ダライラマ六世、その愛と死
宮本神酒男翻訳
23 六世、捕らえられ、北京へ
清皇帝のふたりの特使チャナラマとアナンカがラサに到達した頃には、サンギェ・ギャツォはすでにこの世の人ではなかった。思いもよらぬ展開に彼らは震撼した。
おそらく「殺生」から来る嫌悪のためか、おそらく敗れた弱者への潜在意識的な同情からか、おそらく事前に康熙帝がサンギェを排除するつもりはなかったことを知っているためか、チャナラマはラザン汗がサンギェを殺したことに対し、あきらかに不快感をあらわにしていた。彼はラザン汗になぜサンギェの死刑を執行したのか理由を問いただした。ラザン汗はしどろもどろで、うまく回答することができなかった。のちにこれは私怨を晴らすためにやったことだと言い逃れた。そしてもし皇帝が不当だとみなすなら、甘んじて罰を受けようと表明した。
チャナラマとアナンカはほかの説を聞いていた。それによるとラザン汗は六月の間に三路大軍に分かれてラサを奪取した。サンギェ・ギャツォはゴンガに逃げたが、ジェルンで殺された。また別の説によればサンギェ・ギャツォは捕まり、当日のうちに処刑された。ラザン汗は人情というものを知らないようだ。別の説によれば、ラザン汗はダライラマの名義でサンギェに投降を呼びかけたあと、実際投降してきたサンギェの生命を守ろうとはしなかった。この少し前、サンギェはラサの自宅の中にいたが、ラザン汗率いる兵士たちが攻め込むと、彼はラサ近郊の城砦に逃げ込み、固守した。そのときダライラマは彼に投降を呼びかけた。
ふたりの使者はダライラマ六世に拝謁したが、事の真相を明らかにすることはできなかった。サンギェ・ギャツォが殺されたのは間違いなく、それは取り返しのつかないことだった。双方とも長年にわたって争うなか、暴力と陰謀を使ってきたのは間違いなかった。死者たちは懸念を持ちながら、意気消沈して北京へ戻った。彼らは状況を文章にまとめて奏上文を書き、康熙帝に報告した。
蝋月(旧暦十二月)の北京。天気は晴れ。一日中乾清宮で政務に忙しい康熙帝は、少しでも時間があれば外に出て日光を浴びた。彼の目は習慣として奏上された上奏文に向けられた。彼は8歳のとき即位し、14歳のときから親政をはじめて44年間も皇帝の位についていた。つねに外出して遠くまで行ったが、軍政のことが心から離れず、ゆったりと暇を楽しむ余裕はなかった。
彼は言官周清源の請求に応じて、各省に育嬰堂を建てるよう命じたところだった。チャナラマとアナンカがチベットに関しての上奏文を提出したと聞いて、すぐにそれを開けて閲覧することにしたのである。
少し前に彼はラザン汗からの上奏文を読んでいた。サンギェ・ギャツォの失敗に関し、惜しまずにいられなかったが、内心はある種の満足を得ていた。彼はチベットの形勢に関してひたすら考えていたが、チャナラマの報告を待つことにした。新しい策はそれから作ればいい。そして今、チャナラマの奏上文が到着したので、彼は何度も読み返していた。またラザン汗の上奏文を引っ張り出して、読み返した。明らかになったのは、サンギェ・ギャツォが死んだことであり、ラザン汗がチベットの実権を握ったことだった。朝廷にとってはサンギェより彼のほうが有能だった。残された問題はダライラマ六世をどういうふうに対処するかということだった。
康熙帝は考えた。ラザン汗が言う「偽ダライラマを立てたディパを廃した」という見方を取ることができなかった。というのもチベット人やモンゴル人はダライラマを崇拝していて、たとえ偽ダライラマであったとしても、ダライラマの名を有しているのに違いはなかったのである。モンゴルの各部はダライラマを尊敬しているので、各部のバランスをはかる役割を持っていた。もしダライラマを廃位するようなことがあれば、モンゴル人の間に不満を巻き起こし、大混乱が生じるだろう。最悪なのは、ダライラマがほかのモンゴル部落の手中に収まることだった。とくにジュンガル盆地の首領ツェムン・アラブタンの手中に収まることがあってはならない、と康熙帝は考えた。このガルタンの甥は叔父を助けることによって朝廷にも功があったのである。彼はアルタイ山から西方のイリにかけての区画が与えられ、そこで遊牧をしていた。彼は順調に実力をつけ、それにつれて野心を発展させていった。こうして自立して汗(ハーン)になった人はつねに東のほうを侵略しようとしていた。そんな野望を持つ人物に対し、康熙帝は警戒を怠らず、防備を固めねばならなかった。もしダライラマが朝廷の権威のもと掌握したなら、ツェムン・アラブタンによって迎えられ、野心家をあらたに招き、その他のモンゴル部落を篭絡することができるだろう。そして他者の気勢を飲み込み、朝廷に謀反を起こす方向に進んでいく。そうだ! まずチベットからダライラマを出すのもよかろう。
康熙帝は熟慮したあと、聖旨を発し、護軍統領に席柱と学士舒蘭経を任命し、彼らをチベットに派遣した。
席柱と舒蘭経は北京を出発し、四か月以上かけて山を越え、谷を渡り、ラサにたどり着いた。ラザン汗はひざまずいて聖旨をうやうやしく受け取った。聖旨にはこう書かれていた。「はかりごとをし、毒殺を試みるなど、悪行を重ねたサンギェをラザン汗は武力でもって駆逐した。ラザン汗は人馬を集めてサンギェを討伐し、チベットに安定をもたらしたので、詔にて『翌法恭順ラザン汗』に封ず。サンギェが擁立したダライラマ六世は廃位にすべきとの奏上。すべからく捕らえて京に護送すること」
ラザン汗は『翌法恭順ラザン汗』の金印を受け取り、北方に向かって感謝した。彼はすでに皇帝の承認を得て、王に封ぜられたいという願い(世襲のハーンの位とは違う)を現実のものとすることができた。つぎの重要なことは、ツァンヤン・ギャツォを北京に送ることだった。
「大皇帝さまはさらにどのような聖旨をお持ちでしょうか」恭順汗は恭順に(うやうやしく)聞いた。
席柱は本来細かくこの問題について扱わなければならないが、即座に答えた。「サンギェの妻も北京へ送らねばならぬ」
「妻は自害しました」肯定するかのような口調でラザン汗は言った。
席柱は「おおっ」と声をあげ、理解したことを示した。そしてつづけて言った。「偽ダライラマの護送に関してだが、対外的には、皇帝の命令によってツァンヤン・ギャツォが京へ行き、皇帝に謁見することになっている」
ラザン汗はかえって押し黙ったままだった。彼と康熙帝は、さらにはツェムン・アラブタンおよびほかの有識者たちは、みなダライラマ六世がサンギェ・ギャツォの政治的産物であることを知っていた。とはいえダライラマはダライラマだった。頭上には神聖なる仏光の輪が輝いていたのである。サンギェは死んだが、ダライラマが簡単に消えることはなかった。彼は半日も黙ったままだったが、ついに口を開いた。
「今政局は穏やかですから、サンギェの残党もまだ駆除されていませんし、ダライラマの偽善も庶民は知りません。もしダライラマがチベットから遠く離れて、万一にも民心が変わり、僧侶たちが離散するようなことが起こりましたら、大皇帝さまの憂慮がまた増えることになるのではないかと心配です」この新たに封ぜられた恭順汗は、この問題に関しては不恭順だった。
「まあ、京に戻り皇帝に奏上したあとでふたたび伝えることになろう」席柱には彼がダライラマの護送を望んでいないように見えた。もっともなことではあったが、これについてそれ以上話そうとはしなかった。彼は心の中で思った。この汗はすでにダライラマを手中に収めている。そのほうが何かと有利だからだ。それならば彼にそうさせていよう」
席柱と舒蘭経はラサでのことを奏上すべく京に着いた。康熙帝はおりしも諸大臣との議事を進めていたところで、奏上文を見たあと、それを全員に閲覧させた。大臣たちは何もしゃべらず、互いに見合ったが、どんな意見を言うべきかわからなかった。皇帝は笑いながら言った。「ラザンは今従おうとしないが、後日必ずダライラマを捕らえ、こちらに護送することになるだろう」
まさに康熙帝が予想したとおり、ラザン汗はサンギェ勢力の残党を駆逐したあと、次第にダライラマ六世を身辺にとどめるのは害が多く利が少ないと感じるようになった。何と言おうとも、ツァンヤン・ギャツォはサンギェの権力の象徴だったのである。つまりサンギェの罪悪の証のひとつだった。ラザン汗はついにダライラマ六世を北京に護送することに決めた。
彼はこうしてツァンヤン・ギャツォを廃したときに騒乱が起きるのを防ぐために、一歩一歩自分の勢力を強固にし、強化していった。彼は前年に任命していた新で施(宰相)のロンセを探し出し、厳重に封鎖していたポタラ宮の任務に当たらせた。彼はまたチベットの有名人士たち(チベット史上重要な役割を持つことになる若き日の俗官ポロネーを含む)を篭絡し、買収していた。こうして現地の人の彼への支持が増加していた。彼はまたサンギェ・ギャツォの親戚や部下、残党を全員捕まえたが、あのニセ乞食だけは捕縛することができなかった。彼は現在の新疆のジュンガルのモンゴル部落に逃げ込んでいた。ツェムン・アラブタンの軍隊に合流し、サンギェの仇を取ることにしたのである。敵対する人物がいて、逮捕できるのであれば、即座に逮捕した。逮捕する必要がなければ、人をやって監視させた。
ツァンヤン・ギャツォに対する処罰がついに下ることになった。この深みにはまった若い詩人は渦に巻き込まれ、瞬く間に水底に沈んでしまった。
ツァンヤン・ギャツォはサンギェ・ギャツォが死んだという知らせを聞いて心が張り裂けそうになった。かつては恨みに思ったのに、今となっては死が悔しくてならなかった。博学多才な人であり、本来は敬慕の情を持っていたはずである。しかし目指すものが別で、うまくつきあうことができず、挙句は傷つけあう間柄になってしまった。
死者に対しては許しの気持ちを持ってしまうものである。ツァンヤン・ギャツォは黙ってサンギェの書室に入った。そこには大きな卓があり、卓の上に手稿の束が置いてあった。めくって読んでみると、それはディパが生前に書いたツァンヤン・ギャツォの伝記だった。彼は感激し、好奇心に駆られ、疑いを持って、つまり複雑な心境で卓の前に座って手稿を読み始めた。
窓の外は暗い雲が垂れ下がっていた。室内は灯火が消えかかっていた。ツァンヤン・ギャツォは前半の一部を読み終えると、頭がくらくらしたので、手稿を下に置き、目を閉じて神経を休めた。文中には彼に関する描写があり、心が安らかというわけにはいかなかった。サンギェによると彼は幼少の頃、「私は小人物ではない」「私はラサのポタラから来た者だ」「私はポタラに行きたい」などと言ったらしい。また「私は自分の小便を大事にする。みだりにこぼしてはいけない。あなたがたはそれを飲みたがるだろう。それで福の力を得られるのだから」とも言ったらしい。また彼は母親が糸を紡いでいるのを見て次のようなことを言ったと書かれている。「そんなことはなさいますな。私があなたを食べさせてあげます」そして彼は紡錘を奪って捨ててしまった。彼はまた他人より先に飲み食いすることを望んだという。それができなければ機嫌が悪くなり、他人に命令した。「もっともおいしいものをどうして送ってくれないの?」と。ツァンヤン・ギャツォはここに至ると疑いの気持ちでいっぱいになった。記憶するかぎり、自分のことを特殊な貴人とみなしたことはなかったからだ。
彼は発想の視点を変えてみた。もし自分がサンギェ・ギャツォの伝記を書くとなったら、どのような評価を彼に与えただろうか。当然私のことを神化したように、彼のことを神化することはないだろう。彼は私のことを神化したが、一方で私のことを否定し、ニセダライラマと決めつけ、遊び人と批判した人々もいたではないか。私が彼を神化しても、おなじように彼を否定する人々もいるだろう。畢竟(ひっきょう)、われわれはみな活きている人間なのだ。彼は神化など望んでいなかった。間違ったことをして、罪を得たなら、富や地位など「糞くらえ」なのだ。あるいは善をなして、功績が残ったところで、最後には殺されてしまうのに、大英雄とみなされて何だというのだろうか。
惜しむらくは、ツァンヤン・ギャツォにはサンギェの伝記を書く機会がなかった。自分の伝記も完読することができなかった。というのもまもなくして彼はポタラ宮から追い出されてしまったからである。
五月一日。
ラサにいささか遅れて春がやってきた。窪地の草原はちょうど一面に若緑が芽吹き始めたところである。暗くどんよりとした空からは雪や霰が落ちてきた。街のいたるところで垂れ下がる柳の枝はすでに柔らかくなっていたが、冷風のなか、震え、縮みあがって、芽を出そうとはしなくなった。
ポタラ宮からラザン汗の邸宅まで厳戒態勢が敷かれていた。モンゴル人の軍隊と新ディパのロンセの武装組織とで細かく分業して各自の地域を守るべく治安に当たっていた。大きな戦争勃発というわけではなかったが、異常なほど厳粛な雰囲気があり、人を窒息させた。人々の心はみな張り詰めた弓のようであり、究極的にどのような重大なことが発生するかわからなかった。遠くから眺めると、各大寺院の活仏やモンゴルの高僧が続々とラザン汗の邸宅の門前で馬から降り、あわてて中に入っていく光景があった。彼らはみな「要請されて」やってきたのだという。「呼ばれて」やってきたのはただひとり、ダライラマ六世ツァンヤン・ギャツォだった。
チベット史上まれなダライラマの宗教裁判会議が始まろうとしていた。
会議の招集者であり主宰者はラザン汗だった。出席者で唯一袈裟を着ていないのがラザン汗だった。彼は四囲を見回し、それからある一点に意識を向けると、特別な感覚と孤立感が彼に襲い掛かってきた。
指定された位置に――普通の席だが――ツァンヤン・ギャツォが座っていた。ダライラマにとってこの席はいわば被告席だった。このとき彼は唯一優遇を受けていた。すなわち侍従が――ガルタンが――背後にぴったりくっつくことが許されていた。齢六十を超えたこのラマは三朝元老(在職期間の長い古老の大臣)のような感覚があり、表情には重圧があらわになり、漠然とした神妙さが感じられた。
ラザン汗がツァンヤン・ギャツォのほうを盗み見ると、その視線はまさに入ってきた活仏やケンポ、高僧らに向けられていた。
人々の目は期せずしてツァンヤン・ギャツォのくるくる動くまなざしに向けられた。彼らはこのようなまなざしを見たことがなかったかのようだった。いかなる詩人や画家もそれを描くことができないことを彼らは悟った。それは太陽のように熱く、月のように冷たかった。大海のように深く、小さな谷のように浅く清らかだった。それは友愛に満ち、疑惑が透きでていた。温かさのなかに堅固さがあり、平和のなかに憤慨があった。少女のようにかよわく、老人のように頑固だった。天真爛漫でありながら成熟し、率直でありながら隠蔽していた。同情を探し求めているのだろうか。そうではなさそうだ。では反抗をそそのかしているのだろうか。そうではない。そして人は最後に胸を締めつけるものを探し当てる――訣別である。
ラザン汗は絨毯にこすった手のひらをじっとり汗でにじませながら、軍令を発布するような口調で言った。
「みなさんご存じのように、ツァンヤン・ギャツォは仏門の規則を守らず、しばしば戒律を破り、遊び人を気取るなど、まことのダライラマとはとうてい言えません。廃位とすべきでしょう。意見があればお申し出ください」
出席者は互いに目を細めて見合わせ、長い時間黙り込んだ。満杯の議事堂は風の音ひとつ立たないうつろな谷のようだった。雪か霰(あられ)でも舞っているのか、窓の外からはわずかながらサラサラという音が聞こえた。
「異なる見方がないようなら、意見が一致したということでよろしいかな」ラザン汗は半ば威嚇するように促した。
「では聞いていただきたい」ミンドゥ・リンポチェが手を合わせながら言った。「ダライラマの行いに節度がありませんのは、菩提の心を見失ったがゆえであります。まして生まれた家系は代々ニンマ派、ゲルク派の規則に不慣れであったことはいたしかたありますまい。それは衆生の知るとおりでございます。このダライラマが本物ではないというのは当たっておりませぬ」
俗に言う、一鳥飛べば、百鳥影に従う、と。ミンドゥ・リンポチェはダライラマ五世の親友であり、そもそも徳が高く人望があった。彼がこのように言ったことで、ダライラマ六世を弁護する風潮が高まったのである。会場はにわかに活気立った。
「そのとおりだ! 遊び呆けていたのは事実だが、破戒僧となったわけではない」とケンポのひとりが言った。
「民間には六世に関する詩としてこんなのが流布しているぞ。<女人と過ごしているが、ともに寝たことはない。女人と過ごしているが、いまだけがれたことはない>。前半は大げさだが、後半は事実に間違いない」レティン寺の活仏が肯定的なそぶりを添えて発言をした。
「ダライラマ一世から現在にいたるまで二百八十年余り、この六世だけに真贋の論戦が起きるとは、いったいどういうことなのか。前代未聞のことである。これ以上これについて考えとうないわ」ほかの活仏は追及の構えである。
「ダライラマ四世はモンゴル人である。われらチベット人のだれも四世が偽物とは言っていないではないか」議事堂の隅から年老いた声が聞こえてきた。声は小さかったが、とげとげしさがあった。ラザン汗をじっと見る人がいた。割って入った人に替わって心配しているかのようだった。
割って入ったのは六世に仕えるゲタンだった。
「六世がダライラマの座に正式に就いたのは清皇帝の批准があったからである。今に至るまで皇帝が六世を偽物だと断じたとは聞いていない。これはただならぬことである。ラザン汗どのにはよくよく考えてから実行していただきたい」デプン寺のケンポはいささか動揺していたが、極力耐え忍んでいた。
みながそれぞれ勝手にあれこれと見方を述べたが、だれひとりツァンヤン・ギャツォは本物のダライラマではないとは言わず、ディパ(摂政)サンギェ・ギャツォに言及する人もいなかった。サンギェ・ギャツォはすでに死んでいたので、ツァンヤン・ギャツォこそ救いの手が必要だった。彼らはこの若者の境遇と処遇に対し、それぞれ複雑な心情を持っていたのであるが、ある一点に関しては共通していた。すなわちだれもがみな心の中に彼の詩歌を抱いていたのである。
「よかろう!」ラザン汗は立ち上がった。「みなさまの慈悲深い心には胸がふさがれる思いだ。しかし情によって改変されるものはない。みな忘れてしまわれたのか、ツァンヤン・ギャツォが本物のダライラマでないことをわたしが発見してからすでに五年がたつ。康煕四十年にわたしとツェワン・アラブタンは彼が真のダライラマと認証することはできないという共同声明を出している。本人にも異議はなかったようだ。それどころか自らシガツェに出向き、パンチェンラマのもとで退戒し、ダライラマの座から降りると宣しているのだ。今に至ってあなたがたは何を弁解しているのか」
ラザン汗は怒りを抑えながら高い声で言い放った。「いま、わたしはここに宣言する。皇帝の詔にしたがってわたしはツァンヤン・ギャツォを京師に護送する。これにより皇帝は彼がポタラ宮の座に二度と登ることがないことを認める」
会場に驚嘆の声がどよめいた。
ラザン汗は場内を見回し、つづけて言った。「わたしにはどうしてもみなさまに伝えなければならないことがある。サンギェ・ギャツォは食べ物の中に毒を入れ、わたしを殺そうとしたのである。殺人の禍を招こうとしたのに、いまだに報告がなされていない。もし今後わたしをあやめようと考える者がいるなら、その者は懲罰を逃れることができないだろう。ツァンパはよく噛んで食べなければならない。言葉はよく考えて発せられなければならない。長短ははかられなければならない。真偽は弁別されなければならない。わたしからの忠告は以上である」
会場には沈黙が戻った。静けさのなか参加者は散っていった。
人々は各自の寺院に戻っていった。ツァンヤン・ギャツォだけがポタラ宮に戻ることができなかった。この日から二度とポタラ宮に戻ることはなかったのである。彼はラルーのラザン汗の兵営に連れられていった。戦うことも降参することもない俘虜となったのである。
正門の外でみなと別れるときのツァンヤン・ギャツォの表情は痛ましかった。彼はとくにミンドゥ・リンポチェのもとに近寄っていった。早くからその名を知っていたが、会うのははじめてだった。この尊敬すべき人物の前に立つと、彼は抑えきれなくなり、袖で口元を隠したが、熱い涙がポロポロと落ちてきた。おそらく早くに亡くなった父親のことを思い出したのだろう。
ツァンヤン・ギャツォはラザン汗の営舎の部屋に押し込められて以来、一切の自由を失っていた。ラザン汗の同意でゲタンがポタラ宮に行き、私物を取ってきたが、ほかのだれも面会に来ることは許されなかった。
ゲタンはポタラ宮に戻る前、ダライラマ六世が悲痛に過ぎ、孤独に耐え切れないのではないかと恐れ、慰めの言葉をかけた。「ダライラマ法王さま、どうか心を安らかにしてください。北京に着けば、皇帝が礼をもって迎え、厚く待遇してくださるでしょう。先代の五世さまがそうだったではありませんか」
「わたしと五世とでは比べようがないよ」ツァンヤン・ギャツォはため息をつきながら言った。「皇帝の目の前も、ラザン汗の目の前も、おなじだ。どちらも怖くてたまらない。ただ、どうでもいいことだが、サンギェ・ギャツォがかぶっていた古い帽子をかぶろうかと思う」
彼は一呼吸置き、悲痛な面持ちで言った。「ゲタン、わたしはおまえに友人として扱ってほしい。わたしのすべてをおまえはわかっているのだから。かつてわたしは自由な生活が欲しくてダライラマをやめたかった。いま、本当にダライラマをやめることになり、かえって自由な生活を失うことになってしまった。囚われの身が囚われの罪びとになり、仏宮から兵営に身が移された。わたしの羽根は傷つき、わたしの天空は低く小さくなった。林の中の小鳥がどんなにうらやましいことか!」ツァンヤン・ギャツォの声はむせび泣きのなかに消え、ゲタンの老いた顔は涙にあふれていた。
天上からは鷹の叫び声が響き渡り、地面からは軍馬のいななきが聞こえた。彼が耳にするのはこのようになじみがなく、はるかに遠く、まるで名もない世界からやってくるかのようだった。
ツァンヤン・ギャツォはゲタンに近づいて言った。「ある人はわたしは本当のダライラマではないと言う。もとよりこのことはわたしにだってよくわからないのだ。そう、たしかにわたしは規則を守らなかった。戒律を破った。さまざまな色の鮮やかな花を愛でるように、あるいは山の峰々を崇拝するように、わたしは少なからぬ女人に親しく近づいた。わたしはダライラマ六世である。わたしはタンサン・ワンポである。しかし結局のところ(帰根結蒂)わたしはツァンヤン・ギャツォである。太陽には日蝕があり、月には月蝕がある。瘤のない木はない。過失のない人間などいるだろうか。わたしは軽々しく信じるほうであったし、軽はずみなこともあった。わたしは荒唐無稽なところがあり、悔恨にまみれることもあった。しかしわたしは人の心を害したことはなかった。わたしは繰り返し考え、何度も比較してみたのだが、女性の中でもっともわたしのことを理解してくれたのは、了解してくれたのは、わたしのために危険を冒してくれたのは、真にわたしを愛してくれたのは、わたしがもっとも愛したのは、ただひとり……」
「ユドン・ドルカルだな」ゲタンは言った。
「そう、そうだ」ツァンヤン・ギャツォの顔がほころんだ。「わたしと彼女はこの世でふたたび会うことはないだろう。お願いだ、ポタラ宮に戻ったあと、手立てを講じてタルゲネの妻ツァンムジェと酒店の女主人ヤンツォンに、わたしの代わりにコンポ地区のロンシャの荘園に行ってもらいたいと告げてくれ。そしてユドン・ドルカルにわたしの現状を伝えてもらい、最後のわたしの詩を彼女にわたしてほしい」そう言うと彼は懐から紙を取り出した。ゲタンはこの詩がいつ書かれたものかわからなかった。また、いったい何日間懐の中にあったかわからなかった。ゲタンは両手でうやうやしく受け取り、紙の上に書かれた数行の詩をあわただしく一瞥した。
この短い一生において
あなたはどれだけこのようにもてなしてくれただろうか
来世では少年少女のときにまた
ふたたび逢うことができるだろうか
ゲタンは捧げるように手の上に紙を置いたまま、耐え切れなくなった子供さながらに大泣きしはじめた。ダライラマ五世の崩御のときよりもいっそうひどく心が痛んだ。彼は五世に対してはひたすら崇拝していたが、六世に対しては愛着と憐憫の情をあふれるくらいに持っていた。
ダライラマ六世が裁判を受けたこと、そして囚人として収監されたことは即刻広く知られることとなり、ラサに激震が走った。人々は遠くからでも、近くからでも、高いところからでも、低いところからでも金色、青色にきらきら輝くポタラ宮を眺めることができた。しかしこのポタラ宮はいま空(から)であり、外側の石でできた殻だけが残っていた。ダライラマの寝宮の窓の上のほうには黄色い布が垂れ下がっていて、失った主人の悲哀を隠そうとしているかのようだった。
ダライラマへの信仰、若い詩人への愛着、被害を受けた無辜なる者への同情、同族の長への依怙贔屓(えこひいき)……人々の心の中に火花が集まり、煙が出て、燃え広がり、ついには燃え盛る大火となった。
商店はぞくぞくと閉店し、休業した。人々はいっさいの活動を停止して抗議の意思を示した。白日のラサが突如として暗黒の夜よりもいっそう冷たく感じられた。ラザン汗の軍人たちの靴音だけが路地裏にコツコツと響き渡った。
ポタラ宮下の酒店も門をしっかりと外から閉めた。ここは休業期間がもっとも長くなった。女店主のヤンツォンがゴンポ地方に行ったからである。ユドン・ドルカルが死んでいるのでなければ、まだ完成していないゲタンが与えた以前の任務に彼女を戻すことを誓った。
半月後の1706年6月17日(チベット暦火犬年五月十七日)、ツァンヤン・ギャツォは皇帝の使者席柱と舒蘭経に伴われ、タムディン・スルン率いる軍隊によって、拘禁されていたラルーを出発し、はるばる北京へ向けて護送されることになった。
ラザン汗の武力に押し切られ、ついにダライラマ六世の廃位が正式に決まった。
この特殊な、きわめてまれな囚人を護送する隊列には、縄も、枷(かせ)も、護送車もなかった。人々の心を過度に傷つけまいと、ラザン汗はこれらのものが隊列にないようにと命令を出していたのだ。また、ツァンヤン・ギャツォが元気いっぱいの馬に乗り、プル(チベットの毛織物)の里ジェデショ(lje bde zhol)で織った特製の袈裟を着ることを容認した。
ツァンヤン・ギャツォは目を閉じた。遠くに離れるいっさいのものを見るに忍びなかった。いっさいのものには、石のひとつひとつ、部屋の隅、一陣の風、雲一片なども含まれていた。これらすべてに対し、彼の心は惜別の情でいっぱいだった。
突然はるか遠くから狂風のような、雷鳴のような音が聞こえてきた。この音はしだいに近づいてきて、ラサを震わせ、天地の間を混沌とさせた。ツァンヤン・ギャツォは目を見開く必要がなかった。四方八方から彼に向かって数知れない群衆がわき出ていたのだ。勢い余った人の波はラサの土地を飲み込み、騒ぎ立てながら、踊りまくりながら、前方の人々に合流していった。タムディン・スルンが号令をかけると兵士たちは堤防のごとく四方に進んでいき、人の波を押さえようとした。ツァンヤン・ギャツォはこの人の渦の中の中心にいた。一瞬、これはいいことかと思えたが、すぐにこれ以上のことが起こらないように願った。
士官や兵士たちが厳しい声でしかりつけ、群衆に退去するよう命じた。しかしだれの耳にも聞こえなかったかのようだった。席柱はあぶみに足をかけ、鞍からめいっぱい体を起こし、全身に力を入れて大声で叫んだ。
「みなさまがた、大清の臣民よ、わたしは皇帝の使臣であります! あなたがたのダライラマ法王は、皇帝からのお召しがあり、北京へ向かわれるところです! どうか安心なさってください。すぐに戻ってきますから! 尊いおかたを驚かさないでください! さあみなさん、ふだんの生活にお戻りください!」
やや静まったかと思われた一瞬ののち、泣き声が爆発した。そしてそれに混じって肺臓が張り裂けそうな叫び声がとどろいた。老人は自分の子供が奪われたかのようであり、子どもは父母と死別したかのようだった。手に何の武器も持たず、叫び声をあげる人々は、胸元に剣の先を突き付けられながらも、兵士の頭越しに数知れないカタ(儀礼用スカーフ)、金銀、バター、ツァンパ、針と糸、ブレスレット、玉、干し果物などをツァンヤン・ギャツォの馬の前に投げ入れた。この奇異なる雪、奇異なる雨、奇異なる霰(あられ)は彼らの心の内で凝縮されて黒雲となり、降ってきたのである。ツァンヤン・ギャツォはあわてて馬から飛び降り、両手を高く挙げた。彼の目からは熱い涙があふれ出ていたので、よく見えなかった。千もの、万もの顔がふたりの顔になった。ひとりは彼の母であり、もうひとりは父だった。彼らは死んではいなかった。愛によって彼らは復活したのだ。
人々はつぎつぎとひざまずいていった。あたかも水の流れが低いところへ落ちるかのようだった。さまざまな泣き声や叫び声が同時に起こった。
「ああ、仏さま、われらを祝福してください」
「法王さま、一路平安を願います」
「早くお戻りくだされ」
「哀れなわれらを見捨てないでください」
「慈愛の菩薩さまがなぜ行かれるのか」
「われらはみな釣り針を待っております。あなたさまの世を救う釣り針をみな望んでいるのです」
「……」
ツァンヤン・ギャツォは十字に合わせた両手であごの下の涙をこすり、もう一度目を閉じた。
人は愛の海に溺れているとき、どうしたらいいかわからないものだ。
何人かが兵士らによって打たれて負傷したあと、群衆は少し退却を始めた。押し合いへしあいがつづくなか、西側の群衆の中を縫うように出てきたのは、六世を護送する隊列だった。彼らは縫うようになんとか進みながら、ゆっくりと西へ向かっていた。あまたの人々が、腰をかがめ、頭を低くし、涙を拭きながら、隊列の後ろについて歩いた。それはまるで端まで見渡せない葬送の行列のようだった。各大寺院の屋上で皮太鼓や法螺貝が鳴らされ、道路の両脇では松の葉が燃やされた。たいへんな盛り上がりようで、厳粛な雰囲気があり、九年前彼がポタラ宮にやってきてダライラマの地位に就いたとき以上だった。
隊列はラサの西の郊外にあるデプン寺の南側の大道にたどりついた。見送った群衆もこのあたりで歩をゆるめ、ぞくぞくと離れていった。
この道はラサを出発し、青海を経て北京まで行くとき、通らねばならなかった。道はラサ北西に連綿とつづく山脈の南側を通って伸びていき、ヤンパーチェン(羊八井)にたどり着くと、転じて北へ向かった。道路際の寺院のなかでもっとも大きいのがデプン寺だった。明の成祖永楽十四年(1416年)に創建された数千人の僧侶を擁するデプン寺はラサ三大寺のひとつであり、六大ゲルク派寺院のひとつだった。寺院は東、西、北の三方向を山に囲まれた巨大な馬蹄型のくぼみにあった。寺院は高いところから見下ろす位置にあり、険要で、そのさまは気宇壮大だった。地理感覚にすぐれ、審美眼を有したツォンカパの弟子ジャムヤン・チュジェが立地を選んだ。
ツァンヤン・ギャツォを護送する隊列がデプン寺下の東側の山裾を回ったとき、待ち伏せしていた千人の武装した僧侶が突然山から下りてくると、電光石火のごとくラザン汗の兵士たちの動きをはばみ、疾風のごとくダライラマ六世を「強奪」した。
ラザン汗はツァンヤン・ギャツォが僧侶らによってデプン寺に連れ去られたと聞いて激怒した。彼は各地の強力軍にデプン寺を取り囲むよう命じ、僧侶たちに向かって殲滅させるほどの攻撃を加える準備を整えさせた。彼はダライラマが他人の手に落ちることを許さなかったし、またいかなる人が彼の権威を貶めることにも我慢ならなかった。
デプン寺の僧侶たちはダライラマをラザン汗に渡すわけにはいかなかった。彼らはダライラマ法王をラサにとどめることを、命を懸けて誓った。かつ一切の代価を惜しまず、ダライラマが陥った悪運から救い出したかった。彼らはけっして孤立していたわけではなかった。チベットにはダライラマのためなら流血をもいとわない人々が少なからずいた。レティン寺は早くからラザン汗の軍隊と一戦を交える決心を固めていた。それは秘密でもなんでもなかった。
ラザン汗はデプン寺に対して、三日以内に「偽ダライラマ」を差し出さなければ攻撃を開始するという最後通牒を出した。この攻撃は生きていようが死んでいようが、ツァンヤン・ギャツォを奪回するまでつづくとした。
デプン寺はラザン汗への回答を拒んだ。そして「ネチュン護法神はすでに明確にダライラマ六世は本物のダライラマであり、偽物ではないと示している」という声明を出した。彼らは命がけでダライラマを取り返したのであり、彼を守るためなら死をもいとわなかった。
険悪なムードは異常なほど高まった。何万もの僧侶と兵士から死傷者が出るのは避けられない情勢となった。
両者が対峙する緊張した雰囲気の中でゆっくりと三日間が過ぎた。仏門の内外の土地で無辜の者たちの鮮血が流れようとしていた。これを押しとどめることができるのは、はるか遠くにいる清の皇帝だけだった。しかし康熙帝はこのときまさに奏上文を見ているところで、事態がこのようになっていることを知る由もなかった。
ラザン汗は陣を張る武装僧侶たちを見て怒りが収まらなかった。そしてついに手を挙げ、総攻撃を指示した。兵士たちが雄叫びを上げ、前進を開始したちょうどそのとき、ひとりの若い僧侶が寺院の門から外に出てきた。彼はよろめきながら小走りに両軍の陣営の前にやってきて立ち止まった。息を整えた彼は殺戮をはじめようとしていた両者を眺めたあと、大股でラザン汗の陣営の中に入っていった。
ラザン汗の前に出た彼は平然として言った。「わたしを連れていってくれ」。そして翻ってデプン寺のほうを見て「わたしのために血を流すな!」と叫んだ。馬蹄型の谷から呼びかけに応じる声があちこちから聞こえた。
若者はツァンヤン・ギャツォだった。
彼を護送する隊列はふたたび進み始めた。