージには確信があった。もし土地が彼のものになるなら、すぐに掘削して井戸を見つけることができるだろう。井戸ができるまで4分の3マイル(1・2キロ)離れた泉から水を引けばいいではないかとジョージ・スティーリーはいった。そこでジョージ・カーヴァーは土地の申請を申し出た。1886年8月、彼は未開拓のプレーリーの土地を持つことができた。そこに彼は五年間住むことになった。
ジョージはひきつづきジョージ・スティーリーとともに生き、彼のために働いた。彼は休日には自身のソッド・ハウスで仕事をした。心の広いスティーリー氏はジョージに馬や鋤を貸してあげた。ジョージ・カーヴァーの最初で唯一の家はしだいに形を成していった。冬になると彼は建設をやめなければならなかった。彼がカンザス州西部に着いたときは摂氏37度の暑い夏の日だった。熱風がプレーリーを渡って吹いてきて、埃を巻き上げた。夏の暑さのなかでジョージはより涼しい場所を探したものである。ところが今、驚くほど寒かった。プレーリーを渡った熱風は刺すようなひどく寒い風に譲っていた。それはソッド・ハウスの周辺でピューピュー鳴っていた。
ジョージはまたなぜ近隣の人たちが冬のブリザードを怖がるのかわかった。雪嵐が唸りを上げながら迫ってきたとき、彼はジョージ・スティーリーの最後に残った家畜を引き連れて家畜小屋に戻ろうとした。ジョージは着ているジャケットの端を引っ張り、風に対抗するよう自分自身を抱きしめた。それから農場の家の暖かくて安全なエリアをめざして猛然と駆け込んだ。外の風は激しく、一歩進むごとによろめき、立っていることすらできなかった。雪が吹き付けるので、家も家畜小屋も、地面もはっきり見えなかった。彼は白色のなかに飲み込まれた。心臓は高鳴っていった。プレーリーでブリザードに捕まり、死に至らしめられた話はよく聞いていた。いま彼らが死の淵に差し掛かっているかどうかはわからなかった。
パニックになりそうなところをじっとこらえて、ジョージはなんとか前面に進んだ。厳しい寒さの中で残された力はみるみる失われていこうとしていた。腕を前に伸ばすと、何か硬いものに触れたような気がした。手を這わせると、それが家の壁面であることがわかった。猛然と壁伝いに進んで、やっと玄関に達した。扉を勢いよく開け、内部の歓迎する暖かさの中へ転がり込んだ。このとき以来、ジョージはカンザスの冬に健全な敬意を払うようになった。
つぎの春までにジョージは自分のソッド・ハウスを完成させ、移り住んだ。それまでに彼は近隣からいくつかの必要不可欠なもの、すなわち木製ストーブ、ベッド、テーブル、イス、食器棚を購入していた。また10羽の雌鶏を買った。土地を耕す間、ジョージは幸福を感じていた。彼はジョージ・スティーリーから馬や鋤を借りて16エーカーの土地を耕した。その土地にトウモロコシやロシア人移民が持ち込んだ新種の小麦『ターキー・レッド』を植えた。隣人たちによるとこの小麦には他と比べると水が少なくてすむという。ジョージは自分の農地でそれがどういうふうに育つか知りたがった。
ジョージは毎朝夜明け前に散歩に出た。風景は彼が以前知っていたものとかなり違っていたけれども、すぐにいろいろなものに魅了された。彼は自分の土地をまわってインディアンの矢尻や変わった石や植物を探した。少年の頃とおなじようにジョージはいろいろと集めてきてそれを家の中に保存した。彼は家に立てかけるように差し掛け小屋を作り、そこに新たに発見した宝物を置いた。週に一回は町へ出てネス郡文学クラブに出席した。そこでは劇が上演され、音楽の曲が演奏され、討論会が開かれた。ジョージは需要に応じるように、集まりではアコーディオンを演奏した。もっとも要望の多かった曲は、仲間の入植者によって作曲された、カンザス・プレーリーの生活について歌った『山脈の家』だった。ジョージはまた投票でクラブのニュースレターの副編集長に選ばれた。
ジョージは絵を描くのも好きだった。もっとも、絵の題材の多くはさまざまなタイプの土壌や植物だったが。ミス・クララ・ダンカンと知り合うきっかけとなったのも、彼の絵画だった。彼女はアラバマの最初のカレッジであるタラデガ大学の美術教師である黒人女性だった。ミス・ダンカンもまたカンザスで土地誓願をしていた。彼女はこのような、ありえない場所で美術に愛情を持つ人と出会えたことは喜び以外の何物でもないと言った。
クララ・ダンカンはジョージに美術について教えた。ジョージは彼女のために喜んでウサギやピンクの花を描いた。クララは感動してジョージになぜ大学に行かないのかとたずねた。最初ジョージは彼女に話したがらなかった。しかし最後にはなぜハイランド大学に拒絶されてしまったのかつまびらかにした。クララはジョージを大学に進学させる運動をはじめた。彼女に言わせれば、ジョージはプレーリーに属する人間ではないのである。このままいけば、開拓者の生活に嫌気がさすだろう。彼の将来は教育にあるはずである。心の中では彼はこのことを知っていた。つねにそのことを知っていたのである。しかし彼の大学の教育の夢はハイランドで死に絶えていたのだ。いま、ゆっくりと、クララ・ダンカンに鼓舞されて、頑なな夢はふたたび成長し始めていた。1888年6月、ビーラーに着いてから二年、ジョージ・カーヴァーは土地所有の請願の権利を手放し、北方へ向かった。彼はたくさんの新しい友人たちと離れるのを申し訳なく思ったが、大学へ行くための道を探るのに、いい潮時だと思ったのである。
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