8 乞食のような姿で英国人居留地に現れる

 1830年、ヴィクトル・ジャックモンという名の博物学者でもある若いフランス人貴族は、パリの自然史博物館のために北インドを旅しながら、ヒマラヤ地区を探検していた。彼は父親に宛てた手紙になかで、サバトゥの司令官であるC・P・ケネディをほめそやしている。

「わがホスト(ケネディ)は、英国の力が及ぶタルタルやチベットの州を統括する代理人です。権力を握って以来、暴力に頼ることなく、千人のグルカ歩兵を擁し、彼はこの山岳地帯の絶対的な長として君臨しています。この地域の国王たちがその臣民を殺しすぎたときは、退位を促してきました。デリーの大臣(レジデント)に一言いえば、その命令のもと、政治を動かすこともできます。大トルコとおなじくらいの独立性を持って、彼自身の臣民を裁きます。これはラジャやヒンドゥー教徒、タルタル人、チベット人などを含みます。この彼らを、彼の考えに従い、牢獄に送ったり、罰を与えたり、ときには処刑することもあるのです」

 ケネディはのちに美しいサマー・リゾート地となるシムラの設立者だった。シムラは、1865年からラジャ(英国統治)時代の終わりまで、夏の暑い期間、インドの行政的な都であった町だ。彼の豪華さ好みとこの英国人居留地の軍隊生活にもたらしたスタイルは、この貴族の客を大いに魅了した。

「この男は、世界中の砲兵隊の将軍のなかでも、筆頭にあげるべき人物です。それに彼はとてもいいやつです。朝食の1時間後は、王者らしい任務に忙殺されます。残りの時間は私に友情をふりそそいでくれるのです。彼はもっとも厳格にダンディーで、またもっとも形式にうるさい男として有名です。そして地上のいかなる王子よりも誇りが高いのです。しかし私にたいする態度は違うのです。ただたんに、いいやつなのです。
 朝、1時間か2時間、われわれは馬に乗り、彼が作ったすばらしい道をギャロップします。戻ってくるときは選択の余地がありますが、ともかく優雅な朝食が待っているのです。夕方になると、元気な馬たちが門の前に用意されています。われわれはまた馬に乗り、途中で出会った、優雅で豊かな人々、あるいは病人と称する人々のなかでも、もっとも楽しそうな、陽気な人をピックアップします。
[原注:ヒマチャルプラデーシュの気候は病後回復に適していると考えられていた]

 彼らはわがホストとおなじ種類の人々です。独身男性(バチェラー)であり、兵士(ソルジャー)なのです。兵士といってもあらゆる部門の兵士です。私の観点から見れば、インドでもっとも興味深い人々です。7時半になると、われわれは豪華な夕食のテーブルにつきます。そしてテーブルを離れるのは11時なのです。
 私はライン・ワインかクラレット(赤ワイン)、あるいはシャンペンを飲み、デザートとして(甘い)マルムジーを口に入れます。ほかの人は寒い気候を口実に、ポートワインやマデリア、シェリーを好むようですが。そういえば一週間、水は飲んでいません」

 乗馬、シャンペン、上流階級のお祭り騒ぎ……こういった世界にボロボロの服を着て、毛布にくるまった、痩せ衰えたハンガリア人は飛び込んだのである。彼は約一か月、ひとりでここまで歩いてきたのだった。

 ケネディ大尉はこの癖のある英語を話す奇怪な訪問者をじっと見た。パスポートと認識できるものは持っていなかったが、ハンガリー人だと主張している。見たかぎりでは、インド人の乞食のようなので、ケネディは彼にきれいな衣服に着替えるよう命じた。チョマはいまだに持っていた唯一のヨーロッパ人の衣服、すなわちハンガリーの国民服に着替えた。それはだぶだぶのズボンに尾の長いコート、その下のチョッキという組み合わせである。チョーマはサバトゥに滞在する間、寒かろうと暑かろうと、このちぐはぐな組み合わせの服を着ていた。

 チョマはサバトゥに到着したとき、彼ら英国人の代表者、ムーアクロフトと約束した事業を勤勉に完成させたことを示せば、庇護者のもとに戻ってきた「放蕩息子」として歓迎されるだろうと期待していた。ところが落胆したことには、彼らはチョマを見て、とまどい、面白がり、疑わしく思うだけだったのである。英国人のだれも彼がだれなのか、彼にたいして何をすべきかわからなかった。宴が催されるどころか、彼は自宅監禁のように拘束されてしまった。

 1824年11月28日、到着から二日後、ケネディ大尉は地域本部があるアンバラに手紙を書いた。

「ひとりのヨーロッパ人旅行者がこの駐屯地にやってきました。名はアレクサンドル・ド・ケレシュ、ハンガリーの臣民ということです。注意をひいたのは、彼の紹介者がムーアクロフト氏であることです。氏の手紙はここにさしはさんでおきます。現在チョーマ・ド・ケレシュ氏はここに滞在しています。この紳士の扱いに関して、貴方の指示を仰ぎたいと思います」

 彼はつぎのような返答を受け取った。

「デリーの総督の指令を受け取るまで、そのヨーロッパ人旅行者はサバトゥに拘留してください」

 地域本部は彼をどう扱ったらいいかわからなかったので、どうしたらいいかはインド総督のアンハースト卿本人に聞くことになった。千マイルも離れたカルカッタにいたアンハースト卿からの返答は、チョーマに彼自身の事と活動について徹底的に説明することを求めたものだった。それからチョマの処遇をどうするか決めることになる。

 チョマがサバトゥに着いてから2か月後、ケネディ大尉は彼に母国のハンガリーを出発してからのことをすべて書くように、そして旅の目的について述べるように求めた。その結果、書かれたのが8ページに及ぶケネディに宛てられた手紙である。それは几帳面に段落ごとに数字が記されていた。これが唯一のチョーマの生涯について書かれた主要な記録である。

 5年にわたる旅行と研究を、正確だが無機質に、そして生物学者が顕微鏡で見えるものを描写するようなこまやかさで描いた。要求されたこと以外について書くのを恥じているようでもあり、つぎのように書くときは、自己憐憫の色合いがにじみ出ていた。

「はじめて英領インドの領域に入ったとき、政府から友人として歓迎されるものと確信していました。というのも、私の名前、目的、チベット文学を探し求めるという契約については、ムーアクロフト氏の紹介文を読めば一目瞭然だからです」

 このしかめっ面の、およそ俗気のない男に期待したようなことは起こらなかった。ウィリアム・ムーアクロフトはアジア上部への代表団を率いて5年近くも不在だった。それに熱烈にチョマを彼らに推薦しているにもかかわらず、英領インド政府のために契約をする立場になかった。ケネディ大尉と上官たちに関して言えば、もしムーアクロフトのことを風聞以上に知っていたとしても、チョーマのプロジェクトを保護するというのは(ハンガリー人の書いていることが本当だとしても)、彼が熱狂する非現実的な目論見のひとつにすぎなかったのである。

 チョマの手紙は正確で理解可能なものだった。しかし英国当局から見たとき、それは当惑させられて発したもともとの質問に答えていないのだ。つまり、なぜ出身が不明のオーストリアの臣民がチベット語というだれも聞いたことのない言語の辞書を編纂しているのか、そしてなぜそれが英国のためだと主張できるのか、という問いである。

 手紙のある一節が不安を呼び起こした。チョマはランジット・シン、あるいはロシアのスパイではないのか、という疑いが生まれてきた。チョマはロシアの外務大臣がロシアのスパイ、アガ・メフディ・ラファイルを通じてランジット・シンに宛てた手紙を翻訳していたのだ。

 デリー当局は、チョマが書いたできごとの表は信用できないと考えた。チョマが主張したようにスパイはチョマが手紙を入手する1年前の1821年に死亡していた。あるはもっと最近のことなのか? デリーの大臣(レジデント)は書く。「もし前者なら、チョマ・ド・ケレシュがどうやって関わるようになったか、知りたいものである」

 5か月間の審議のすえ、ケネディ大尉とアンハースト卿は、チョマが自身について本当のことを言っていること、そして政治的な情報を求めて旅をしているのではないことについて意見が一致した。ムーアクロフトのように、彼らもチョマの英国にたいする忠誠が誠実であると見た。そしてチベット語に関する彼の業績はかけがいのない価値があるものだと理解した。

「こう話すのは適切ではないかもしれませんが」とケネディはアンハーストに書いている。「チョマ氏はでしゃばらない、控えめな人物です。氏はムーアクロフト氏からの助成金で生活しているのであり、彼の親切によってアジア協会に調査結果を提出できることを望んでいるようです。
 思うに、チョーマ氏の財政状況はかなり逼迫していて、彼をここに長くとどめおけばおくほど、困難な状況が生まれてくるでしょう。実際、彼の現在の財力は相当に落ちていて、この辺境基地を離れるときには、慈愛深い援助の手が必要となるでしょう」

 こうしてチョマは、拘留は終了するというカルカッタからのお達しを知らされる。これはつまり、ラダックの寺院に戻って調査を続行できるということだった。そして総督の命令によって、彼は毎月50ルピーほどの俸給がもらえることになったのである。

 この決定を聞いて、彼は感謝するというより、怒りを覚えた。その言葉は疑わしく、彼はすでに相当の時間を浪費してしまった。そして彼はサバトゥの浮かれ騒ぐ独身貴族のクズ官吏どもと交わらなければならなかった。チョーマにとって彼らは、ホガースが描く地獄の諷刺画の登場人物そのものだった。

 彼はのちに、「私はサバトゥで、同時にばかにされ、あやされ、侮蔑されました」と不平を述べている。彼の薄い肌は穴をあけられ、何年も前、仲間の生徒にだまされたときのように、アムール・プロプレ(自己愛)が受けた傷はぱっくりと開いたままで、ひりひりと痛く、永遠に許されるものではなかった。


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