革命家チューギャム・トゥルンパ
チューギャム・トゥルンパはあらゆる形態の精神文化の根源にアクセスしたので、彼は偉大なる歴史的重要性を持った仏教の師となった。ある意味、彼の著作は仏教の解釈をも変えたのである。とはいえ彼が伝統に対して新しい者すべてを代表しているわけではない。彼の教えは仏教を生み出したそもそもの始まりと直接関係があるのだ。始まりとの関係の確立は真の革命を必要とする。哲学者フランソワ・フェディエが述べるように革命は変革を起こす。
「過去から受け継がれてきたもっとも堅固と思われるものがあります。それらを刷新することはできません。しかしはじまりに対して忠実であってもいいのです。それを我々は自分たちのものだと主張しているのです」
仏教徒の言葉で、はじまりはすべての現象の根本あるいは胚、もっとも本質的な核となる部分と言える。
こう述べているのは、驚きかもしれない。一般的には、逆のことが言われているからだ。伝統を保存したい人々はそれを守り、それを壊そうとする人々が行っているのは革命である。しかしこの考え方は未熟と言わざるを得ない。マルティン・ハイデッガーはつぎのように述べる。
「はじまりは……保護されない。それは伝統主義者の人の手にも届かない。すでに起きたことからそのような人々は規制されるもの、理想的なものを生み出すのだ。言い換えるなら、伝統主義者は手つかずのまま持っていたいものだ。本当の価値に気づくことはなかった。
ひとりの芸術家がなしうるかぎり極端に今風であることで、また真正の精神的指導者であるかぎり徹底的に伝統主義者であることで、チューギャム・トゥルンパは新しい仏教の解釈を提示したのである。しかしこの文脈で解釈という言葉は何を意味しているだろうか。一般的に、フロイド主義者がレオナルド・ダ・ヴィンチの絵の解釈をするように、曖昧でない意味を与えながら、何かマイナスのものとしてそれは理解される。フロイドはその中にすでに見たいと思っていたものを見たのだ。
より広い意味で言えば、解釈とは考え中のことに生命を吹き込むことである。このように偉大な音楽家は演奏しながら音楽をあきらかにするものである。たとえばグレン・グールドは今までのだれとも違うバッハを演奏する。ある意味彼はオリジナルのものは何も持っていない。彼はシンプルに楽譜に忠実なだけである。しかし彼は新しいやり方でそれ自体をあきらかにしたのである。
チューギャム・トゥルンパは芸術家の才能を持っていた。才能ある音楽家が楽譜通りに演奏するように、彼は仏教の意味をするものに新しい光を当てたのである。
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