4 34歳のチョーマ、東方へ旅立つ 

 1818年9月、チョマがゲッティンゲンを出発するとき、彼の後半生につきまとうことになる危機が影を落としていた。ナジェニェドの神学校で彼は注意深くお金を貯めていたことはよく知られ、仲間の生徒が借金を申し込もうと近づいてくることもあった。その場合、彼は几帳面に期間を定めて貸し付けた。彼は、お金は期限内に返済されるべきであること、また不道徳な目的に使用されるべきではないことを主張した。ナジェニェドの規則正しい世界では、信用が崩れるということはなかった。

 ゲッティンゲンを出発する少し前、あるトランシルバニア人の友人の生徒から借金の申し込みがあった。実家に帰るのにお金が必要だったのである。チョーマは100金貨ほど彼に貸した。帰宅しだいお金を送るという彼の言葉を信じた。

 しかし期限がすぎても、彼からお金が送られてくるということはなかった。ドイツで蓄えがないのに一文無しになり、この無頓着な行為によって彼は窮地に立たされることになった。彼の担当教授であるアイヒホーンはトランシルバニアの借金をした学生の教会に補償を求めた。それは一応功を奏した。しかし精神面において、チョマは立ち直ることができなかった。金銭面における個人とのやりとりは、強迫観念といえるほど正確を期するようになった。

 それはヒマラヤ山脈の吹きすさぶ風の中に入っていくときも、病的にまでも彼についてまわるのである。どんなわずかなものにたいしても、彼は1ペニーから正確に支払おうとした。このことは人々との関係を遠ざける結果をもたらした。結局、他人に恩義を受けるという感覚にたいして強烈な嫌悪の情をもつようになったのである。こうした行為が持続するかどうかは、チョーマの自尊心だけでなく、心の高潔さによるところが大きかった。

 彼の友人ウィファルヴィは、このことに関して意見交換したことを記している。チョーマは不平をこぼした。「私はだまされやすい人間のようだ。学生にばかにされただけでなく、さらに悪いことには、トランシルバニア人にだまされて堪忍袋の緒が切れてしまったよ。それですっかり心気症になってしまったのだ。その窮地から救い出してくれたのはアイヒホーン教授だったよ。この心の傷は一生癒えることはないだろう。これからは善なる行為をしていこうという気にならないかもしれない。喜びの感情がもう湧いてこないような気がするのだ」

 34歳のチョーマは純朴で、人間の性質にたいし、子供のように信頼していたが、その心は粉砕されてしまった。そして隠遁者のような生活を送るようになる。それは彼を待ち受ける試練において大きな強みとなる。

 東方へ旅立つ前、チョーマはトランシルバニアに戻ったが、そこには数か月滞在しただけだった。生まれ故郷の村に戻ったかどうかは、記録がないのでわからない。彼はのちに「わが両親は死に、唯一生き残った弟はわが助けを必要としていない」と書きつづっている。実際、ガーブルは家族の農地をひきついでいたのだが、兄の手助けを必要としていなかったのだろう。しかしながら、チョーマがナジェニェドを訪れたという記録は残っている。

 そこでチョーマをたいへん興味深く思っていた教授のサムエル・ヘゲドゥーシュが、二件の面会希望があることを告げた。ひとつは、貴族の家庭の個人教師からのものであり、もうひとつはカルバン派の牧師と学校教師からのものだった。またナジェニェドの教授の席がひとつ空位になったため、就任しないかという打診があった。チョーマはこうした要請は断り、「言語学、歴史、地理学などに興味があるのですが、それらをより深く掘り下げるために、もっと広いエリアで勉強したいのです」と説明した。いよいよ機は熟し、彼は旅に出ようとしていた。

 実のところ、チョーマは英雄としてナジェニェドに凱旋したいと思っていた。ハンガリー人とその過去の栄光とを結びつける使命を果たした英雄として。どの程度彼がこの愛国的な理想に突き動かされていたかは、知るよしもない。吹きさらしの中央アジアの平原に失われた同胞を見つけるというのは楽観論に過ぎた。「ついに私はハンガリー人を見つけた!」と彼はいつか叫びたかった。しかし以前の仲間たちは、彼が失敗するのではないかと考えていたようだ。彼らはチョマに危険に巻き込まれないよう注意を促した。旧友のひとりはチョーマのことを「狂信者で愚か者だ」と評した。

 ヘゲドゥーシュもまた、途方もない目的を求めてさまようという彼の計画を断念するよう説得を試みた。しかしひとたび説得が不可能であると悟ると、彼はむしろチョーマと旅の日程について論じ始めた。チョーマの目的地はあまりにも広すぎた。それは中国西部と中央アジアの旧ソ連のいくつかの共和国を含む厖大なエリアに及んでいたのである。ヘゲドゥーシュはロシアを通って中央アジアに入ることをすすめた。すなわちオデッサからモスクワへと旅をして、隊商を作って中国北部へと至るというのである。

 ロシアを旅するとき、スラブの歴史もまた調べることができるはずである。これらの資料を読むために出発前、彼は数か月滞在し、クロアチアの古代スラブ教会やトランシルバニアの都市テメシュヴァール(ティミショアラ)について調べた。クロアチアについて調べているとき、彼はセルビア・クロアチア語を身につけようとした。この時点で彼が知っている言語の数は、13種にも及んだ。

 チョーマは彼のプランに向けられた多くの中傷に立腹していた。そしてウィファルヴィに不平をこぼした。「私はいろんな方面から攻撃を受けている。それらは計画をあきらめろと言うんだ。調査の結果、ありえないこと、非論理的なことがわかるかもしれないからね。若い頃からずっと温めてきた望みを捨てなければならないのか? これのために私は13種もの現存の、あるいは死滅した言語をマスターしたんだ。耐久生活や禁欲生活を実施して肉体を鍛えてきたのだ。ずっと彼らの偏見と闘ってきた。もう我慢にも限界があるというものさ」

 現実的に、彼の出発のさまたげとなったのは、パスポートの取得だった。また、ふたたび彼に徴兵義務が課せられる恐れが出てきた。牧師になる意志をはっきりと示さないセーケイ人は、トランシルバニアに残り、辺境防衛の兵役につかなければならなかったのだ。行政都市であるコロシュヴァール(現在のクルジュ)でパスポート取得の試みに失敗したあと、彼はルーマニアに旅をする商人に発行される通行手形(laissez-passer)を申請し、受け取った。この手形によって彼はハプスブルク家の領域から出ることができるだろう。しかしひとたび境界線を越えると、彼はいかなる有効な証明書を持っていないことになるのだった。それでも彼はこのリスクを負うことにした。

 出発前日、別れを告げるために年老いた教授ヘゲドゥーシュのもとを訪ねた。ヘゲドゥーシュが記すところによれば、チョマの目は輝き、静かな喜びがあらわれていた。ふたりはトカイ・ワインがそそがれたグラスで、幸運を願いながら「別れの乾杯」を交わした。

 翌朝、1819年11月19日、ヘゲドゥーシュは畑の中を軽装のチョーマが歩いていく姿を見た。それは「あたかも散歩に出かけるかのよう」だった。教授は彼の姿が地平線に消えるまで待っていた。チョマが携えていたのはリュックサックがひとつとおそらく200フォリントのお金だった。このお金はクルジュで出会った同情的なハンガリー政府の役人が渡したものである。彼はチョーマの愛国的な使命を知って讃嘆し、旅の間、毎年ある一定の費用を払うという約束をしていた。

 有効なパスポートを持たなかったので、チョマは当初のプランであるモスクワ行きをあきらめ、そのかわりにコンスタンティノープルへ向かった。ナジェニェドから東方へ歩いていき、当時、オスマン・トルコのワラキアの首都だったブカレストに着いたのは6週間後のことだった。

 1820年1月3日、彼はドナウ河を渡ってマケドニアに入った。そこで彼はブルガリアの木綿商人の隊商と出会った。彼らは郷里へ帰る途中で、馬は荷駄を積んでいなかった。彼はその馬に乗って2週間後、ソフィアにたどりつくことができた。この頃、彼はコンスタンティノープルで疫病が猛威をふるっていることを知った。そのためまた彼は計画を変更して船に乗り、地中海を渡って、エノス(現在のトルコのエネズ)を経由してアレクサンドリアへ行くことにした。

 アレクサンドリアで彼は記している。「計画ではアレクサンドリアかカイロにしばらく滞在し、ヨーロッパですでに学んだアラブ語に磨きをかけるはずだった。しかし突然エジプトで疫病がはやったため、エジプトを去り、シリアの船に乗ってキプロスのラルニカに着いた。そこからシドン、ベイルート、それから別の船に乗り換えてトリポリ、ラタキアへと渡り、それから歩いて4月13日、私はシリアのアレッポに到着した」


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