10 チベット語の辞書編纂、完成に近づく
ラサに行くことは、チョーマの人生最大の、そして最後の挑戦だった。そしてその試みのなかで彼は死のうとしていた。この手紙は心理戦争の極端な例であるが、その挑戦がいかに難しく、危険であるかを示している。ダライラマの「禁じられた国」に入るのは、チョマが恐れて足踏みする唯一の旅といえた。
8年後、ジャルパイグリの最前線基地の司令官ロイド大佐は、チョマとの会話を記録している。それによると、チョーマは「チベットに入るという考えを恐ろしく思っているようです。私は何度もシッキムからラサへ行くようすすめたのですが、そのような試みは生命を危険に陥れるだけのことだと言うのです」。しかしこの旅のルートはのちに彼自身、選ぶことになるルートだった。
文法書と辞書を編纂するという仕事はまだ完成していなかった。チョーマがもっとも長く滞在し、もっとも生産的だったのは、カヌム村で、1827年夏からの3年間である。このカヌム村は2年前にも訪ねた、チベットとの国境に近い半分ヒンドゥー教徒、半分がチベット仏教徒という村である。
英領インド政府とラダック政府との間で合意がなされたのだろう。というのもプンツォグがまたもチョマの教師として指名されたのだが、こんどはフルタイムで協力することになったからである。ここでは、ザンラやプクタルで苦行のような忍耐が強いられたのが嘘のように、健康に過ごすことができた。寺院で特有のむさくるしさを味わうかわりに、彼らは村の一軒家を借りて住んだ。そこには火があり、村にただひとつの煙突があり、使用人もいた。
カヌムの気候はおだやかで、村もこぎれいだった。また村は松林やアプリコットの森といった緑の風景に囲まれていた。サトレジ川の流れる谷から村を見上げると、山の斜面にきっちりとまとまった家並みが見えただろう。尊いチベット仏教経典が所蔵された寺院からは眼下に村の光景が見下ろされた。
ときおりヨーロッパ人の訪問客があった。最初に訪問したことを記したのは、グルカ軍の専属医、ジェームス・ジェラード博士だった。博士は種痘を導入するというミッションのために、サトレジ渓谷へ向う途中だった。ジェラードはサバトゥの頃からの知り合いだった。拘留期間中、ハンガリー人研究者は彼と同居していたのである。そして彼はムーアクロフトの死に心を痛める少ない仲間のひとりだった。
総督の執務室への手紙のなかで、ジェラードはかなりのスペースをチョマのカヌムでの生活の描写に当てている。この手紙はのちにベンガルのアジア協会の集会のときに読まれるのだが、そのときインド政府のガゼット(官報)に掲載され、そして新聞に転載されてヨーロッパ中の人に読まれた。巡礼者にして学者の物語がはじめて公になった瞬間だった。この記事はチョーマにある程度の名声がもたらされた。とくにハンガリーでは有名になった。彼はとっくに死んだものと思われていたのだ。
「チョーマ氏はまるで古代の聖者のように見えます」とジェラードは書いている。「本当に質素な生活を送っているのです。経典など本業に関するものをのぞけば、身の回りのどんなものにもまったく興味を示しません」
月に50ルピーの給料で彼は3人の生活を支えていた。彼はその半分をプンツォグに渡し、4ルピーを使用人に払った。残りのお金で自分自身を養ったが、賃料(1ルピー)や書くときの材料費はそれに含まれなかった。この地域はアプリコットやその他のフルーツがふんだんにあったが、チョーマはそれを食べないようにしていた。それは「フルーツが彼を幸福にしないこと、むしろ傷つけるかもしれないという確信があった」からである。
カヌムにおいて、チョーマの肉体的健康状態は良好だったが、長年の孤独生活、耐久生活は、現在でいうメンタル面、あるいは感情の健康をむしばんでいた。彼は頑固にとげとげしいプライドを守り、世俗的なことに関わらないようにしていた。しかしその結果必然的にやってくる孤独に彼は耐えきれなくなっていた。
「話をしているときや何かを表現するとき、しばしばやるせない表情を見せるのです」とジェラードは書いている。「まるで自分がみじめで、人に見捨てられたかのように、無意識に感情を表わしてしまうのです。憂鬱な調子で私に言ったことがあります。チベット語の文法書や辞書を、そしてこの国の文学の実例を人々に届けることができるのは、このうえない幸せであり、神との約束を果たしながら死ぬことができるのは本望です」
カヌムに住んで2年、ジェラードが描写したチョマの状況を聞いて、ベンガルのアジア協会の運営審議会は、彼らの基金から支出して、英領インド政府の俸給に毎月50ルピー上乗せすることで同意した。郵便システムは未発達だったが、チョマはできるだけ早く届くよう断りの手紙を書いた。それは申し出を断り、第1回目の支払い分である為替手形を返却しようとしたのである。
ホレース・ウィルソンはこの手紙を読んでびっくり仰天した。チョマのような状況にある人にとって、これは傷ついたプライドをたんに表現したものではなかった。烈火のごとく怒った心の傷を示したものと言ったほうがよかった。
「1823年春(このときより6年前)、カシミールにいたとき、故ムーアクロフト氏との取り決めが結ばれたばかりでした。その頃は書籍も十分にそろっていなかったので、ムーアクロフト氏は私のためにあなたに必要な書籍を送るよう要求してくれました。
しかし私はいままで何も受け取っていません。私は6年間も無視されたのです。このような状況で、いまさら書籍は必要ありません。
予期せぬできごとに妨げられないかぎり、私は来年、論文の準備にかかるでしょう。そのときに、私がしてきたこと、しようとしていることがはっきりとわかるでしょう」
彼の学者としての驚嘆すべき勤勉さを妨げるものは何もなかった。彼が未知の経典を解読していくときの逆行できない精神的なゆがみは、聖トマス・アクィナスの肥満や賢明なる神学者フッカーのお尻のおできのように、天才学者がこうむりがちな職業的危機だった。
彼がホレース・ウィルソン宛てにこの手紙を書いたとき、チベット仏教の仏典をこつこつと読んでいる最中だった。迷路のような分類法で分類された経典は、不明瞭で、冗長で、繰り返しが多かった。それがチベット人の世界であり、彼らが信じているものだった。カヌムの寺院のラマたちは読み書きができないにもかかわらず、チョーマを疑いの目で見ていて、経典を3巻以上同時に貸し出すことはなかった。
探険史のなかでもっとも奇妙な出会いがあったのは、翌年のことである。若いフランス人博物学者ヴィクトル・ジャックモンがチョーマのもとを訪ねたのである。彼はサバトゥでケネディ大尉のゲストだった。ケネディがこのフランス人にチョーマを訪ねるようすすめたので、1830年7月、61人のグルカ兵、使用人、ポーターを引き連れてカヌムにやってきたのである。
ジャックモンはチョーマとはまったく異なる人物だった。辛辣なヴォルテールのような機知に富んだバイロン的人物であるジャックモンは、作家、博物学者としてパリの文学サロンでデビューした。そこで彼はプロスペル・メリメ(『カルメン』の作者)やスタンダールと親交を結んだ。ランジット・シンは彼に魅了されて、カシミール総督の職を提供したほどである。
ケネディはジャックモンにあきらかに細心のデリカシーをもってチョーマと接するよう忠告していた。そこでカヌムに着いて、キャンプを設営したあと、注意深く丁寧な手紙を書いて、彼の家屋(コテージ)を訪問する許可をもらえないかとたずねた。ジャックモンが驚いたことには、すぐにチョーマが彼のテントの前に現れたのである。
ジャックモンの前に立った人物は、チベット帽(てっぺんが尖り、両側が垂れた、フェルト製の帽子)をかぶり、青い羊毛の部屋着の上に床まで垂れた羊皮のオーバーを羽織り、染めていない木綿のズボン下をはいていた。
「タルタル人の羊飼いのように見えた」とジャックモンは書いている。彼が敷居で靴を脱ぐと、皮のソールつきの絹のストッキングをはいていることがわかった。チョーマの気持ちをほぐすために、ジャックモンは使用人をはずさせた。
しかしチョーマは坐ろうとしなかった。このため礼を失さないように、ジャックモンも立っていなければならなかった。こうして彼らの会話はふたりとも立ったままでおこなわれた。ジャックモンはつぎのように記している。
「険しい山道を歩いてきてひどく疲れている者にとっては、立ちっぱなしで話をしたくはなかった」
会話はチョマがジャックモンの前で坐るべきかどうかという話題に終始した。チョマはジャックモンが地面に坐るよう提案しても、拒否したのだ。それは彼が是認しない地位の区別をしているように思えたのだ。この遠いところでは、ヨーロッパ人なら対等であるべきではないかとジャックモンは言った。
「彼はそれにもかかわらず、理由を論じることもなく、このばかげた形式にこだわるのです」とジャックモンは記している。「すこし常軌を逸しているようにも思えました。立ちっぱなしで疲れたので、アジア式に私は下がるようにと言いました」
つまり彼のほうが下のランクであるかのように、彼を退出させたのである。
翌朝、ジャックモンはチョマのもとに戻ってきた。チョマは驚くほどきっちりと区分整頓された大量の経典や書類に囲まれ、荒削りの木のテーブルの前に坐り、チベット語で書写していた。チョマはジャックモンが現れても、不愉快に思っているようではなかった。
しかしまたも立ったまま会話をすることを主張したのである。家屋(コテージ)の低い天井の下でも、背の低い(150cm)チョーマなら苦も無く立つことができた。しかし背が高いジャックモンにとっては低い天井は邪魔で、いつもお辞儀をするように前かがみになり、頭で天井をこすることになってしまうのだった。ついに彼はあきらめ、寝椅子に腰を下ろした。
チョーマはジャックモンをカヌムの寺院に連れて行った。そして重い木箱に入れられたチベットの大蔵経(カンジュルとタンジュル)を見せた。ジャックモンはチョーマの学者としてのすごさに恐れ入ったが、経典の中身に関しては鼻でせせら笑った。
彼は父親宛ての手紙のなかで述べている。
「立ったまま寝ることができそうなほど、経典が山積みになっているのです。ラマの靴の上に20巻ぐらい載せなければなりません。これらの経典はひどく陳腐な内容ばかりが詰まっています。たとえば浅瀬を渡るとき、祭司は牛の尾をつかんではいけない、といったことです。またグリフィンやドラゴン、ユニコーンの体の特性や羽根の生えた馬の角の讃嘆すべき美徳に関する学術論文などが含まれます」
こうしたことはうっとりとさせるようなものではある。しかし、言い換えれば、ジャックモンにとってチベット学の祖は、「信じがたいほどのエキセントリックなハンガリー人」にすぎなかったのである。
ジャックモンはチョーマがカヌムに来て3年たち、「疲れて、うんざりして、すべてがいやになっている」ことがわかった。チベット語の辞書と文法書はほとんど完成していた。チベット文学の調査もほぼ終了していた。プンツォグは彼の任務から解き放たれてほっと一息つき、チョーマはインドにもどって彼の仕事の成果としての出版物を見てみたかった。そしてようやく、学界において、また母国ハンガリーの仲間に認められ、彼の犠牲的精神が報われることを望んだ。
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