第2章 9 ニワトリの厄払い
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雄鶏によって鬼を制圧できると信じられていた。一方で雄鶏を捧げて鬼神を祀った。この二つは論理的には矛盾している。しかし古代の方士はこの種の矛盾を矛盾とみなさなかった。攻撃的な巫術と祈り求める祭祀は、古代においてはしばしば溶け合って一体化したのである。巫術をおこなう者にとっては、両者が結合しても何ら不都合ではないと考えた。古代の儀礼で使用する雄鶏は、神をたてまつる
と同時に鬼を駆逐する二重の役割を持っていた。巫術には不思議な効果がある。巫術に意識を支配された人は、論理的に見えるものの中に矛盾があるとは認識できないのだ。
南朝の道士陶弘景の『真誥』に言う。「学道のために山中にあるとき、白鶏と白犬を飼う。よく邪霊を避けることができるからである」。白鶏辟邪法は道士が民間巫術を根拠になすものである。これは典型的なニワトリの祓いの呪術である。
古代の方士はつねにニワトリを疾風のような霊物として召喚した。『淮南万畢術』に一つの秘法が記されている。「疾風にニワトリの羽を焚かせる」。古書にいわく「五の酉(とり)の日、白鶏左翅を焼いて灰を上げ、風がいたる」。五酉日とは、六十甲子中の五つの酉日、すなわち癸(き)酉、乙酉、丁酉、己酉、辛酉である。ニワトリの羽によって風を招く呪術の起源がもっとも古い。
『周易』「説卦」の解釈によれば、八卦の中の巽が風を表わし、またニワトリを表わし、戦国時代の占い師はニワトリと風が関連していると考えている。ニワトリと風は同類に属し、互いに感応することができる。ニワトリを焚き、疾風を招く呪術はここから来たのである。
商代の甲骨文のなかで、風の概念は鳳凰の鳳の字で表示される。のちの神話伝説となった鳳鳥(おおとり)は晋人が「その形鶏に似る」と述べていることから、もともと尾が長くて大型のめったに見かけない山鶏を指していたのだろう。商代の人は鳳を借りて風とし、文字上のことを除き、ニワトリと大鳳の間には神秘的な関係があるとみなしていたのだろう。もしその通りなら、ニワトリと鳳の同類互換的な関係はさらに古いと言えるだろう。
ニワトリ厄払い呪術は古代の民俗に多大な影響を与えてきた。上述のように桃木、ヨシの縄、ニワトリ、虎(の画)は古代春節で常用された霊物だった。戦国時代の民間にはすでに「家にはニワトリを掛け、その上にはヨシの縄をぶらさげる」ことによって百鬼を駆逐した。後漢人鄧平は、年の終わりの臘祭(十二月の祭り)に「ニワトリを殺して、もって刑徳(刑罰と恩賞)を謝す」のは必須であると認識していた。まさに殺したばかりの雄鶏を門にかけ、牝鶏を家にかけた。これによって陰陽の調和が取れて、風雨をコントロールすることができた。
三国時代、魏人はつねに正月一日と臘祭の日の早朝に「ニワトリを殺し、門戸に掛ける」習慣があった。議郎董勲はこの風習と秦の「十二月に家の中から疫病を駆逐し、門戸にいけにえのニワトリに血を塗り付ける」風習には共通点がたくさんあった。魏明帝はかつて禳礼を修め、ニワトリの犠牲をもって禳衅(釁)に供えるとした。
晋代になると、宮中や百寺門にヨシの干し草、桃枝、いけにえのニワトリを置いた。それは悪気を祓うためだった。ずっとこれは官府で行われた習慣だった。劉宋朝(南朝)では正月に桃枝やいけにえの雄鶏を置いた。のちに「諸郡県もこれにならい、この習俗がずっと残っていた」。
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