G・W・カーヴァー伝
奴隷から科学者になった男
ジャネット&ジェフ 宮本訳
13 新しい発見
「アニリン染料だ」ジョージは古い木のデスクを長い指で叩きながらつぶやいた。アニリン、すなわちニトロベンゼンから作られた無色の油っぽい液体は派手な、色のさめない染色の中間物質として使われた。どのようにアニリンが生産されるかは秘密だった。正確にはドイツ政府によって保持された秘密だった。第一次大戦がはじまるまで、世界中で、印刷機のインクを作るために、また革や布を染めるのに用いられたアニリン染料は、すべてドイツが提供していた。いまドイツは敵であり、染料は入手できなくなった。
この状況はアメリカ産業の大部分をパニックに陥れた。アニリン染料がなければ、アメリカの企業は軍服を染めることも、新聞を印刷することも、船や車を塗装することもできなかった。ほかの人たちは何をしたらいいかわからず絶望していたが、ジョージには目指すゴールが見えていた。アメリカで、地元の成分から安く、簡単に作れる代替の染料を発見することが国を助けることになるのだ。彼は染め物をかじったことがあった。というのも彼が少年だった頃、自分の塗料を持ちたかったからである。今こそ真剣に染色のプロセスについて考えるときだった。
ジョージの朝の散歩は拡大されて一日中の散歩になった。丸太の下や沼地で染料になりそうなものを探して回った。まわりにいくつか非アニリンの染料があった。もっともよかったもののひとつはコチニールだった。それはメキシコのサボテンの苗に育った昆虫の乾燥した死骸から取れるものだった。ほかの染料も植物や野菜から取れた。しかしほとんどはアニリンのように強い、派手な色を生み出すことができなかった。しかしジョージは色のさめない、はっきりした植物や野菜の染料を作り出すことができると信じていた。
およそ一か月染料を探した結果、ジョージは28種類の染料になりそうな植物の標本を集めることができた。そしてピーナッツでそうしたように彼はラボに閉じこもって実験をはじめた。彼はユニークな色を与えてくれる染料を探しながら、植物の葉、茎、根を叩き切った。
ラボから出てきたときには、ジョージは驚くべきことに536種類もの色の染料を作り出していた。即座に彼はさまざまな産業界のリーダーたちに手紙を書いて、新しく発見した染料の知識を共有したいと申し出た。最初の返事を受け取ったのは、わずか数日後のことだった。ジョージが成し遂げたことに感銘を受けた大きな染色製造会社の社長からの手紙だった。社長はジョージに即座に仕事を提示したのである。手紙はジョージに設備が整った専用のラボを用意すると約束していた。もちろん何人かのアシスタントをつけ、給料も十分なものになるはずだった。
ジョージは申し出を喜んで受け入れた。ほんのわずかの間、彼は自分が設備の整った新しいラボにいる姿を夢想した。しかし彼は学生たちのことを思い出し、お金のためにタスキーギを去るべきではないことを知っていた。彼は企業の社長に返事を書き、申し出を受けたい気持ちになったが、やはり受けることはできないと言った。そのかわり彼が発見した新しい染料のレシピを使うことを許可すると述べた。
ジョージの二番目のチャレンジは、アメリカのために、もっとも経済的な方法で、海外の前線で戦う軍隊に栄養価の高い食べ物を送ることだった。たくさんの新鮮な食べ物が目的地に着く前に腐ってしまった。それに船に積む食料だけでかさばってしまった。実際かさばる食料は最大の問題だった。大西洋に出ていく船は、ドイツのUボートのターゲットになりやすかった。船が出る回数は少なければ少ないほどよかった。
乾燥食品がベストの解決法という結論にいたるまで時間はかからなかった。その重量はきわめて小さく、貯蔵したり輸送したりするための特別な容器も必要なかった。戦争がはじまるとすぐ、ガラスと錫が希薄になった。大量の食べ物を缶詰にするのも実際的ではなかった。それに缶詰のフルーツには砂糖が必要だった。砂糖はもうひとつの欠乏しているものだった。
もちろん乾燥食品は人類とおなじくらい古くからあった。ジョージ・カーヴァーは乾燥野菜と乾燥フルーツの大量生産の効果的な方法を見つけようとしていた。ひとたびスイートポテトやリンゴ、イチゴ、豆類などの乾燥化の過程が完成すると、彼はメモ書きを陸軍省に送った。それには実験と乾燥食品の推奨が書かれていた。乾燥食品は戦地の軍隊の食品供給の問題を解決する答えだった。
ジョージはもうひとつの同等に重要な問題を解決しなければならなかった。それは差し迫った問題だった。黒人であれ白人であれ、多くの貧しい農民たちはアメリカのために軍に入ると署名していた。入隊するということは、安定した給料が得られるということだった。彼らはお金を家族に送り、世界を見る機会を得ることができた。はじめ誰もが、たくさんの南部の志願兵がいることはすばらしいと考えた。しかし現実世界は甘くはなかった。いったい誰が農場の世話をするというのか。誰が家にいるアメリカ人と海外で戦っているアメリカ人の食用植物を育てるのか。
ジョージは綿花栽培を減らし、以前はなかった高タンパク質の作物の栽培を増やすよう求めるメッセージを叩きこみ始めた。彼は「飢えた国は旗を守れない」と書かれた旗を持っていた。彼はしばしば妻たちのグループ、母たちのグループと話し合いの場を持った。彼女らは農場の仕事を引き継いでいたが、農業についてほとんど何も知らなかった。こうした女性にとっては、生きるのがむつかしい時代だった。ジョージは彼女らにクローバーやタンポポ、ハコベ、チコリなどの草を食べることをすすめた。これらの植物はチョップした肉やハムと煮れば味がよかった。それにそれらは重要なビタミンやミネラルを含んでいた。小麦もアメリカで欠乏しているもののひとつだった。このため人々の生活は非常に困難なものになっていた。小麦粉は小麦から作られた。小麦粉なしでは、ほとんどの家庭の食生活において主食となるパンが作れなかった。多くの科学者は小麦にかわる何かを見つけようとした。小麦は挽かれてパンを作れるだけの小麦粉になる。しかしそれに代わるものなどなかった。つまり、ジョージ・カーヴァーが好みのスイートポテトで実験を始めるまでは。
ジョージがワシントンDCに連れて来られたのは、まもなくのことだった。アメリカ農務省の「乾燥スイートポテトから作られる粉末の使用に関する委員会」で話をするためである。委員会の議長は植物導入局長にして化学者、栄養学者、政府のパン製造業者のデーヴィッド・フェアチャイルドだった。彼らはスイートポテトから穀物粉ができるというジョージの主張を信じがたいものだと思っていた。このことはジョージをいらつかせた。しかし彼は彼らを説き伏せることができると考えていた。彼は委員会のメンバーを地元のベーカリーに連れて行った。彼はそこでスイートポテトを使って穀物粉を作って見せた。すぐに新鮮な焼きたてのパンの芳香が部屋を満たした。パンが焼きあがると、ジョージはオーブンからホカホカのパンの塊を取り出した。彼はそれをスライスして、メンバーひとりひとりに手渡した。彼らがそれを一口食べると、論議はもはや起こらなかった。新しい穀物粉に関して、彼らは熱狂的な支持者になった。
翌日委員会はふたたび会合を開いた。会の途中でデーヴィッド・フェアチャイルドはこぶしでテーブルをたたきつけ、言い放った。「われわれは何かをしなければならない。あまりにも長い間ぼやぼやしすぎてしまった!」
さっそく動き始めた。委員会は南部に巨大な乾燥機を用意した。スイートポテトは乾燥され、挽かれて穀物粉になった。南部中の農民が鼓舞されて、要求に応じてスイートポテトの栽培に切り替えた。
いくつかの報道記者がこの会合を取材していたが、ジョージはすぐにすべての大手新聞に自分のことが載っていることを知った。彼はタスキーギに戻り、自分が戦時に国に協力できたことを喜んだ。本拠地に戻った彼は会報に載せるべく「どうやってスイートポテト粉、澱粉、砂糖、パン、疑似ココナッツを作るか」という文を書き始めた。
ジョージが農民たちにスイートポテト計画をさらに発展させるよう勇気づけているとき、ある人物が、ジョージが成し遂げたことについて書かれた文章を読んで感銘を受けていた。この男はトーマス・エジソン、アメリカでもっとも有名な発明家だった。彼はすばらしく設備が整ったラボを持っていた。そして彼はこのラボをジョージに提供したのである。しかもとんでもなく高い給料を払って。もしジョージがエジソンのために働くなら、という条件だが。トーマス・エジソンが彼にどれだけの給料を払ったのか、ジョージ本人はけっしてあきらかにしなかった。しかし噂は駆け巡った。「リーダーズ・ダイジェスト」の記事によれば、10万ドルということだった。「リプリーの信じるか、信じないか」のレポートによれば、20万ドルだった。いずれにしてもジョージの当時の給料の百倍か二百倍という金額だった。しかしここでもまた、ジョージ・カーヴァーはタスキーギ大学に住むことに決めた。ロックフェラー・ホールのふたつの寄宿部屋に住みながら、カフェテリアで食事をとるという生活を選んだのである。
いつものようにジョージはアラバマ州エンタープライズの記念碑献呈のような、シンプルなことに楽しみを得ていた。記念碑の一面にはつぎのような奇妙な言葉が刻まれていた。「ワタミハナゾウムシとそれの成したことに大いに感謝して。繁栄を告げるものとして、この記念碑はアラバマ州コフィ―郡エンタープライズの市民によって建てられた」
記念碑を献呈したことにジョージは大いに満足していた。コフィ―郡はアラバマ州でも育てる作物を綿花からピーナッツに替えたのがもっとも遅い郡のひとつだった。ワタミハナゾウムシは作物としての綿花に破壊的なダメージを与えていた。1915年までに郡のほとんどの農民は破産の手前にあった。そのときにやっと彼らはジョージのアドバイスを思い出し、それに心の底から従ったのである。四年後、コフィ―郡は州全体でもっとも繁栄した郡になっていた。彼らは25000ドルのピーナッツ殻剥き工場を建てるための資金調達にも成功していた。そもそもワタミハナゾウムシは呪いのようなものだった。しかし今は祝福のようなものだと市民は考えていた。綿花に依存する体質から完全に脱却し、人々はより利益の大きい作物を育てるようになっていた。ゆえにジョージの記念碑と招待状はワタミハナゾウムシに捧げられていたのでる。
第一次世界大戦は1918年11月に終わった。1920年代が始まり、ジョージは自分に「ミスター・ピーナッツマン」というレッテルが貼られていることに気がついた。南部でピーナッツに関する重要なイベントが催されるたび、主宰者は彼に話をさせたがった。南部においてピーナッツの生産はいまや800万ドルを生み出していた。ジョージはしかしまだこれは始まりに過ぎないと考えていた。ピーナッツにはまだまだ可能性があるだろう。この速度を速めるため、南部のビジネスマンたちはピーナッツ生産者共同連合という組織を立ち上げた。創設の目的はアメリカのピーナッツ市場を発展させることだった。
早急の注意が必要な問題があった。南部の農民たちが経済的に栽培を始める前、北米で消費されるほとんどのピーナッツは中国で生産され、日本で殻が取り除かれていた。アジアでは人件費がはるかに低く抑えることができたため、これらのピーナッツは安くてすんだ。結果として、南部で生産されるピーナッツより、アジアのピーナッツのほうが米国で買う場合価格が低いとうことになった。南部の農民たちは米国の市場全体に販路を広げたかったが、彼らはこれ以上価格を下げることができなかった。そこで利益を得るためには、連邦議会に輸入ピーナッツに対して関税をかけるよう懇願するしかなかった。ピーナッツ生産者共同連合はジョージア州のアトランタに会議を招集し、状況を論議した。ジョージはこの会議に招待され、集まった生産農家、ビジネスマン、地元の政治家らを前に方針を示すことになった。
暑い夏の日、55歳のジョージ・カーヴァーはアトランタに到着した。彼の重いスーツケースは共同連合のメンバーに見せるため持ってきたサンプルでいっぱいだった。彼は路面電車に乗って会議が開かれているシティホールへと向かった。
シティホール正面へと通じる階段をよろよろと上がっていきながら、彼は出席者に最初に何を見せようかと考えていた。ピーナッツ・ミルクの新しい種類か、それともピーナッツの殻から作る舗装用のブロックか。彼は階段の最上部に達したとき、何も考えずに門番に向かってうなずいた。
「そんなに急ぐな。どこに向かっているつもりだ?」
門番のがさつな声にジョージは驚いた。「わたしは間違った場所に来たのではないと思うのですが」ジョージは丁寧にこたえた。「ここでピーナッツ生産者共同連合の会合が行われているはずですが」
「それがおまえと何の関係があるのだ?」民版はジョージに向かってひどい言葉を投げつけながら、怒鳴るように言った。
ジョージの口の中はカラカラに乾いていた。そして胃もむかむかし始めた。カンザス州フォート・スコットでリンチを見たときの感覚とそっくりだった。だれか会合に出席しようとしている人がいないかと彼はまわりを見まわした。近くに目撃者なしでこの男に挑むのは非常に危険であることを彼は知っていた。ジョージはただのひとりも知っている人を見かけなかった。彼の心は沈んだ。
「さあ、行け。とっとと失せやがれ」門番はうなりながらジョージのスーツケースを蹴っ飛ばした。「おまえみたいな下種野郎はここに来るんじゃねえ」
ジョージは嬉々として向きを変え、タスキーギに戻ることもできた。しかしひとつのことがそれを許さなかった。会議の出席者は彼の話を聞かねばならなかった。連邦議会にどのようにして輸入ピーナッツに関税をかけさせるか、いっしょに頭をひねらねばならなかった。何千人もの南部の貧しい農民の経済的な未来は、まさにそれにかかっていた。
「わたしは招待状を持っています」そう言いながらジョージはスーツのポケットから招待状を取り出した。「それを持って中に入り、わたしがここに来ることになっているかどうかたしかめてください」
「へっ」門番はひったくるようにジョージの手から招待状を取り、どかどかと中に入っていった。
ジョージは焼き尽くすような陽の中で立ったまま待った。ようやく門番が戻ってくると、招待状をジョージに押し付けるように戻した。「そこを後ろにまわって」と彼は言った。「通用エレベーターがあるからそれで二階へ行け。そこが会合の場所だ。みんなあんたを首を長くしてまってるぞ」
ジョージは向きを変え、階段を降りていった。彼は心の底から人生はこんなふうにあるべきではないと思った。人の肌の色など気にしなくなる日が来ることを願った。しかしどういうわけか、南部では南北戦争以降ではもっとも人種間の緊張が高まっていた。というのも、じつに多くの黒人兵士が自由と民主主義を求めて戦うためにヨーロッパへ行ったのだった。いま彼らは帰国し、故郷で自由と民主主義を求めていた。多くの白人は黒人にいかなる政治的力を与えるのを恐れていた。そして自由と民主主義を求める声は暴力の波と出会い、南部中にそれは広がっていったのである。実際、多くの血が流れたことから1919年の夏は「赤い夏」と呼ばれた。70人以上の黒人がリンチに遭って死亡したが、その多くは名誉除隊となった軍服を着た兵士だった。同様にさまざまな市町村で、25の怒れる人種暴動が勃発した。
「カーヴァー教授、会議へようこそ」ジョージが会議室に入ったとき、友好的な声が響き渡った。
ジョージはにっこりとほほえみ、ステージ上の場所に坐った。彼は友人たちのなかにいることをとても喜んだ。
ジョージが話す順番が回ってくると、彼はスーツケースの錠を開け、テーブルの上にピーナッツから作られた産品を並べた。これらはコーヒーのように飲める飲料やフルーツパンチ、バターミルクの代替品、そしてブレックファーストのシリアルや健康バーのような食べ物だった。同様にピーナッツから作られた(染色用の)染料、染料(液)、敷石、合成ゴムも並べられた。
ジョージの話が終わるまでには、部屋の中のだれもが彼の席の近くに坐り、つぎの産品が出てくるのを待っていた。これこそ彼がもっとも楽しみにしていたことだった。すなわち人々の目をピーナッツのようなシンプルなものに代表される可能性に向けさせることだった。スピーチが終わると、多くの人がジョージに近づいて自己紹介した。その中にはアラバマ選出の上院議員も含まれていた。
のちにジョージがタスキーギに戻ったとき、彼は「ピーナッツ・プロモーター」という雑誌に載っていた彼自身のスピーチについての記事を読んだ。彼は読みながら笑いを噛み殺せなかった。「心の中に疑いを抱く聴衆を前にした会合に参加したが……。彼らの前に登場したのはニグロ種族のひとりだった。しかし(カーヴァーは)すぐにそのことを忘れさせた。そしてピーナッツを使った実験の結果が彼らを魅了した。彼が結論を述べたあと、(代議員たちは)彼がニグロ種族であることを忘れていた。そしてだれもが大きな声で絶賛していた」
ジョージは出席者にどれだけのインパクトを与えたか正確にはわからなかった。彼が知らないうちに彼らはジョージをスポークスマンに選出していた。そして連邦議会と話をするようにセットアップしていた。彼の役目は連邦議会に輸入ピーナッツに関税を設けるよう説得することだった。それは簡単な仕事ではなかった。議会はいま共和党が多数派だったので、貧しい黒人の農民の味方ではなかった。ジョージに手渡された役目はしり込みさせるものだった。彼はすぐに対策を練り始めた。
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