3 ハンガリー人意識が芽生えた時代、ドイツの大学へ

 上級学生としてチョーマはギリシア語、ラテン語、ヘブライ語だけでなく、フランス語、ドイツ語、ルーマニア語、トルコ語を学ばねばならなかった。(トルコ語に関していえば、学寮の図書館で文法を自習した) 

 この点においても、また異なる場合を見ても、チョーマは次世代の神学生のためにヘブライ語聖書を注解するといった、威厳たっぷりの聖書言語学の教授に順調になろうとしていると、人は想像したことだろう。しかし当時のハンガリーの政治情勢は不安定で、チョーマは既定路線からはずれてしまうことになる。フランス革命やアメリカの独立の影響を受け、またフランスや英国の啓蒙運動の哲学者の著作に鼓舞され、ハンガリーがオーストリアからの独立を求める機運が高まったのである。

 この機運のリーダーは、ハンガリーの貴族や職業的エリートたちであった。このエリートには、ナジェニェドの教授たちも含まれていたのである。この運動はハンガリー文化やハンガリー語の復興をめざすものでもあった。知的観点からいえば、それは基本的な問い、「われわれはだれなのか?」「ハンガリー人とはだれなのか?」を含んでいた。この質問を投げかけること自体、オーストリア帝国にはむかう行為だった。オーストリア帝国から見れば、ハンガリーは帝国の属領でしかなかったのだ。

 これはいい質問だった。ハンガリー人はヨーロッパにおける謎だった。ハンガリー人は隣国のどの国とも似ていなかった。言語もアルファベットで書かれるとはいえ、借詞を除けば他のヨーロッパ語と似ても似つかぬ言葉だった。

 ハンガリー人以外のヨーロッパ人が観光客としてブダペストを訪ねると、すべてにおいて異質でとまどってしまうが、表面上は見慣れたヨーロッパの大都市なのである。彼はまるで失語症になったかのようなショックを受ける。なじみのある言葉がひとつもないのだ。ほかのヨーロッパの都市なら、パトカーは「ポリゼイ」「ポリス」「ポリシア」といった言葉を車体に発見するだろう。

 しかしハンガリーでは「スゾバレンド(szobarend)」である。宿泊するホテルは「スザローダ(szalloda)」で、通りは「ウトカ(utca)」だ。さてひとつベジャラト(bejarat)、もうひとつはキジャラト(kijarat)と表記されるとき、どちらが内側で、どちらが外側か、どうやって判断したらいいだろうか。トイレに入ろうとして、ひとつはフェルフィ(ferfi)、もうひとつがニョ(no)と書いてあるとき、どちらに入るだろうか。ラテン語やギリシア語、ドイツ語と共通する語根がなく、その意味を知るための手がかりはほとんどない。

 言語学的な隔絶は、チョーマの時代の文化的愛国者をハンガリー人の起源探しに駆り立てた。彼らはヨーロッパでどことも似ていない存在だと考えた。それはつまり、彼らがギブから来たことを意味する。多くの理論が俎上に上がった。そのすべてが、ハンガリー人はアジアのどこかから来たと主張していた。もっとも人気のある理論は、ハンガリー人は中央アジアのウイグル人の子孫だとするものだった。

 ほかに人気があった理論は、中央アジアの漠然とした伝説的存在であるスキタイ人をハンガリー人の先祖とみなすものである。ハンガリー人の旅行家サムエル・トゥルコリが1725年に発表した「カスピ海の近くに住むハンガリー語を話すモンゴル人」も論じられた。彼らの町の名はマジャルだった。マジャルは、ハンガリー語でハンガリー人のことをいうマギャルとよく似ていたのである。

 これら理論のすべては、ハンガリー人の原型が英雄的で、戦争好きで、征服者の騎馬人であることを示していた。こうした祖先の姿は、オーストリアに服属させられ、圧迫されていると感じている彼らに失われた誇りを取り戻させた。

 もうひとつの混成した理論は、真実として受け入れられてきた。すなわちハンガリー語がフィン語と近い関係にあるという理論である。学術的には、ハンガリー人の原型はシベリア西部で混合したウゴル人とトルコ人であり、9世紀頃に彼らは現在のハンガリーに移住してきたとされる。

 このフィン語理論は、1769年にイエズス会の学者であるヤノシュ・シャイノヴィッチが提唱した。彼は天文学のデータを集めるためにラップランドを訪れたとき、フィン人が話す言語との類似性に気がついた。シャイノヴィッチの考えは、しかしながらハンガリーの愛国主義的な運動を進める貴族たちから拒絶された。

 彼らはアジアの騎馬戦士との血縁を好んだのである。騎馬戦士たちはフィン人と関係があったのだが、貴族たちにとってフィン人は北方の凍てついた土地に住むみじめで貧しい人々なのだった。ハンガリーの愛国主義者にとって、この理論はかんばしいものではなかった。というのも、オーストリアの支配者ハプスブルク家が認めた唯一の理論だったからだ。愛国者たちは、フィン人との関係を「魚油の匂いがする近親関係」として切り捨てた。

 チョーマはナジェニェドの教授アダム・ヘレペイの連続講義を受講して、「知的発酵」について学んだ。愛国主義のバイアスがかかっているとはいえ、民族性や言語学に関するヘレペイの考え方は、革新的だった。そのときまで、彼らの言語がヘブライ語と関係しているという中世の見方が支配的だった。チョーマはその考え方に魅了された。

 彼が属するセーケイ人は彼らなりのハンガリー人の起源に関するバージョンを持っていた。それは愛国主義者たちの考え方とも一致していた。すなわち彼らは「神の災い」として恐れられたフン族のアッティラの末裔と信じていたのだ。ケレシュ村の少年として、彼はポテトやスイートコーンを食べながら、あるいは辺境防衛隊とともに火を囲みながら、東方からやってきた英雄的な騎馬隊というイメージを醸成していった。たき火の炎が揺らめくなか、少年の心に英雄的な騎馬戦士の影が映ったことだろう。いま、彼はこの伝説をふたたび聞いている。こんどは学術的な理論として。

 ヘレペイの講義に触発されて、チョーマとふたりの友人は誓いを立てた。アジアにハンガリア人の原形を探すことに一生を捧げようと。それはユニークな体験からチョーマのなかに形成された一生の使命だった。田舎の厳しさ、軍隊の規律、執拗なほどの学術研究、ロマンチックな愛国主義、そしてすべての男性社会が経験する狭い、抑圧的な共同体……。誓いを守ったのはチョーマだけだった。友人たちは所詮、チョーマより20歳も年下の若造にすぎなかった。

 ナジェニェドにおける最後の年、教育期間を終え、チョマは誓いを実行に移す決心を固めた。しかし学寮内における義務的な仕事のため、その実行は延期されることになった。1811年、彼は詩学の講師に任命されたのである。こうして最後の試験に通ったあと、もう一年、選ばれた年長学生講師として任務につかなければならなかった。30歳の人間としては奇妙な選択に思えるかもしれない。しかしこの段階で、彼は学寮生活が唯一知っている世界だったのだ。

 1815年、チョーマは奨学金資格試験に合格し、ドイツのゲッティンゲン大学でさらなる学究生活を送ることが保証された。講師料を貯めてかなりの貯蓄を持っていたにもかかわらず、チョマは徒歩でドイツ北部へと向かった。歩いてウイーン、プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ハレといった町を通っていったのである。オーストリアのパスポートを持って難しい検問所を通過することができた。それというのも、帰国後、聖職につくという意思が記されていたからである。なぜ徒歩で向かったかといえば、彼の修行僧的な性格によって説明がつくが、ゲッティンゲンでの生活を考えて、無駄なお金は使いたくなかったのだろうとも考えられる。

 しかし実際、チョーマの財政については謎が多い。彼はいつも適宜に慈善団体から奨学金を受け取っていた。しかしまたつねに禁欲生活を送り、貯蓄をするという傾向があった。ウイーンではナジェニェド出身の友人であるシャンドル・ウィファルヴィの家に宿泊していた。ウィファルヴィのノートによれば、「夜になると彼は旅行用マントを自分のために用意されたベッドの横の床の上に置いた。彼はまたズボンをその上に置き、枕として使った。私がなぜそんなことをするのかと問いただすと、長旅に出る計画があり、そのためにいまのうちに慣れておくのだと説明した」というのである。

 ウィファルヴィはチョマの人間性の一面について記述する。彼の謙虚さ、思慮深さ、おとなしい性質について述べているが、チョーマの内面に大きな野望が隠されていることを喝破している。それは栄光への渇望であり、優越した運命のもとに生まれたという確信だった。チョーマはウィファルヴィのもと、ウイーンに5日間滞在した。「さよならを告げるときが来た」と受け入れ先の主人は書いている。「私は笑顔を浮かべながらなぜあなたはゲッティンゲンへ行こうとしているのか、とたずねた。というのも私の考えでは、彼はすべての学問に精通し、それ以上にやることはなかったからだ」

 もしこの言葉がチョーマを持ち上げようとするものなら、それはチョーマ自身の認識とは隔たっていたことになる。「彼は軽蔑するような口調で、私は信念をもって(ゲッティンゲンに)行くのではありません。私は人々の期待に応じて行くだけなのです、とこたえた」

 つまり、チョーマは実際学問を学びつくしたと感じていたので、有名な大学に行くのは形式上のことにすぎなかったのである。彼にとって、それは時間の無駄にすぎなかった。「私は大学に長くとどまることはないでしょう」と彼はウィファルヴィに説明した。「時は何よりも貴重なものなのです。うかれている時間などないのです」

 ゲッティンゲンでチョーマは歴史と地理学の勉強を進め、さらに言語に磨きをかけた。ドイツ語、フランス語、トルコ語を改善し、英語やアラビア語を修得し、ラテン語やフランス語の知識をもとにイタリア語やスペイン語を実践で使えるように学んだ。彼はパン屋に居候し、自由な時間は大学の図書館で読書をしてすごした。

 ゲッティンゲンで、母国では愛国主義者たちだけのテーマであったハンガリー人の起源問題が、ハンガリー人だけでなく、東洋学の研究者の興味の対象となっていることを発見した。ここでチョーマはハンガリー人とウイグル人の関係の理論を詳しく研究することができたのである。読んだもののすべてが、ナギェニェドで彼が立てた旅の計画をすすめているように感じられた。すなわちハンガリー人の原型を探すアジアへの旅である。

 彼は聖書にたいする文献的批判をはじめておこなった最初の東洋学者のひとり、ヨハン・アイヒホーンの献身的な生徒となった。チョーマは自分の考える旅行について、アイヒホーンと論議した。アイヒホーンはまるで父親のようにこのハンガリー人の行く末を案じた。彼はチョーマに、リサーチしようというアジア人の情報については、中世のアラブ人地理学者の書籍を読むのがいいとアドバイスした。

 アラブ人地理学者の研究成果は西洋では知られず、研究もされていなかった。しかもそれらを見るためには、オスマントルコの首都コンスタンティノープルの図書館へ行かなければならなかった。東方への旅に出発するとき、チョーマはこれらのテキストを調べるため、一定期間をコンスタンティノープルですごすべきだと考えた。


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