祖先と故郷
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ダライラマ六世とペマリンパおよび七世代離れたウギェン・サンポの血統との関係は図1に示されている。この関係図は摂政サンギェ・ギャツォがダライラマ五世から六世への移行や六世の生涯の最初の部分について書いた作品に含まれた情報をもとにしている。摂政は血統をきちんと調べるためにモンユルで詳しい調査をしたに違いなかった。そしてダライラマの親戚に彼らの祖先について質問したはずである。ラマ・ヨンテン・ノルブとラマ・テンズィンの二人兄弟はラマ・テンズィン・チューキ・ギャルポのもとで学ぶべくペマリンパの法座が守られてきたブムタンへ行った。兄弟の弟はさらに南チベットのロダク(Lhodrak)州へ、おそらく間違いなく、ラルン(Lhalung)僧院へと向かった。ウギェンリンに戻る前にもっと勉強したかったのである。彼は兄のテンズィンとともにウギェンリンを切り盛りしようと考えていた。幾世代にもわたって、ブムタンにおける一族の精神的遺産の源との接触は保たれてきた。たしかにダライラマの祖父(弟ヨンテン・ノルブの息子)は少なくとも一つの点に関しては、まさにペマリンパ風の流儀の行動を取った。彼、テンズィン・ダクパ(Tendzin Drakpa)は、「夢の中で銅色山[パドマサンバヴァの天国]を訪ね、偉大なる師から深い教えを受け取った。彼は偉大でパワフルなヨーギンとなり、神々などの多くの幻影を得た」。彼は八十歳まで生き、時間の多くをモンユル地区の北端のパドマサンバヴァを祀った二つの祠堂、とくにドムツァン(Domtsan)とカルポサン(Karpozang)で瞑想をして過ごした。摂政が、彼の孫が六世ダライラマとして発見されたときのことを書いているとき、彼の妻は存命で六十五歳だった。ダライラマの父ラマ・タシ・テンズィン(Lama Tashi Tendzin)に関する情報となると、もっとわずかだった。彼が偉大な美徳の持ち主であると聞かされているけど、結局はそれだけだった。ダライラマの母親ツェワン・ラモ(Tsewang Lhamo)はすでに述べたように、ベルカルの貴族の出身だった。古いニンマ派の家族と貴族の家族の結合は、期待感の高まるものだった。この結びつきはゲルク派の共感を得た。というのもこの時代、この二つの教派間の争いはなかったと考えられるからである。むしろ反対に、ゲルク派の長であるダライラマ五世はニンマ派と接触することで、大いに刺激を受けていたのである。
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