9 研究続行の危機
依然としてチョーマは少なくとも英領インド政府の公的な庇護を受けていて、チベット語研究を続けられるだけの十分な資力もあった。このことに勇気づけられて、1825年6月6日、彼はふたたび山へ向かって出発した。しかしながら今度はどこに行けばいいのか、わからなかった。2年前、ムーアクロフトの紹介の手紙を持ってラダックのカロン(首相)やラマ・プンツォグに会いに行ったときと違って、歓迎されそうな場所はどこにもなかった。
彼は前の教師と接触することができなくなっていた。ザンラで16か月ともに過ごしたあと、彼は不思議なことにチョーマを見捨ててしまったのだ。彼は自分のチベット語能力を頼りに新しい寺院を探さなければならなかった。
雨模様の天候のなか、サバトゥから東方面へ数日歩いたあと、禁じられた国チベットの国境に近いカヌムの寺院にチベット語の仏典を収めたライブラリーがあることを聞いた。そこで彼はカヌムへ行くことにした。道の途上で、彼はサバトゥの英国の官憲からもらった手紙をワズィール(地方の王)に見せ、ポーターを手配してもらった。
カヌムは着いてわかったことだが、行き止まりにあった。そこには寺院があり、経典がどっさりとあった。チョーマはそれらを吟味してみたが、そこにいるだれも読むことができなかった。新しいパトロンであるケネディ大尉に宛てた手紙のなかで、チョーマはカヌムのラマたちにたいする嫌悪感と失望を表明している。
ラマたちは彼が期待していたようなチベット人ではまったくなかった。彼らは「半分はヒンドゥーなのです。彼らはチベット人を、ビーフを食べるからといって憎み嫌っているのです。概して彼らは無知で、チベット語も正しく話すことができません」と書いている。
この撤退という事態に直面して、チョマに選択の余地はなかった。プンツォグともう一度コンタクトを取るしかなかった。彼はカヌムを去り、北方へザンスカルめざして歩いていった。そしてプンツォグの家があるテータ村に着いた。ここでプンツォグが不在であることを知ったが、すぐ戻ってくるということだった。
チョマは6週間ほど待ち、プンツォグが返ってくると、協力関係を再開することで合意した。ただ今回はプンツォグとの関係は容易ではなかった。なぜ前年、プンツォグはクルに来られなかったのか、チョマにサバトゥへ行くよう促し、悲劇的な結末になったのか、人は想像することしかできなかった。政治的な理由しか見当たらなかった。
ザンスカルにチョマがいるということ自体、プンツォグにとってはやっかいな問題だった。彼はラダックの大臣であり、チベットとの関係についても責任があった。もし外国人が、国の秘密を保持する暗号を解く仕事をしているとチベット政府がみなしたなら、プンツォグは補助罪に問われてしまうだろう。チベット人から見れば、彼らの言語を学ぶこと自体がスパイ活動なのである。
プンツォグがザンラの寺院よりも多少離れたところの寺院で仕事をつづけたほうがいいと提案したことからも、彼がこうした考え方をしていたのはまちがいない。ここで彼はチョーマを助けることができるが、仕事は秘密裏におこなわなければならない。
翌年は、チョーマにとって、みじめでいらだたしいものだった。彼らが仕事をしているプクタルの寺院は、鷲の巣のように山の切り立った斜面に建てられていた。漆喰が塗られたたくさんの小房がほとんど垂直な岩肌にしがみついていたのだ。こんな断崖絶壁に人が住む建物を建てる唯一のもっともらしい実際的な理由は、水が得やすいということだった。寺院の真上の洞窟に泉があったのだ。
今回、プンツォグの手助けは気まぐれだった。何週間もチョマをひとり残し、どこかへ出かけることもあった。彼がチョーマのもとにいるときも、チョーマの質問に全神経を集中することはなかった。チョーマの情け容赦ない質問の連発には辟易していたにちがいない。しかし外国人の生徒はそのことを知っていて、責任を感じていたようである。
ザンラでのように、チョマは煙を嫌って火をたかなかった。そして食べるものといえばツァンパと脂っぽいお茶だけだった。しかし今回は、仲間なしで、ひとりきりのことのほうが多かった。しかし物事は悪い方向に流れていきそうだった。
プクタルで、ブハラへ向かっていた彼の友人でありパトロンのムーアクロフトとほかのふたりのヨーロッパ人が熱病のために死んだという知らせを受けたのだ。感情的にも、精神的にも耐えられないつらさがあった。
この時分に彼はベンガルのアジア協会の書記、ホレース・ウィルソンから手紙を受け取った。ウィルソンはチョマに、最新のジャーナルに掲載されたチベットの言語についての無署名のエッセイにたいする意見を求めてきたのだ。チョマは意地の悪い、批判的な答えを返した。記事には相当の誤謬が含まれ、それはほとんど価値のないものになってしまっていると述べた。
ほかの学者が彼の独壇場である言語学のテリトリーを侵害するのは、心穏やかなことではなかった。チョーマはその記事がウィルソン本人によって書かれたことを知らなかった。山のひんやりした崖にカタツムリのようにへばりつき、孤独と落胆に押しつぶされそうになりながら、一年を過ごした。
そしてチョーマはサバトゥに戻る決心をした。成し遂げた成果を英国人に見せようと考えたのである。彼はいくつか新しい経典を入手していた。チベット語の文法書はかなりまとまってきていた。しかしチベット語辞書の編纂とチベット文学の研究は遅々として進まなかった。
「言ってもよかろうと思いますが」と、サバトゥに戻った直後の1827年1月28日付のケネディ大尉宛ての手紙に書いている。「ふたたびともに仕事をしたラマの怠惰と手抜きには失望してしまいました。私が提案し、約束した仕事を終えることはできませんでした。貴重な時間とお金を失ってしまったのは残念です」。驚くべきことに、彼は余った150ルピーを持って戻ってきた。
しかしもっと大きな落胆がやってこようとしていた。ホレース・ウィルソンが出版したチベット語に関する不思議な記事にたいして抱いた疑念が、うんざりすることだが、サバトゥで確認された。チョマがプクタルにいる間に、英領インド政府が、バプティスト教会の宣教師が編纂したチベット語辞書を、チョマの完成を待たないで、刊行してしまったのである。
チョーマの辞書は完成しておらず、刊行された辞書は、政府のためにすでに役立っていた。チョーマの翻訳事業はもう求められず、したがって俸給も止められてしまった。
彼の活動を支えていた支援がカットされるという危機に直面して、チョマは英国に、せめて文法書編集とチベット文学の調査というプロジェクトの残りが完成するまで、援助を続行するよう嘆願した。
「恐れ多くもお願い申し上げます」とチョーマはケネディに書いている。「この一年、なにとぞあなたの保護と庇護のもとにおいてくださることを願います」
おなじ手紙のなかで、彼は観測気球を浮かべて競争相手のホレース・ウィルソンを引合いに出しながら、赤裸々に自分の傷ついた誇りや失望について述べている。
「ウィルソン博士の手紙と送られてきた季刊誌から、チベット語と文学について何も知られていないこと、それどころか彼らはほとんど興味すら持っていないことがわかります」
彼はリンボー(地獄の辺土)に長くはいなかった。というのも、辞書の不正確さがあきらかになったからである。辞書には『ボタンタ、あるいはブータン語の辞書』という題がつけられた。それは1731年にブータンのカプチン派修道会の宣教師らによって編纂されたチベット・イタリア語辞典をあわてて翻訳したものである。それはチベット語の知識がある者に読ませることもなく、出版されたのだった。学者たちは、これがなんら実践の役に立たないというチョーマの主張に同意した。
チョーマはもう一度、英国人の目の前で正当性を立証しなければならなかった。1827年4月までに彼はふたたび英国に雇われるだけでなく、好意を持ったケネディによって総督のアンハースト卿に紹介されたのである。アンハースト卿は英領インド政府が獲得したこのハンガリー人の学者に心の底から興味を持った。これまでずっとチョマは、サバトゥの世俗的な楽しみから距離を置いてきた。ケネディ大尉は混乱したような口ぶりでホレース・ウィルソンに書いている。
「私が彼に見せたもっとも楽しいようなことでも、彼は遠慮しようとしているように思えます。彼はそういうことから身を引いて生きているようなのです」
ケネディからのサポートが復活することによって、チョマはチベット地域への3度目の旅を計画することができた。出発の少し前、ケネディの要望に応じて中国統制下のチベット政府からのチベット語で書かれた手紙を翻訳することによって、英領インドとチベットの関係の歴史に貢献することができた。
この手紙はチベットに隣接するインドのバシャル地方のラジャに送られたもので、英国(英領インド)に転送するようにとの指示が付されていた。そこには中国とチベットの政府が、英国がチベットに入ることをどれだけ恐れているかが記されていた。そしてチョーマやムーアクロフトがなぜチベットの国境地帯を通過することができないかを説明していた。チョーマの翻訳はケネディ大尉からアンバラの地域本部に送られ、そこからさらにデリーへと送られた。
手紙は厳密に、インドとチベットの間には和平が存在したと指摘する。なぜなら国境が固く閉ざされていたからである。いま、その均衡が「小さくて悪い人々」である英国人によって破られようとしている。彼らはバシャルから侵入しようとしているのだという。軍事的な偽情報としてそれは粗野にすぎるが、チベットの他の世界と隔てる距離がいかに大きいかがよく表れている。
昨年の早い時期にニュースがラサの大ラマの黄金の耳に入ってきました。バシャルの官吏が英国人に呼ばれ、彼らが上部の国(チベット)に入る段取りを整えろと言われたというのです。ラサでは、英国人がバシャルと接する大ラマの領地に侵入すると信じられていたのです。すぐに何人かの人が送られ、英国人の考えに注意するよう命じられました。
中国の皇帝はこのことに頭を悩まし、大ラマの領地が外国勢によって侵略されるかもしれないと考え、軍隊を送って国土を守るよう命じました。チベットの摂政もまた戦争に備えました。調査隊が、英国人はチベットの領域に入っていないと報告すると、それ以上の軍事作戦は遂行されませんでした。
英国人は彼ら自身のテリトリーを死守すべきで、大ラマの地に入ってくるべきではありません。彼らと和平を結んだり、条約を取り決めたりする機会はありません。もし英国人が同盟を結びたいというのなら、海路で中国の皇帝に会いに行くべきです。
またバシャルの人々は、スパイ活動を請け負って、英国人の富や芸術、科学、老練さに頼るべきではありません。もし英国人が大ラマの領域にすこしでも入ってくるようでしたら、彼らは滅んでしまうでしょう。彼らの間には大いなる違いがあります。中国の皇帝は彼らより30パクスタット(120英マイル)も高いのです。
もし英国人が戦争をすると決めたなら、彼らが向かい合わなければならない強力な軍隊の存在を知ることになるでしょう。四大元素を支配する中国皇帝は10億の都市や町、無数の軍隊を持っています。兵隊の頭は犬のようであったり、豚のようであったりします。またチベットのなかにはたくさんの国があります。そして大ラマが祈祷しますと、武器が雨あられのように落ちてくるのです。
ラサの大ラマは戦争のようなものを避けたいと望んでおられます。というのも、戦争が起きればアジアの6つの国を大災難に巻き込むことになるからです。もし英国人が自身の領地にとどまらず、戦争を欲するなら、バシャルの官吏は詳しい報告をラサの大ラマに送らねばなりません。
⇒ つぎ
⇒ チョマ・ド・ケレシュ伝 冒頭 解説
巨大洞窟には水源があったので、ここに暮らすことができた
チョマ・ド・ケレシュが滞在した小部屋
チョマ・ド・ケレシュが残した石のプレート