ネオ・ドルイディズム宣言
ドルイドの書 ロス・ニコルス 宮本神酒男訳
ドルイド・ルネサンス
哲学的な体系をもつローカルなカルト宗教としてのドルイド教は、1245年以降、その存在が断続的に確認されてきた。一部の世襲の一族がこの宗教を伝承してきたのは間違いない。そのなかでも、もっともはっきりとしたものは、コーンウォールのカーノウ家である。彼らは925年以来、バルド(吟遊詩人)の伝承を保ってきた。
スコットランドでも何人かの族長たちが確固とした信念を持って世襲のバルドの伝統を守ってきた。おなじような伝承は初期のアイルランドにも見られた。予言やルーンから知恵の類まで、田舎ではあちらこちらでドルイドの伝承が見られた。暗示に富む名がつけられた石も散見された。ウェールズには音楽を伴った霊媒による予言が残っていた。ピーブルスに伝えられる古い習慣は、プロテスタント化した土地にも残っていた。
2世紀遅れで英国に到達したルネサンス文化は価値の転換をもたらし、キリスト教の独占状態は終わりを告げた。ギリシア人やローマ人から受け継いだ古代の知恵は、民衆に受け入れられるようになった。
サイキック・パワーを持っていたウェールズ人のジョン・ディー(1527−1608か1609)はエリザベス1世の時代、英国人とともに知恵を持つ人々のリストのなかに名を連ねていた。彼はドルイドに関してよく知っていたはずだ。彼はドルイドについて何も言及していないが、当時のロンドンではだれも興味を持っていなかったというだけの話で、ウェールズでは逆にだれもが知っていることだったのだ。彼にとって「生命の水」すなわちグラストンベリーのチャリス(聖杯)の井戸は身近な存在であったはずだ。ジョン・ディーはそうしたことに興味を持っていたからこそ現代でも知られているのだ。
当時の年代記には、ウィルシャーで王室が「ストーンヘンジ最後のドルイド」と接触を持った旨が記されているという。もしこれが実証されるなら、たいへん重要なことである。それはつまりドルイドの伝承が継続されていることを示すからだ。そしてそれは17世紀に興奮をもたらした。それは「奇異な物」とみなされたのである。この時代を特徴づける宗教紛争に関わりたくない人々にとって、現実とまじりあう奇妙で風変わりなもののひとつだったのである。
好奇心を持った人々のなかにジョン・オーブリー(1629−1697)がいた。彼は古代への興味を強く持っていた。彼は2つのドルイドの巨大なモニュメントへ行っていろいろと調べた。1692年までに「モニュメンタ・ゲルマニカ」を編集したが、それにはストーンヘンジとエイヴベリーに関する観察調査も含まれていた。彼は1245年のマウント・ハイモス・グローブのことと、彼が住んでいたオックスフォードにあったグローブ(聖なる森)の記録を知っていた。彼はマウント・ハイモス(バルカン山脈)で行われたことを復活させる決心をした。この頃、ある一団が独特の衣装を着て、いくつかの儀式を行うようになった。これは1694年かそのすぐあとのことである。どんな儀式であったか詳しくはわからないが、おそらく春分(秋分)の儀礼だろう。
さて若くて活きのいいジョン・トーランドは1694年頃、オックスフォード滞在中にオーブリーと親しくなった。彼はアイルランドに生まれ、スコットランドで教育を受け、学位を取っていた。彼は教条的なキリスト教をひどく嫌ったので、スコットランドにとどまることができなかった。オーブリーが着眼したマウント・ハイモス(アイモス山)に魅せられたが、それはトーランドがケルト地区の生まれであり、言語をよく知っていて、古代のケルト文化になじみがあったからである。いやすでに老いていたオーブリーの心を動かしたのは、むしろトーランドのほうだったかもしれない。オーブリーは65になっていたが、トーランドは若干24歳だった。いずれにせよこの最初の小さなケルト復興運動を推し進めたのはオーブリーとトーランドのふたりだった。
OBOD(バルド、ウァテス、ドルイドによる秘密組織)の伝承では、ジョン・トーランドが創設者である。ルネサンス初期においてはそれほど多くの聖なる森はなかった。統一した聖なる森が登場するのは1717年のこととされる。このときから「選ばれし総長」の時代に入り、現代のドルイド教がはじまったと言えばわかりやすいだろう。しかしこれについてはもうすこし詳しく説明する必要がありそうだ。*ウァテスは原文ではovates。予言者、占星術師、時の旅行者、ときにはヒーラー、セラピスト、助産婦も兼ねるという。
彼ら自身を包んだ秘密の覆い自体が誤解を招く結果になった。ときには注意深くあえて誤解を招こうとしたのである。ぞんざいで、ひねくれた性格のジョン・トーランドによって、最近の作家は彼のドルイドに対する描写はむしろ敵対的と映るようである。しかし隠匿とカモフラージュというものを知るべきだろう。厳しく批判しているとき、じつは批判する意図などまったくないということはよくあることだ。秘密の、あるいは秘密の組織の長であることは、そして同時に批判的に、手厳しく書くということは、諷刺家であったトーランドの心に訴える一種のジョークである。
なみはずれて信頼の置ける男、ウィリアム・ブレイクは二つの姿を創造した。それらは「亡霊」と「流出」、つまりおぞましいものと祝福されたものである。このことは彼にとって基本的な真実であり、ひとりの人物が二つの面を持っていることを理解しない人々にたいして説明するのも価値がないと考えていた。実際、彼は説明しなかった。人々は理解しなければならなかったのだ。知人らはブレイクがある一節で、ドルイドは血の犠牲をおこなう者たちだと言ったかと思えば、ほかの場所で賢明な哲学者と言っている、そして古代の愛国者はみなドルイドだとも言っている、と抗議した。ブレイクはそれに対してこう答えた。
「ああ、そうだね。ハ、ハ、ハ」
彼自身がドルイドかもしれないという考えは、知人らにはなかったようだ。しかしながらその可能性を否定することはできないのだ。なぜならだれもそのことについて彼に尋ねなかったのだから。
1803年、ブレイクはトルーパー・ショーフィールドという兵士と衝突した。この兵士は単に誇張表現とあきらかにフランス革命に賛成していることを理解することができなかった。そして女王陛下の軍人を勧誘しようとしたかどで彼は告発されたのだ。ブレイクはこのことをずっと気にしていた。彼の生涯において、官公庁との接触が認められる唯一の例となった。1804年1月、チャイチェスター・アシゼスで裁判は開かれた。ブレイクは無罪判決を言い渡された。
この裁判で彼は宣誓を拒否した。というのも彼はドルイドだったからである。実際、彼が書いた著作の序文で、自分はドルイドであると明言しているのだ。しかしこれもまた彼の誇張表現のひとつであると、一般的には受け止められている。こうしたことからは、彼が総長であるという証拠は得られない。しかしこうしたことと、伝承されてきた就任期間入りの総長リストから総合的に考えると、ブレイクは1799年から1827年までOBODを率いていたようである。
就任期間が記された(1975年まで)13人の総長リストがある。彼らは選ばれると生涯その職にとどまるのだが、興味深いチェック機能もあった。長老の評議会では、総長はたんに「選ばれし長」として知られる。21日以内にペンドラゴン(軍の長)を指名し、書記もまた決めなければならない。この三者が決定されないかぎり、彼は正式な総長となることはできないのである。もしこの期間に反対の声があがったなら、総長の機能は停止され、選挙がもう一度おこなわれなければならない。これはグループ全体で弾劾することによって専制がやわらげられるシステムだ。これは政治的団体に勧めたいシステムである。総長にそれを支える二人のメンバーがつくかぎり、すべてはうまくいくだろう。いまはもはやなくなっているのだが。