GW・カーヴァー伝  

奴隷から科学者になった男 

ジャネット&ジェフ 宮本訳 


12 成功と悲しみ 

 タスキーギ大学の実験研究所は、もし農民が自ら進んで考え方と実地でやっていることを変えていこうとするなら、できることを教示していった。実際1906年までにタスキーギ大学の実験農場は1エーカーあたり266ブッシェルの作物を生産していた。そしてそれは換算すれば1エーカーあたり75ドルの利益を生み出すということだった。もし農民が10エーカーの土地を所有し、実験研究所のアドバイスにしたがうなら、生きていくに必要なお金は稼げ、また余った分を貯めればもっと土地を買うこともできるだろう。

 重要な人々は研究所を訪問し続けた。同時にブッカー・T・ワシントンはセオドア・ルーズベルト大統領がいるホワイトハウスに招待された。しかしながらこれはうまくいかなかった。地元の白人たちが、ブッカー・T・ワシントンが招待されたことを知り、死の脅迫を始めたのである。元奴隷が大統領の前に坐って話をするなど、彼らにはとうてい受け入れがたいことだった。ホワイトハウスの門衛や執事ならまだ我慢できるが、黒人のゲストなどありえなかった。ブッカー・T・ワシントンは勇敢な男だった。しかしこの特権のために死のリスクを冒す準備はできていなかった。かわりに彼はルーズベルト大統領をタスキーギに招待した。

 ルーズベルト大統領は喜んで招待を受け入れた。そしてジョージとタスキーギ大学の学生や教職員はアメリカ合衆国大統領と面会することができたのである。ジョージはルーズベルト大統領にグラウンドのまわりを案内し、農民の大学が育てた20ポンド(9キロ)のキャベツを含む生産物の展示を見せた。大統領は見たものすべてに感銘を受けた。

 ジョージはまたルーズベルト大統領と実地の農場教育に関する最新の考え方について論じた。アイオワ州立大学は「種トウモロコシ福音列車」と呼ばれる新プランを実行に移した。これは特別に装飾が施された列車で、田舎の各駅に止まり、農民グループと会うという企画である。列車に乗った特別な農業指導者たちが軌道車の側面から乗り込み、農民たちに作物の選び方、植え方、世話の仕方などについて教えるのである。それが「福音列車」と呼ばれるのは、より高い作物生産を獲得するために、よりスマートな農業法の「福音」を説くからだった。

 もちろんジョージは何年も四輪馬車に乗って田舎をまわってきた。ルーズベルト大統領がこのアイデアに興味を抱いたので、ブッカー・T・ワシントンは、より永久的な農業の「ロードショー」を確立するための資金は得やすくなるだろうと示唆した。しかしアイオワの「種トウモロコシ福音列車」のような列車には賛同しなかった。ジョージは最寄りの駅すら遠い僻地の農民たちのもとを訪ねるのは心配だった。ピーナッツやスイートポテトに関する情報を農民たちに教える必要があったので、ジョージはさまざまなチャートやサンプル、農場の設備などを提示する大きな馬車を使う計画を立てた。

 ブッカー・T・ワシントンは、大きな馬車(ワゴン)を作るために必要な資金の提供者を探し始めた。彼はニューヨークのモリス・ジェサップという銀行家と話をした。彼はちょうど貧しい黒人の農民を助ける方法を探していたのである。新しいプロジェクトの資金を提供することで両者は同意に達した。そして「ジェサップ文化ワゴン」はすぐに運用が開始された。

 ジョージは新しいワゴンを担当するにふさわしい人物を知っていた。彼のかつての学生、トマス・キャンベルである。しかしながら専属の実演者に給料を払うだけの資金源を得るのは容易ではなかった。ジョージ・カーヴァーとブッカー・T・ワシントンはお金が集まるまではなんとかやっていくしかなかった。アラバマ総合教育委員会はトマス・キャンベルの給料の一部を担うことができた。北部信用基金とタスキーギ大学が残りを支払った。トマス・キャンベルにはアメリカの農務省から一年に1ドル支払われた。ひと月に8セントである。当時のレートでも十分な金額とは言えない。しかしともかくトマスはすべての権利を有し、保護される連邦職員を自称することが許された。トマスはまた「農民の共同実演活動担当特別代理人」という称号を使うことができた

 トマス・キャンベルはアラバマにおける最初のアメリカ合衆国農務省の黒人雇用者となった。彼はジョージ・カーヴァーからよく学び、農民たちにとってのすばらしい教師となった。ジェサップ・ワゴンが使われた最初の年である1906年、ひと月に二千人以上の人々がトマス・キャンベルの話を聞きにやってきた。重要なことは、新しい農業技術が農民たちの農場に違いをもたらすことを彼らに見てもらう必要性をトマスが認識していたことである。彼ら全員をタスキーギに連れていって老教授に会わせることもできないので、トマスが現れ、これらの新しい考え方が役に立つことを証明してみせたのである。ジェサップ・ワゴンが地域にやってきて、トマスは喜んでいままでとは違うことをやってみる地元の農民を探した。彼は科学的方法を使って、スイートポテトやササゲ、ピーナッツを植えるやり方を学ぶだろう。彼は農場に戻り、農民が作物を育て、収穫するのを助けるだろう。これらの作物は地域のほかの農場と比べてより大きく、より強く育つことになる。疑いの目で見ていた農民たちも、柵から身を乗り出して、トマス・キャンベルがいかにしてうまいぐあいに大地から収穫物を得ているのか知ろうとするのである。

 ジェサップ・ワゴンは完全な成功だった。そしてすぐに第二の黒人農場代理人が指名され、国から給与が支払われた。第三、第四の代理人も加わった。最終的に846人のタスキーギ大学と他の近くの学校の黒人卒業生たちが、毎日田舎に行って農民の作物生産の改善を手助けした。

 ジョージは自分のメッセージが遠く、広く伝わっていくことをおおいに喜んだ。彼はピーナッツと同様に大豆の活用法も新しいやりかたで実験し続けた。彼は大豆を育てる農家をほとんど得ていなかったが、いつか南部で大豆が一般的な作物になるであろうことを確信していた。大豆は潜在的におおいに可能性があったのである。彼らは一等のミルク、粉末、代替コーヒー、油、朝食、その他無視されてきた、じつに多くのヘルシーな、低価格の生産物を大豆から作ることができた。

 タスキーギ大学のキャンパスはほかの方法でジョージの影響を感じている。1907年、数人の学生がジョージに日曜夜バイブル研究をスタートするのを手伝ってほしいと頼まれた。最初七人の学生しか集まらなかった。というのも彼らは日曜、二つの教会に通うことが期待されたからだった。一つは日曜の朝で、もう一つは日曜の晩だった。

 ジョージのバイブル研究はディナーと夜の礼拝との間にはさまれていた。それはつまりあわただしく食事をしないといけないということだった。極度に時間の制約があったにもかかわらず、カーヴァー博士のバイブル研究はキャンパスでもっとも面白いものという評判がたっていた。三か月以内に百人以上の学生が食事を超特急ですませてバイブル研究に参加した。ジョージは植物や石、彼の話を描いた地図などを用いた。自然界の勉強を通じて学生に神を感じてほしいと願ったのである。時がたつほどにジョージのバイブル研究は人気が沸騰してきた。三年もの間、学生たちは彼に日曜夜の儀礼から引退させてくれなかったのである。

 すべてがうまくいっているようだったが、それに悲しみがひとつだけ加わった。1910年のある朝、ジョージは電報を受け取った。あおれは彼の養父モーゼス・カーヴァーが95歳で死去したことを告げていた。モーゼスはジョージが先日贈ったばかりのズボンをはいたまま埋葬された。モーゼスの死はたくさんのことを思い出させた。彼は「家族」の最後のメンバーの死を悼んだ。

 ジョージは長い間活動をやめ、喪に服するわけにはいかなかった。彼のラボからはどんどんいろいろなものが作られたのである。バナナの茎で作った壁板からピーナツで作った車軸の油までじつにさまざまだった。ジョージの早朝の田舎道の散歩は彼にひらめきを与え続けた。彼は良質の、粉末状の白い粘土を近くで発見した。それは上質の磁器を作るのに適していると確信した。これを裏付けるためにジョージは自分でろくろを作り、つぼを作り始めたのである。

 ある日、ジョージは学生たちに家禽の羽根のむしり取り方を教えていたとき、メンドリの羽根を枕やマットレスに詰めること以外に利用できるのではないかと考え始めた。そして最終的に編んで作る絵画の額縁や編み棒などを含む53通りの利用法を展示することができた。

 ジョージは依然としてキャンパスの寄宿舎に住んでいた。学生たちは喜んで彼の部屋を訪ねた。彼らは教授がつぎに何を考え付くかわからなかった。ときにはジョージは実験の結果を見せることがあったが、まるでトリックのあるマジックのようだった。彼は学校の敷地内を流れる小川の傍らにベントナイトの堆積を発見した。彼はそれを使って新聞の黒いインクを消し、学生たちを驚かした。

 ジョージは見かけ上もインパクトがあった。彼は考えうる限りの方法で学生からのメッセージを得ようとした。無駄になるものなど何もなかった。すべてのものが擦り切れるまで利用されるべきだった。ほかの利用法が見つかってもだ。ジョージは自分を伝言板だと考えていた。1910年、彼はエイムスのアイオワ州立大学で友人たちが買ってくれたのとおなじスーツを着ていた。19年前のスーツである。肘当てを縫わなければならなかったが、彼は気にしていなかった。彼の考えでは、スーツの中にはまだたくさんの生命力が残っているのだった。彼は古くなったスーツを着ていたが、ネクタイの色は明るいものが多かった。ほかの教職員は単色の黒いネクタイをしていたが、ジョージは特別な理由で異なるネクタイを締めていた。彼のネクタイはすべて彼自身のハンドメイドであり、染めたものだった。こうしたネクタイによって学生たちに、染められる材料すべてが身の回りにあることを思い起こさせたかったのだ。

 ジョージの着こなしは少し変わってはいたが、タスキーギでの彼の働きぶりを疑う者はいなかった。ひとたび彼と知り合うと、人々は彼のことを尊敬するようになるのだった。白人でさえそうだった。タスキーギ農民大学は成長し続け、1910年までには一年に一度開かれた農業フェアは何千人もの農民をひきつけた。白人の農民たちは彼らのちっぽけなフェアとタスキーギ・フェアを比較し、後者のほうがかなり大きく、情報量も多いという結論に至った。彼らは何かをすべきだと感じた。1911年、驚くべきことに白人と黒人の農民が参加したメイコン郡フェア協会が設立された。新しい協会発足の背後には二つのフェアを一つにして大きなイベントを開催しようというものだった。

 このイベントのことを聞いてジョージは興奮した。彼とブッカー・T・ワシントンが長年求めてきたものだった。すなわち黒人と白人がいっしょに働いてベストの結果を得ることである。もちろん完全にうまくいったわけではなかった。白人の農民は、切符売り場と回転式扉を別々にし、黒人の展示をフェアの西側に、白人の展示を東側にするよう主張したのである。トイレも食事をする場所も分けられた。しかしながらジョージとブッカー・T・ワシントン、それに支持者たちは白人と黒人の組み合わせのフェアは大きな進歩と見ていた。黒人が教育を受け、白人サークルに入る方法を見つけたら、平等に扱われるまであと一歩ということになるだろう。

 これは一つの意見にすぎない。反対派は黒人がもっと権利取得に向かってもっと強く突き進むべきだ、そして彼らは自由に教育を受けて、白人と同等になるべきだと主張する。20世紀に入ってから、ジム・クロウ法は黒人から南北戦争終了時に保障された権利を奪い去った。ジム・クロウ法がある限り黒人と白人は分離したままである。実際この法は黒人を不利な立場に置くために組織的に利用されたのである。この法の下では黒人と白人は隣近所に住むことができず、おなじレストランで食べることも、おなじトイレを使うことも、待合室や列車、図書館で同席できず、おなじ裁判所で聖書を前に宣誓供述することすらできなかった。黒人の地域は白人の地域よりはるかに貧しかった。権力もお金も教育もなく、もと奴隷、あるいは奴隷の子孫は生活や仕事の状況を改善するための機会がほとんどなかった。

 ウッドロウ・ウィルソン大統領が大統領に就任した1913年、彼はジム・クロウ法を広げて連邦政府ビルにまで適用し、隔離政策を実施するよう命令した。黒人の職員の机は集められ、白人の仲間とはカーテンで仕切られた。トイレやカフェテリアも分けられた。ワシントンDC中でおなじようなことが広がっていった。

 黒人の参政権はジム・クロウ法の下では意味がなかった。南部の諸州では土地を持っている者、人頭税を払っている者だけが投票することができた。有権者はまた文字が読め、憲法の条文を説明できなければならなかった。いうまでもなく試験官はみな白人だった。そして彼らはけっして黒人を憲法テストに合格させなかった。多くの貧しい白人農民は投票するための水準に達していなかったため、特別な条項が付与された。それは「祖父の条項」と呼ばれるものである。それはもしある人の祖父が投票できたことを証明できたなら、ほかのあらゆる基準に達していなかったとしても、その人も投票できるという条項である。黒人の祖父はみな奴隷だったので、彼はいかなる権利も有することができなかった。

 リンチが頻繁に起きるようになった。とくに黒人が罪を犯したと考えられたとき、あるいは「彼らの居場所」を忘れてしまった場合。それは発生した。1900年と1914年の間に千人以上の黒人の男や少年がこうして殺された。リンチの一部はあらかじめ地元の新聞に広告が打たれることがあった。それで南部の白人家族はリンチの様子を見ることも同時に友人や隣人とピクニックを楽しむこともできた。ケンタッキー州のある黒人男性は郡の刑務所から連れ出され、銃を持った白人によって地元の劇場の柱に結びつけられた。聴衆はチケットを買って男性に向けて銃を撃つ順番を待った。ほかの人々は犠牲者が血を流して死に至るまで、拍手をしたり冷やかしたりした。

 ブッカー・T・ワシントンと支援者たちはこうした現実に気がついていた。しかし彼らは人種の進歩というのはゆっくりだが、たしかなものであると信じようとした。ほかの黒人はこのアプローチの仕方に同意しなかった。1905年、カナダのナイアガラの滝で、平等な投票権や黒人の教育の機会、米国における人種差別の終了について話し合う会議が開かれた。1910年、この運動からウィリアム・エドワード・バーグハート(W・E・B)ドュボイスという名の才能ある黒人に率いられた新しいグループ、NAACP(有色人種の発展のための国家協会)が生まれた。

 NAACPが力を増し始めるまではブッカー・T・ワシントンがアメリカでもっとも影響力があり、よく知られた黒人だった。W・E・B・デュボイスはハーバード大学から博士号を得て、ギリシア語とラテン語の教授の職にあるすぐれた男だった。彼はワシントンから焦点をそらそうとし出した。実際、デュボイスは機会をとらえてワシントンの考えに反論したのである。ワシントンは貧しい黒人には実践的な教育が与えられるべきだと考えていた。彼らはそれを用いて彼ら自身と家族を飢餓から守るのである。一方デュボイスははるかに壮大な考え方をしていた。彼は、黒人は音楽や芸術、英語、哲学の教育を受けるべきだと考えていた。白人は黒人が役に立つことがわかったとき黒人を受け入れるのではないかと論じた。しかしデュボイスは持てる力のすべてをふるって黒人の権利のために戦うべきだと考えた。すぐにNAACPは連邦議会で法律改正のためのロビー活動を始め、抗議活動を準備し、クライシス紙という新聞を通じて人種の平等のメッセージを説いた。

 ジョージは論争をするとき、物事を両側から見ることができた。彼はブッカー・T・ワシントンの肩を持ちながらも、W・E・B・デュボイスを敵に回したくなかった。ジョージはだれも自分の心にしたがわなければならないと信じていた。またジョージ・カーヴァーが黒人の科学者としての彼を受け入れ、尊敬してくれる白人を助けていることは、だれの目にもあきらかだった。実際、ブッカー・T・ワシントンはサクセス・ストーリーの例としてしばしばジョージに言及していた。彼はいつも講演でジョージについてつぎのように述べていた。「わたしはいつも言っているんですが、人種偏見を壊す最善の方法は、自分自身が役に立つ、できるならば所属する共同体のなかで欠くことのできないメンバーになることです。わたしはカーヴァー教授のケース以上の好例を知りません」

 ジョージが板ばさみとなった感のある黒人の心のための戦いは、1915年11月14日まで続いた。その日、ブッカー・T・ワシントンは短期間病んだ後で死んだのである。59歳だった。

 米国中から重要人物が出席したワシントンの葬式は、大きなできごとだった。セオドア・ルーズベルト前大統領もやってきて追悼のスピーチをやりたがった。

 葬式のあとセオドア・ルーズベルトはジョージを探し出し、ふたりは実験農場のまわりをいっしょに歩いた。前大統領はジョージに今やっていることについてたずね、ブッカー・T・ワシントンがはじめたことを続けるよう鼓舞した。握手をして別れる際にルーズベルトは言った。「思うに、あなたはわたしがやったこととおなじくらいたくさんのことをしている。あなたにとってそれは名誉でも何でもないかもしれないが。あなたはまず研究をする、そして決定を下す。その決定をやり遂げる」彼はにっこり笑い、付け加えた。「あなたがなさっていること以上に重要なものはありません」

 ジョージは前大統領の言葉に大いに勇気づけられた。彼らはとても重要な時に会ったのである。ジョージはブッカー・T・ワシントンの死を認めたくなかった。ふたりはいつも意見が一致するというわけではなかったが、二十年近くもともに汗を流してタスキーギ大学を築いてきたのである。

 ブッカー・T・ワシントン記念財団はすぐに設立された。ジョージは年俸の千ドルの半分を財団に寄贈した。五百ドルは大きな金額のようだが、生きていくのに必要な額ははるかにそれよりも少なかった。彼が必要とするものはきわめてシンプルだった。というのも彼は依然として学生たちと寄宿舎に住み、カフェテリアで食事をとっていたのだから。収入の二割ほどを教会やチャリティーに寄付したので、彼は内密に、教科書を買ったり授業料を払ったりするのが大変な学生たちを助けることができた。

 そんなに簡単なことではないが、ジョージは旧友ブッカー・T・ワシントンなしでいろいろなことに対処しなければならなかった。しばらくすると、ほかのアメリカ人と同様、大西洋の向こう側のヨーロッパで猛威を振るっている戦争に注意が奪われるようになった。連合軍、すなわち英国、フランス、ロシアとドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、イタリアとの間に戦争が起こっていた。米国は他国の戦争に関しては中立を守る立場をとっていた。しかし次第に連合国は他の助けがなければやっていけないことがあきらかになりつつあった。1915年5月上旬、豪華客船ルシタニアが英国のリバプールに向けてニューヨークを出航した。船上には二千人近くの乗客と船員が乗っていた。5月7日、客船はドイツのUボートの魚雷の攻撃を受け、すぐに沈没した。124人のアメリカ人がこの攻撃によって溺死した。ルシタニアへの魚雷攻撃がドイツに対する感情を悪化させた。人々は米国が参戦するよう叫び始めた。ついに1917年1月、ドイツは国際条約を破ってUボートがアメリカのような中立国を含むすべての船を攻撃するだろうと宣言した。ウッドロウ・ウィルソン大統領はアメリカの軍隊を戦地に送るのには積極的ではなかった。しかしドイツの挑発に対して選択の余地はなかった。1917年4月6日、米国は連合国とともにドイツに対する戦争に加わった。

 州兵の大佐であるにもかかわらず、兵役を果たし、参戦して戦うには年を取りすぎていた。彼はラボから応援できることをしようと考えた。最初にピーナッツを使った新しい、よりよい方法を実験した。彼はピーナッツ・ミルクの完璧なレシピを完成させた。彼は油、脂肪、プロテイン、炭水化物にピーナッツからの灰、水を加えて牛乳に似た味の飲料を作った。それは牛乳よりもはるかに経済的だった。1パイントの飲料を作るのにピーナッツ3オンスで足りた。しかし米国を助けるためにジョージが神経を注いだものに、ピーナッツよりも重要なものがあった。



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