7 ザンスカルでチベット語の仏典を学ぶ

 翌1823年の5月、レーへの道が通行可能になったとき、チョーマはムーアクロフトに最後の暇乞いをして、ふたたびラダックへ向かった。彼はムーアクロフトから受領した300ルピーとラダックのカロン(首相)ツェワン・ドンドゥプとザンラ僧院の住持ラマ・サンギェ・プンツォグへの紹介の手紙を携えていた。ザンラはレーから2、3日の距離にあり、ザンスカル小国に属していた。

 チョーマをこの特別なふたりのラダック人のもとに送ることによって、ムーアクロフトは地域の政治に格別な関心があることを示した。脆弱な小王国にすぎないラダックは、ランジット・シンに侵略されること、征服されることを恐れていた。チョマのようなあきらかに英国から援助を受けている学者を助けることによって、ラダック政府はインド政府との良好な関係を欲していることをデモンストレーションした。そしてインド政府に頼ることによって侵略を防ぐことができると考えたのだ。

 カロン(首相)のツェワン・ドンドゥプは、親英国派の政策が好きなラダックのエリートのひとりだった。チョーマがムーアクロフトの手紙を持ってやってきたとき、ドンドゥプは彼を厚くもてなし、王宮のなかに宿泊できるよう段取りを整えてくれた。ザンラもまた賢明な選択をした。村はかなり遠かったので、チョーマの存在はほとんど注目されなかった。

 もしラジニット・シンがラダックに侵攻したとしても、その軍隊は都のレーを攻略することに集中し、属国であるザンスカルは取り残されてしまうだろう。(予言された侵攻は実際、1834年に起こった)

 ほとんど時をおなじくして、ムーアクロフトはカルカッタの政治局に手紙を書き、そのなかで、チョーマのためにあれこれと手を尽くしてあげたこと、また慎重な行動と不屈の精神でもって、賞賛すべき、愛国的な目標に向かっていくハンガリー人の性格について述べている。さらに、もう12か月もあればチョーマは文法書と辞書を完成し、それは東インド会社の財産となるだろうと述べている。

 原稿はシーア派イスラム教徒のレーのイマムが預かることになった。彼はムーアクロフトの信頼できる友人だった。それは無事にカルカッタまで運ばれるだろう。(このようにはっきりと書くのは、文法書と辞書が完成し、チョーマがヤルカンドへ向けて出発しているだろうとムーアクロフトは考えていた)

 ムーアクロフトは、それからチョーマが必要だと感じた本のリストアップをはじめた。それらはベンガルのアジア協会から送られるだろう。(アジア協会は独立した機関ではなく、インド政府の下部機関である)

 この目録に含まれるのは、ラテン語・ギリシア語辞書、ラテン語文法、ギリシア・ローマ神話の要約、サンスクリット語辞書(それほど重くないもの)、それほど大きくないが質の高いアジアの地図などである。手紙の最後に、チョマがプロジェクトの実行を誓ったラテン語の4行の詩句を添えた。それに「アレクサンドル・チョーマ・ド・ケレシュ、フィロロギエ・ストゥディオスス」という署名が加えられた。

 レーの王宮に数日滞在したあと、チョーマはザンスカルへ出発した。カロン(首相)は彼にラダックのパスポートを渡し、また仕事がはかどるようにと、8ポンドのお茶を贈った。

 レーから9日間歩いて、チョーマはザンスカルに到着した。着ている衣服以外何の装備もなく、持ち物といえば本だけだった。本のなかでもっとも重要なのが『アルファベトゥム・チベタヌム』である。これだけがチベット語の学習の手がかりだったのだ。

 彼が取ったのはザンスカル川に沿ったルートだった。川は山々に囲まれ、広く、平坦な、岩と砂利だらけの谷間を流れ、レーから南西の方角に曲がっていた。夏になると、山々や氷河から溶け出た雪解け水が混じって激流となるので、チョーマが滑って川に落ちたら、溺れ死んでいたにちがいない。ある地点では、奔流の上に架かった220フィートのロープ橋を渡らねばならなかった。

 こうしてどうにか、川の湾曲地点の岩の上に根を下ろす海抜3500mのザンラ村にたどりついた。ここは小さなザンスカル王国の人口700人ほどのちっぽけな都だった。

 ザンラでもっとも高い建物は、村を見下ろす数階建ての泥レンガでできた、ずんぐりした要塞寺院だった。ここでチョーマは自分の正体を明かした。住持のサンギェ・プンツォグに紹介の手紙を見せたのである。彼はザンスカルを訪れたはじめての西洋人だった。ルングワ・フランカ(共通語)であるペルシア語を話して、チョーマはどうにかプンツォグに古典語の、あるいは日常語のチベット語を彼に教え、またチベット文学を紹介するというとてつもない作業に関して、協力を求めることができた。

 彼はプンツォグにわずかではあるが、謝礼を払うことができた。そして疑いなく、英国の代表者を助けることには、政治的な価値があった。しかしこのような隔絶した場所にいる学識のあるラマなら、この言語と宗教を(チベットの文学はほとんど宗教的なので)学ぶためにはるばる遠くからやってきた外国人の学者を助けるのは当然の義務であり、それは賞賛に値する、かけがいのない行為なのだった。

 サンギェ・プンツォグはその役目を果たすにはもってこいの人物だった。彼は7年の間、チベットの都ラサや仏教の学問が発展したネパールやブータンで学んだ。チョマのように歩いてこれらの国の聖地に巡礼した。歩いた距離は合計すると4000マイル(6000キロ余り)に達するという。

 彼はチベット仏教の経典を百科事典のように知っていた。しかも仏教学だけでなく、薬学、天文学、占星術にも通暁していた。通常のラマは禁欲生活を誓うが、彼は結婚し、寺院の外に住んでいた。彼の妻はザンスカル王の未亡人だった。この小さな王国の王は、彼を王室の一員とし、また官職も与えていたのだ。

 彼はラダック全体の医師のトップに就き、チベット仏教最高位のダライラマとの交渉に当る担当の大臣でもあった。人間的には、感情を表わさない冷静沈着ぶり、みすぼらしい服装、脂ぎった僧衣が知られていた。

 チョマは翌年とその後もプンツォグとすごし、チベット語の経典を学び、辞書や文法書編集の基礎を築いていった。この協力関係を維持しながら、ふたりの男は第1期の16か月の間、壮絶な修練に耐えた。これほどのすさまじい努力は、学問の世界だけでなく、人の極端な忍耐という面から見てもきわめて異例なことである。

 1823年6月から1824年11月まで、チョマとプンツォグはザンラの要塞寺院の部屋にこもりきりだった。その天井が低く、20センチ四方の窓がひとつあるだけの、9フィート(270センチ)四方の小部屋に達するには、ぐらぐらした梯子のような階段を上ったところにある1メートルの高さの扉から入らなければならなかった。プンツォグとチョマはここで、2種類の経典群(大蔵経)であるカンジュルとタンジュルの前に坐った。

 最初、部屋は床に置かれた小さな火鉢によって暖められた。しかし、当時のチベットでは煙突が知られていなかったので、火を入れると部屋には煙が充満し、チョマは目を開けられなくなり、経典を読むことができなくなった。そのため彼は火鉢を使わないよう主張した。彼は経典を読むことを優先し、極寒に耐えることにしたのである。

 この暖房のない小部屋で、一日数時間、小窓から入ってくる太陽光のもと、彼らはいにしえから伝わる経典を研究した。彼らは羊毛のマントにくるまって坐った。冬になると、部屋の中は相当に寒かったので、チョーマはページをめくるときだけ、手をマントから出して、すぐひっこめた。先生と生徒はどちらがページをめくるかで張り合った。どちらかが、どちらかを、マント越しに肘でつついて、めくるよう促したの。手を出せばぬくもりを失ってしまうのだ。

 彼らの食生活は、国民の主食というべきツァンパに頼っていた。それは通常、不正確にお茶として描かれるが、実際は水、お茶、塩、ヤクや羊の血、バター、麦粉から成る一種のスープである。[訳注:ツァンパは一種の麦こがしであり、食べるときにスープのようなバター茶を混ぜ合わせるのが普通] チョマは果物や肉は食べなかった。なぜならそれらを買うことができなかったからである。そこには洗うための水はなく、寝るためのベッドもなかった。冬の4か月の間、彼らは一度も外に出なかった。ふたりが寒さのために死ななかったのが不思議なくらいだ。

 チョーマが耐えてきた数々の困難のなかでも、これはもっとも過酷なものだった。のちにヨーロッパと比較したときに彼はふりかえってみるのだが、ひとたびチベットを去り、インドに戻ったとき、16か月間のこの体験によって、精神的に彼がうちのめされていたことがわかるのである。この点から見ると、彼はまるで違う世界に生きているかのようだった。彼がつきあうのは、ほんのわずかな人々だけだった。しかも彼らすべてがチベット人ラマだった。

 ラマたちはチョーマとおなじように、奥義を求めて学ぶ熱烈な巡礼者だった。この自発的に悔悟し、自己を幽閉する、まるで自らを庵に閉じ込める中世のキリスト教の神秘主義的な隠棲者のようなラマたちを知ることで、チョーマの性格も大きく変わった。ザンラのこの部屋で、ヨーロッパ人のチョーマはあとかたもなく消えた。そして仏教徒チョーマが生まれたのである。スカンデル・ベグに加えて、彼はもうひとつ名前をもらった。それはチリンギ・ラパ(
Phyi-glin gi grwa-pa)、すなわち「外国人の生徒」である。[訳注:正確には外国人僧侶という意味] 

 1933年、彼の死からほぼ1世紀後、日本の東京仏教大学は、アレクサンドル・チョーマ・ド・ケレシュは菩薩(ボーディサットヴァ)であると宣言した。菩薩とは、悟りを開いたが、他者が悟りの道を進むのを助けるため、自分が涅槃(ニルヴァーナ)に入るのを延期している聖人のことをいう。小寺がひとつ彼に献じられた。そのなかにはブッダのように、蓮華座に坐るチョマのブロンズ像が安置された。そこに彼がヨーロッパ人であることをうかがわせるものはなかった。同様に、ハンガリーの中心的な仏教施設に彼の名前が冠せられた。すなわちアレクサンドル・チョーマ・ド・ケレシュ国際仏教学研究所である。

 この仏教の聖人に列せられるというチョーマの神格化は、ザンラの小部屋の16か月にはじまるのである。その体験はまるで仏教説話のようだった。外国の巡礼者が知識を求めて、徒歩の旅に出る。彼は知識のある師匠のもとに弟子入りし、ブッダの教えの研究に身を捧げる。彼は肉欲を抑え、苦行と自己抑制につとめ、極端な内省を通して精神を宗教的な目的に集中する。火なしで生き抜いたことは、精神を集中して体内に熱を起こす奇跡と似ていた。チベット仏教の考えでは、それは長い間の禁欲生活と瞑想修行をしたタントラ儀礼に通じた熟練者だけに可能な奇跡なのである。[訳注:これはトゥンモ(gtum mo)、あるいはサンスクリット語でチャンダーリーと呼ばれるタントラ・テクニックのことである] 

 菩薩と呼ばれるほどの存在になるには、だれも仏教の教えを知らない地域にそれを広めることが必要である。チョマは、徹底的に、信頼がおけるやりかたで、かつ系統的に、西側にチベット文化を紹介した。それは学術的には大陸発見とおなじ価値があった。この点において、彼が成し遂げたことは、ヨーロッパの最後の大発見といえるかもしれない。もっとも彼自身の見方では、それはわずかな成果にすぎなかった。

「ザンスカルに滞在中、知的な男(ラマ・プンツォグ)の助けによって、言葉をよく学ぶことができ、文学の宝にも通じるようになった。それは320巻の経典のなかに含まれ、チベット語と宗教の研究の基礎となるものである」 

 チョーマはチベット仏教がインドの仏教に起源をもつという根本的なことを発見をした。そしてチベット文学全体が2つの大成(カンジュルとタンジュル)から成り、それらのほとんどがサンスクリット語からの翻訳であること、チベット語がサンスクリット語から分かれたことを発見した。これらの翻訳は初期の仏教経典をよく保存している一方で、オリジナルの経典のほとんどが失われていることを彼は学んだ。[訳注:チベット仏教はラマ教と呼ばれ、オリジナルのインド仏教からは大きく変容したものと考えられていた。ただしラマ教という俗称が消えたのは近年のことである。またチベット語は言語学的にはインドの言語とはまったく別系統] 

 この厖大な素材を整理するために、チョーマはプンツォグに、経典を部門ごとに分類し、梗概をつけるよう要請した。プンツォグはそれに応じて、チベットの言語、文学、薬学、天文学、占星術などに分類し、それぞれの小論を書いた。彼が慎み深く任務を果たしたことは、文語の技巧に関する小論のはじめの讃のなかに現れている。

「これは言語学、韻律学、詩学の本質である。尊大にならないように、評価や名声、あるいは賢者の深い関心に惑わされないように気をつけ、著した概要である」

 チョーマの要求はプンツォグが考える以上に大きかったので、彼は手助けが必要だとして、隣りの寺院の2名の長老ラマの名を挙げた。彼らは論理や仏教の教義についての論文を書いていた。このあと3名のラマが著した文は「アレクサンドル書」として知られている。それはチョーマが基本的な質問をし、ラマたちが答えるという対話形式になっている。

 「アレクサンドル書」によって、チョマ・ド・ケレシュの名はチベット文学において不朽の名声を得たといえるだろう。仏教の教義について書かれた「学問体系の海に突き進む船」と題された章がある。そのなかで彼は「ルーミー(ルーマニア人)スカンデル・ベグ、彼の不屈の精神、学問において示された洞察力は、大きく開かれた空のようである」と言及されている。この書には、ハンガリア人の声が、熱心な生徒として、ラマたちのチベット語の韻文を通じて保存されている。

「ブッダという言葉はどう解釈されるのか? なぜその名が与えられたのか?」と生徒のチョーマはたずねる。

「チベットで教えられているのはどの哲学の学派か? ブッダの教えとあわないのはどの異端宗派か? インド、中国、モンゴル、とくにチベットにおいて、どんな学問や倫理が宣揚されているか?」

 ザンラを去るまでには、チョーマは2種の大蔵経(カンジュルとタンジュル)の内容をまとめ、見本となる箇所を広い範囲から選び出して書き写し、また、チベット語の基本語彙4万語を目録にした。

 厳しい環境のなかで、チョマとプンツォグが事業に取り組み、暮らした寺院は、いま打ち捨てられ、ほとんど廃墟と化している。20世紀になってから、ほんの数人だが、ヒマラヤ探検家がこの部屋を訪ねている。彼らは保温機能のある寝袋、冬用のテント、携帯用ストーブを持参している。彼らの多くはハンガリー人である。学問の名にそぐわない記念物かもしれないが、この部屋はいわば国の聖廟になったのだ。彼らは彼らの来訪を記した記念額を壁に飾り、チョマの名誉を讃える。しかしその壁もいまや崩れ落ちようとしている。

 しかしながら菩薩にさえ限界はあるのだ。1824年11月、気温が急降下して氷点下に達すると、チョマとプンツォグは、このみじめな独房のような部屋で、もうひと冬過ごすことは耐えきれないということで意見が一致した。そしてもっと快適な環境で作業をつづけることにした。

 彼らはクル谷のスルタンプールという村で冬を過ごすことにした。ここは山の反対側にあり、気候は比較的温和だった。それにプンツォグの家族がここに家を持っていた。チョマはひとりでスルタンプールへ向かった。というのも、プンツォグはザンラで個人的な商売の仕事があり、遅れて向かうと約束したのである。

 しかしプンツォグがクル谷へ行く前に雪が降り、道路が閉じられてしまった。チョマはスルタンプールで十日間プンツォグが来るのを待っていた。そして予想された通り雪が降ってきた。道路はいまや閉じられた。師と弟子が、冬の間離れ離れになったことをチョーマは悟った。

 やることもなくスルタンプールに閉じ込められたので、チョーマは新しい計画を練った。いまいるところで無駄に時間を費やすより、100マイルほど南に下って、さらに2マイルほどヒマラヤ山脈を越えて、もっとも近い英国の前哨地点、ヒマチャルプラデーシュ州サバトゥにある東インド会社の辺境基地へ行くべきだろう。そこで信任状を見せるのだ。


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