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 伝説によれば晋の恵公元年(前650年)秋、大臣狐突は曲沃ですでに死んで五年になる恵公の異母兄弟申生と出くわした[狐突は申生の御者だった]。申生が言う、彼は上帝の同意を得て晋国を秦の領地としようとしているが、それは礼節を守らない晋恵公への懲罰であると。狐突が懇願すると、申生はようやく上帝に新たな処置を願い出ようと答えた。そして七日後に新城の西側へ来るよう狐突に言った。七日後そこに行くと巫師がいた。申生は巫師の姿かたちをとって狐突と語り合った。狐突はあらためて会う約束をして、巫師の助けを借りて申生と会った。そして上帝の啓示を得ることができたのである。

 史実から明らかなのは、晋恵公、懐公[二人は父子]が即位したあと、狐突は心から仰ぐことができなくなった。申生に会った云々といって恵公を糾弾するのは無礼であり、彼が受け取ったという予言は悪い報いだった。こうした言葉は狐突やその親族が捏造したものに違いなかった。しかしこうした伝説が史実を反映しているという面はあった。当時巫師は死んだ魂を招いたり返したりするのがいわば本業だった。この背景がなければ奇妙な物語を作ることもなかったろう。話を作ったところで、信じる人がいなければ、広まることもなかったろう。



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