第2章
サンドペリの浄土から、美しいナーギー(竜女)ゼデンとその息子のみじめな生活を見て、パドマサンバヴァは不快に思った。彼は浄土の王宮を出て、何年も前に神々の集会を開き、仏法の敵を倒す者としてトゥパガワを選んだ浄土へと向かった。
彼は尊敬の念をもって迎えられた。そしてさまざまな場所の住人とスカーフ(カタ)や祝辞を交換をしたあと、パドマサンバヴァは彼らに坐るように言い、訪問の目的について説明した。
それぞれの地位の高さに応じて場所を取り、座布団や絨毯の上に坐った。そしてパドマサンバヴァは語った。
「集会を開いたとき、仏法を脅かす危難を乗り越えるための方法について論じたことを、みなさんは覚えているだろう。モ(占い)を何度もやって運命についてたずね、聖なる仏法の敵である悪魔と戦い、調伏することを義務づけられた者として、トゥパガワを選び出した。
これらの決定にしたがってトゥパガワは現世に転生した。すなわちナーギーのゼデンの息子である。トゥルクは彼を殺そうとする人々に勝利し、さまざまな方法で力を示した。しかし母とともにマメサダルンゴに追放され、極貧に陥り、ネズミを食べて飢えをしのいでいるありさまである。
このようにして彼はリンの国王になれるのだろうか? 神託が予言したように、強大なルツェンやホルの覇者、国王サタムやシンティなどを征服できるだろうか?」
神々はパドマサンバヴァの発言の公正さを認識し、彼らが自分たちの役割の履行を怠ってきたこと思い知った。パドマサンバヴァは言った。
「これ以上遅れることは許されませぬ。私はすぐトゥルクのところへ行こう。そして彼を目覚めさせて、彼に課せられた使命を思い出させないといけない。あなたがたはみな、彼の手助けをすると約束したのだから、よく目を凝らして見守り、必要なときは駆けつけていただきたい」
パドマサンバヴァの尊い言葉に神々は拍手喝采した。彼らはそもそも兄弟トゥパガワがリーダーをつとめる賞賛すべき企図を熱狂的に支持していたのだ。それからパドマサンバヴァは、テントの形をした光の中に虹を作りだし、そこから入って、子供がいる場所に降臨した。
「尊い神の子よ。祝福すべき天上世界にいたドゥプトブ(成道者)トゥパガワよ。人々の安寧をはばむ悪魔を倒すという重大な仕事をするために、そなたを人間世界に降臨させたのは、この私、パドマサンバヴァである。そなたの誕生には、乳であるケンゾと母であるナーギー(竜女)のゼデンの尽力があったからこそである。しかしいまのようなみじめで、怠惰な生活をはじめて3年もたってしまっている。この生活は終わりにしなければならない。そなたがもともとだれであったか、人間世界に送られたもともとの使命が何であったか、思い出さなければならない。
それゆえそなたの名はケサルでなければならない。リン国の王、ケサルである。そなたの強さとそう呼ばれるべき運命とを意識しなければならない。リンへ行って、王位に就かなければならない。リンの人々はすべてそなたの家臣となり、勇敢なる戦士となるであろう。これを実現するために、智慧と能力のすべての源泉を使うのだ。
神々の集会で、そなたが転生することが決定した。そなたはさまざまな条件を私に求めた。そなたが引き受けるという同意があったからこそ選ばれたのである。いくつかの条件はすでに満たしていた。そなたが求めた通り、父はケンゾ神であり、母はナーギー(竜女)であるゼデンだった。そなたが生まれた日、仔馬も生まれた。[訳注:ブッダと愛馬カンタカも同日に生まれている。「ガンダーラの釈迦物語」参照] そなたが望んだように、駿馬としてのあらゆる要素を持っていた。ほかにもさまざまなものが与えられていたが、そなたは気づいていないようだ。ともかくまず、シダク・マギャルポムラに隠されている8つの宝を得なければならない。
そなたが望んでいたことのひとつは、そなたの生命の維持である。事故による不慮の死がないようにそなたは求めていた。それゆえ強力なマントラがよまれる間、生命の結び目(tsedus)は、千の吉祥の神々と結ばれているのである。[訳注:おそらく正しくはtshe mdud] 生命を維持する聖なる女神によって聖化された、生命の水(tsechu)、そして無限の生命と呼ばれる至高の守護神によって作られた生命の薬を作り出したのである。[訳注:無限の生命とは、無量寿仏、すなわちアミターユス、あるいはツェパメのことだろう。日本ではアミターバとアミターユスとも阿弥陀仏とすることが多い。生命を維持する女神は、ツェリンマかツェリン・チェンガ、すなわち長寿五姉妹だろう]
そのほかに兜、金剛杵(ドルジェ)、ドルマによって天上で作られ、地上に投げられた剣などを私は見つけ、隠したのである。それから三節の竹から作られ、珊瑚の粉を塗った98本の矢。それらはトルコ石の羽根で飾られている。ヘッドの部分は「空から落ちてきた鉄」すなわち隕石でできていて、竹の棒に黄金の輪で結わえられている。また、弓の部分はキュン(ガルダ)の角でできている。
そして手に持つ鞭の柄には、宝石で装飾されたお守りが挿入されている。槍にはトルコ石が使われ、「三界の征服者」と呼ばれる。
さらに、聞いてくれ。
ガ地方に、タムパ・ギャルツェンという男がいた。彼は莫大な富を持ち、娘はチョムデン・ドルマ(征服のターラー女神)の化身だった。そなたは、この娘と結婚しなければならない。
娘の父親の財宝には、数々の尊い神像が含まれている。このうち3体は巨大で、金でできている。それらは心、言葉、形[訳注:すなわち、身口意]を人格化したものである。
その他、大いなる慈悲を表わす千里眼のチェンレシグ(観音)の青銅の神像、無限の光を表わすオパメ(阿弥陀)の珊瑚の神像、存在の神秘の母、ドルマ(ターラー女神)のトルコ石の神像、仏法のいかめしい守護者であるマハカラの鉄の神像、血が滴る人間の皮の鞍が装着された馬に乗る、恐ろしい女神パルデン・ラモの瑪瑙の神像などもその財宝にふくまれている。
タムパ・ギャルツェンはまた12巻のブム(プラジュニャー・パーラミター経典10万頌)、太陽ほどに大きな黄金の太鼓、長さが7尺(ドムパ)の2つのラグドン(らっぱ)、多くの銀のギャリン(オーボエ)、お香を置くための2つの壺、五仏(ディヤーニ・ブッダ)の像が彫られたさまざまな銅器、2つのトルコ石の皿、124箱の米、180大箱の大麦、2万4千匹の羊、8万頭の馬、13万頭のヤクを所有している。
これらすべてがそなたのものとなる」
こう語ったパドマサンバヴァは驚異のテントの中に消え、そのテントはゆっくりと天空高く上がっていった。彼を取り巻いていた光も、航跡を残して遠く雲間に消えた。パドマサンバヴァがサンドペリに戻ったとき、ケサルの名をもらった子供は夢から醒め、荒涼とした世界にいることがわかった。
パドマサンバヴァの言葉を聞いているうちに、彼の記憶を包んでいた霧が晴れたように感じた。彼はいま、自分がだれなのか、そして果たすべき役割が何であるか、はっきりとわかった。
パドマサンバヴァの最初の言葉は、マギャルポムラに隠されたものに関することだった。使命を果たすためにはこれらのものを入手する必要があった。しかしどうやって?
リンの人々はこの場所のこの宝物のことを知っているにちがいない、と彼は考えた。彼らの予言書にこのことが書かれているだろう。知識のあるラマたちもこの伝承に詳しいだろう。宝物を手にする運命の彼がやってきて、もしそれを発見したとしても、それを持ち去ることはできないかもしれない。
もしトドンやほかのリンのだれかは、私がマギャルポムラに向っているのを知ったら、意図を推測し、行く手を遮るかもしれない。策略を用いる必要があるということだ。
ケサルはパドマサンバヴァによって呼び覚まされた知性と聖なる洞察力を用いて、考えに考えた。彼はついに計略を練りあげた。
彼が召使いのゴンモの子として生まれる前、リン国で、パドマサンバヴァや神々はトドンと話し合うため、ワタリガラスを使者として送るのを常としていたことを知っていた。そこで自分自身がワタリガラスに変身し、トドンを欺くことにした。
真夜中、ワタリガラスの姿で、トドンが寝ている部屋のバルコニーにとまった。まず彼はカーカーと鳴いてトドンを起こした。彼が目をあけて外を見たとき、ワタリガラスはしゃべりはじめた。
「トドン! よく聞いて! とても重要な知らせがあります!
マギャルポムラに隠された財宝をあなたに差し上げると、神々が決定しました。タムパ・ギャルツェンの財宝も同様に、あなたに差し上げられます。またタムパ・ギャルツェンの娘もあなたに差し上げられます。
でも神々の智慧ある助言をよく聞いてください。これらの富を手にするとき、事を荒立てないでください。リンの人々を不快にさせたり、喧嘩を起こさせたりしないようにしてください。
まず族長や会議の長老たちに、シンレン王が長い間巡礼の旅に出ていて、当分戻って来ないことを留意させてください。そこであなたは、パドマサンバヴァや神々が、シンレン王はすでによりよい世界に転生していると知らせてくれたと言います。つまり新しい王が王位に就くのが望ましいのです。
さらにグル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)と神々の命令によって、競馬が開催されるべきであることを表明します。この競馬には、すべての馬に乗る者が参加します。若きも、老いた者も、下僕も、乞食も、良家の息子も、例外なくみな参加するのです。
最初に玉座に到達した者は、勝利者として、そこに坐り、リンの国王となったことを宣言します。そしてマギャルポムラで発見する財宝は彼の所有物となり、タムパ・ギャルツェンはあなたに、妻とすべく、娘を差し上げるでしょう。
最良の馬を選んでください。神々はあなたの味方です。あなたは勝利者になるでしょう」
トドンは喜びに浸った。
この賢い鳥はたんなる神の使者ではないだろう、とトドンは考えた。わしの実力を理解したのだから、鳥自身、神に違いない。いわばお忍びの姿で、わしの意見を聞きに来たのだ。洞察力を自負し、彼はトルコ石や珊瑚の首飾りを袋に入れ、感謝のしるしとしてワタリガラスに献上した。
ワタリガラスは大事そうに贈り物の入った袋を受け取り、嘴にくわえて、マメサダルンゴの方向へと飛び去った。戻ってきた彼は人間の姿に戻り、だまされやすいトドンから得たすばらしい宝物を母親に贈って驚かせた。
ワタリガラスが飛び去ったあと、トドンはいましがた聞いたことに興奮し、眠ることができなかった。暗闇のなかで腰掛けに坐り、ひとりごとをつぶやいた。
<神々がわしをお守りくださる……。たしかにそうワタリガラスは言った。至高の知恵はわしの本当の価値をご存じなのだ。あのわしをものともしない悪魔の子供からも守ってくださるのだ。まあ、あいつは砂漠のなかで死んでいるだろうが……。
シンレンは信心深い巡礼によって功徳を積み、その報いを受けているだろう。兄はよくやったよ。いまごろはどこかの浄土の住人となっていることだろう。それこそ兄にふさわしい応報というものだ。だが兄は権威をふるうには、軟弱すぎたな。何でもお見通しの神はそのことを知って、ふさわしい役職を与えてくださったのだ。わしはその公明正大さを祝福し、その知恵を賞賛するよ。ああ、わしもついに王となるのか」
富と権力を得ること以上にトドンを喜ばせたのは、絶世の美女として知られるセチャン・ドゥクモと結婚できることだった。
この老練な男に禁欲主義という言葉はなかった。彼は大食漢で、酔っぱらってふかふかの腰掛けにだらりと寝そべったときに、満足感にひたる男だった。その年齢にもかかわらず、手がつけられない放蕩者だった。彼は若い娘を追いかけるのに夢中で、妻に向ってはののしってばかりいた。妻にはもううんざりしていた。妻は浮気性の夫から目を離さず、邪魔ばかりしていた。
古女房のカルサ・サルトクは、ささいなことを見つけ出しては口やかましく夫に文句を言った。しかしわしは神々に委託されたのだ、とトドンは自分自身に言い聞かせた。彼はリンでもっとも美しい女を第二夫人として娶るのだ。こんなにうれしくいことがあるだろうか。それにくらべて古女房はといえば、台所でぶつぶつ不平ばかりこぼしている。
こんなのはほうっておけばいい。しかしつぎの瞬間、だれにも言えないことが苦痛に感じられた。輝かしい未来が待っているのに、だれにも言えないとは。祝福されるべきなのに、だれからも祝福されないとは。
「おい、おまえ!」とトドンは叫んだ。[註:原文は「チャム! チャム!」。チャムは、結婚した女性を呼ぶときの言葉]
彼は妻を呼んだ。というのも、何かを打ち明けるときはいつも妻にたいしてであったし、近くには妻しかいなかったからである。
彼は何度も叫ばなければならなかった。善良なる夫人は深く眠っていたのである。ようやく目が覚めた妻は隣の部屋から走ってきた。
「どうしたの、旦那さま、急病かしら?」
「わしは健康だ。そんなことじゃない。よく聞け。
グル・リンポチェさま(パドマサンバヴァ)と神々がわしによき言葉を贈ってくださったのじゃ」
トドンは妻に、ワタリガラスが言ったことを繰り返した。ただし二度目の結婚の話は抜きにして。そのかわりに、彼がいかに重要人物であるかを示すために、つくり話を付け加えた。
古女房のカルサ・サルトクは用心深い女で、常識をわきまえていた。夫が話している間にも、深く考えていた。そして夫が熱狂している話をそのまま信用しなかった。彼が話し終えたとき、彼女は首を振った。
「そりゃたしかにあんたは以前、グル・リンポチェさまからのメッセージを鳥から受け取っていましたよ。でもそれは3年前までの話。それ以来、来ていなかったのでしょう? あんたが見たという鳥はおなじ鳥かい? 疑わしいもんさ。それがもし敵の罠で、あんたを騙そうとしていたら、どうするんだい? もっともいいのは、安心して眠れることだし、富を守ることでしょう。それを悪魔かもしれない鳥にあげることではないでしょう? マギャルポムラの財宝を手に入れようなんて考えるのはおよしよ」
聞いていたトドンは烈火のごとく怒った。
「な、なんだと! だまれ、このバカ女!」と彼は叫んだ。「おまえに何がわかるというのだ? おまえに王妃はふさわしくない! 神々はよくもまあ的確にアドバイスしてくれたもんだ。おまえは召使にふさわしい女だ。おれの王妃になるのはセチャン・ドゥクモだ。玉座の横に坐り、あらゆる宝石を身につけた姿は、輝く星のようだ。さあ、わかったか! 叩かれたくなかったら、もう子供じみた言いがかりはつけるなよな」
話しながらもトドンは握りこぶしを振り回した。
妻は泣き叫びながら逃げていった。
夜が明けるとすぐ、トドンは従者を各地に送り、リンの男たちを招集した。彼らは重要な発表があるので、ドゥツィ・タクトンタモという場所に集まるよう命じられた。
翌日彼らは命じられた場所に集合した。トドンは族長として、もっとも高い席についた。彼の右側にはナンバー2のタルピンが、左側にはナンバー3のシンレンの息子ギャツァが座った。その前には千の野営地から男たちが集まっていた。遅れることなく、トドンは大衆を前に語り始めた。
「グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)と神々がわれらに祝福を与えたもうた。そしてすばらしいことに、使者を送ってきて、つぎのような助言をくださった。
まずわれらが知らなければならないのは、ギャルポ(国王)シンレン、わが愛する兄が、巡礼の途中で神に召されたということだ。すなわち、この苦しみの多い世界から解放して、神々の世界に住む許しを与えたのだ。
そしてマギャルポムラの隠された財宝は、この国から出ていかないだろうと伝えられた。つまり財宝はわれらのうちのひとりがいただくということだ。
リンの3部落がマギャルポムラの土地を共有する。これはつまりグル・リンポチェと神々が、論争によって我らが分裂しないように、平和に暮らしていけるようにと、決定されたことである。
リンに生まれたすべての者が、つまり貴族であろうと乞食であろうと、競馬に参加することができる。その勝者は王座につく。最初に玉座にたどり着いた者がリンの国王になるのである。われら3人の族長は全権を彼に託すことになる。ひとたび王となれば、彼は自由に財宝を探すことができる。もし財宝を探し当てたら、それは無条件で彼に属することになるのだ」
それから、その富によって名誉ある地位を得ているタムパ・ギャルツェンのほうを向いて、トドンは言った。
「タムパ・ギャルツェンおじさん、神々はあなたの娘を勝者のために献じるようおっしゃっています」[註:おじさんは親しみをこめた言い方で、血がつながっているとはかぎらない]
タムパ・ギャルツェンは喜んで同意した。彼はリンで一番の金持ちだが、娘にふさわしい婿をどうやったら探せるか考えあぐねていたのだ。娘を王妃として迎える者は、マギャルポムラの財宝を得る幸せ者である。これぞ神の使いではなかろうか。
ほかの人々もパドマサンバヴァの命令を受け入れた。古代の予言も、リンの国王は多くの国を征服し、その治世の間に、臣民はいままで知らなかった繁栄を享受することができるというものだった。臣民全員が豊かになるこの勝利者の王国は、神々自身が創り出した試金石であることがあきらかになるだろう。
こうしてみな満足して帰っていった。もっとも幸せな男はもちろんトドンだった。
競馬の日がやってきた。参加者それぞれが、この日のために、馬に猛特訓を課し、その能力を最大限に見せるように、精一杯飾りつけをした。その尾は、長いお下げにいくつか分け、細くて赤いひもで互いを結んでいた。鬣(たてがみ)からはさまざまな色のリボンが垂れ下がっていた。首には鈴がつけられ、チリンチリンと音をたてていた。背中の鞍に美しい絨毯がかぶせられた馬たちは、主人たちに負けず劣らず、誇り高く、虚栄心が強そうだった。彼らもまたリン国を統治する夢を持っているかのようだった。
参加者のなかでもっとも豪華なのは、トドンだった。彼は暗い青色のプルク(衣)を羽織り、金の布で縁飾りをしたトルコ石色の絹のチョッキを着ていた。彼の黒い尾をもつ栗色の駿馬の鞍はトカゲの皮で覆われ、金銀のアラベスク模様に飾り付けられていた。
レースの結果に確信を持っていたトドンは、うっとりとした眼差しで美しいセチャン・ドゥクモを見ていた。彼女はその重さで身体が曲がるのではないかと思うほど、たくさんの宝石を身につけていた。豪華に飾りたてた女が群衆のごとく集まるなか、もっとも美しく、きらびやかで、あたかも光り輝く女神のようだった。
参加者たちはスタート地点に集まり始めた。そのなかには、シンレンと召使いゴンモの間の子と考えられていたチョリも混じっていた。彼の本当の姿を、人々は知らなかったのである。
チョリは羊の生皮をまとい、母親がリンに連れてきた雌馬の子である栗色の仔馬に乗った小僧だった。
レースの出発点にチョリが並んでいるのを見て、多くの人は失笑を禁じ得なかった。「ふざけるな」とばかり、怒りをあらわにした者もいたが、長老がたしなめた。神々によって決められた条件はすべての人に受け入れられたのである。だから何も変更することはできなかった。変えようとすれば、パドマサンバヴァの怒りを買い、国中に災難がもたらされるだけだった。老いも若きも関係なく、だれにもレースに参加する権利があった。
男たちは喜んで非難を受け入れた。大多数は少年が参加するのを見て、一種の余興として面白がり、からかって、楽しんでいるだけだった。
しかしトドンは、チョリが不思議な能力を持っていることを知っていた。彼は痛いような不安感を覚えた。しかし彼はワタリガラスが言ったことを思い出し、弱気の虫を投げ捨てた。
玉座をちらりと見て、それからセチャン・ドゥクモを見て、トドンは自信を取り戻した。そして彼はほかお人たちといっしょに、平原の端にあるスタート地点に並んだ。
スタートの旗印が上り、馬たちははじけるように飛び出した。わずかな間に、チョリ(ケサル)の駿馬が前に出て、他を引き離した。それは駆ける(ギャロップ)というより、飛翔するといったほうがよかった。その脚は地面にほとんど触れていなかったからである。その他の馬がコースの中間点を走っているとき、ケサルはほとんどゴールに迫っていた。そして玉座に坐り、驚いて言葉もなかった観衆に、聖なる主人を、しっかりと、静かに見つめるよう促した。
彼の勝利は揺るぎのないものだった。そこにいた人々はみな、彼の前に行列を作り、彼の足元に祝福のスカーフ(カタ)を置き、レースの勝者にたいし、敬意を表した。
最後にカタを置いたのはトドンだった。彼の馬は、いつもはおとなしくて聞き分けがよいのだが、この日にかぎってふるまいが奇妙で、よりによってセチャン・ドゥクモが座っているテントの前に彼を抛りだしたのである。いささか冷酷にも、彼女は友人たちといっしょにそのさまを見て笑いこけていた。
ひどく落胆しているにもかかわらず、野心的な老いぼれ、トドンはカタをもってケサルに近づいた。それを渡すことによって、ケサルはリンの国王として認められた。このようにして権威が王を認証するのは、トドン自身が何度も模擬練習したことである。
いま統治者となった者への冷酷な仕打ちがありありとよみがえってきた。勝者が彼にどんな罰を与えるのだろうかと、トドンはびくびくした。しかしケサルはまったく意に介していないように見えた。そして老いぼれトドンはそっと抜け出して、ひとり自分の間抜けぶりを嘆くのだった。
彼はようやく、ワタリガラスの姿で話しかけてきたのがケサル本人であることに気づいた。そして老妻のアドバイスに耳を傾けなかったことをひどく後悔した。しかし後悔先に立たず、とはこのことだった。
タムパ・ギャルツェンは思いもよらぬ少年が義理の息子になることに驚きはしたものの、神々が決めたことであり、異存はなかった。昨日、チョリは貧しくて、みじめな少年で、軽蔑の対象だった。しかし今日、まもなくマギャルポムラの財宝を手に入れる少年は、リンのケサル王であり、まったく違った人物に見えた。気兼ねすることなく、彼は娘をケサルに嫁がせようと思った。娘もまた父とおなじ気持を抱き、リンの王妃として、玉座の下に満足そうに坐った。
その間、英雄ケサル以外の人には見えなかったが、ダーキニー(仙女)たちがケサルのまわりに集まってきた。そしてパドマサンバヴァが魔術的なドルジェ(金剛杵)によってケサルに委託し、財宝が隠された地下宮殿を開けさせた。
それから数日間、祝賀ムードがつづいた。すべてのテントからケサルへ贈り物が届けられた。セチャン・ドゥクモの父は、豪華なごちそうをふるまって王室の婚礼を祝った。リンの女たちは毎日祝日の装いを凝らし、男たちの口からは麦酒や蒸留酒がこぼれ落ちつづけた。
そうは言っても、生活はしだいに元通りになっていった。ケサルは王宮を建て、妻、母、そして多数の召使いとともに住んだ。何週間も、何か月も、こうして人々は幸せに暮らした。
ある夜、ケサルが寝ていると、マネネが部屋に現れ、彼を起こした。彼女はライオンに乗り、縄でつないだ水牛を牽いていた。彼女は片手に弓を持ち、もう片方の手に鏡を持っていた。
ケサルよ、私はマネネです。私は神々の決定を伝達する者であり、あなたの専用の相談係です。
あなたが財宝を手にする時期がやってきました。財宝はあなたのために守られてきたのです。あなたはそれらのなかに、使命を果たすときに役に立つものや、その他さまざまな場合に必要なものを見つけることができるでしょう。それらがあなたのものになったとき、寛大な心でもって、リンの戦士たちに分配してください。それらは彼らにとってもこの上なく役立つのです」
このように語ると、マネネは消えていった。彼女が去ったあとも、長い間光の輝きが残っていた。
翌朝、ケサルは妻に、マネネの幻影が現れたこと、そして彼女が語ったことを話した。彼はすべての方角に使者を送り、法の太鼓を鳴らして男たちを集めた。
その間、セチャン・ドゥクモと召使いたちは来たる大集会のための準備を進めた。
何百もの絨毯が地面に敷かれた。それらの一部は虎皮や豹皮であり、中国で編まれた羊毛のものもあれば、チベットのティクマ(環紋)という紋様の絨毯もあった。それぞれの客は、その地位に応じて着くべき席を占めた。
金と銀の壺が宝庫から引き出された。ツァンパやバターでできたピラミッドが支える低いテーブルが絨毯の前に置かれた。
数日後、リンの異なる部落から男たちが集まり、国王と宴をともにした。
晩餐を楽しんでいる間、ケサルは女神から受け取ったメッセージについて語った。彼らは隠された財宝を守るという考え方を熱狂的に支持した。
まるごと一週間は遠征のための準備に費やされた。出発の日が来ると、男たちは戦闘部隊を編成し、宮殿の管区から勢いよく奔流のように流れ出た。馬たちは後足で立ち上がり、あるいは騰躍し、騎手がもつ弓や槍がガチャガチャと音をたて、羊の群れのように、歩兵隊が騎馬隊のあとにつづいた。
大地は揺れた。行進する男や動物の下で石が鳴り響いた。頭越しに赤や黄色、雑色の旗が風に揺れた。部隊が行進するにしたがい、塵埃が山の頂に届かんばかりに舞い上がり、空が暗くなり、戦士たちを厚い雲が包んだ。
マギャルポムラで彼らは青や赤の刺繍を施した白いテントを張った。ケサルのテントはひときわ立派で、太陽のように輝く黄金の玉座がそのなかにあった。
三日間、多くの僧に取り囲まれた偉大なラマが、神々をほめたたえ、悪魔を調伏するさまざまな儀礼をおこなった。
翌日、満月の夜、ケサルは精霊の姿になって、山へ出かけた。山には黒ずんだ岩が連なる場所があり、そこに光が逃げ込んだ。近づくと、巨大なブムパ(聖水を入れる壺)の形をした水晶があった。ケサルは手にプルバ(短剣)を持ち、怒りのムドラー(印)を結びながら、雷のような声で唱えた。
「ここにパドマサンバヴァによって隠された財宝があります。それらは大地の12の女神によって守られています。私、神々の息子であるケサルは、それrの合法的な所有者です。マネネの意思により、そのことを申しに来ました」
ケサルの強い意思の力に突き動かされ、彼がパドマサンバヴァにもらった黄金のドルジェ(金剛杵)を水晶の岩に叩きつけると、岩は即座に開いた。
扉のような通路を抜けて中に入ると、そこは巨大な広間だった。そこに大きな金の玉座があり、その上にマンダラが置いてあった。その中央で輝いていたのは不死の水を湛えた容器だった。なかからは泡が湧いていて、聖水があふれ出ていた。それはリンと国王にとって、よい前兆だった。容器のまわりには、ひもの結び目と生の薬、すなわちたくさんの魔除け、そしてケサルのための超常的な武具がそろえてあった。
玉座の足元に無数の弓、矢、兜、槍が置いてあり、それらはマンダラの周縁を成していた。全体は卓越的な強さを持った、めくるめくような光を浴びていた。太陽の輝きは月の輝きとひとつになっていた。
ケサルは財宝を引きはがすよう命じた。それを完全に成し遂げるには一週間を要しただろう。その作業がなされている間、マネネが英雄ケサルのもとに現れ、彼を守護する必要があると述べた。この期間中、悪霊が近隣をうろつき、彼や仲間を殺そうと目論むからである。
実際、しばらくするとこれらの敵は存在をあらわにするようになった。最初彼らは黒い風を放ち、空を真っ暗にし、それから竜巻のようにリンの部隊の野営地に落ちてきた。それはテント寺院のなかの3本の聖なる弓を押しつぶした。それには人々の「魂」が附せられていた。
ケサルは墨のような色の雲に向って、空から落ちてきた鉄[訳註:隕石]で作ったドルジェを投げつけた。このドルジェは宝庫で見つけたものである。すると雲は突然消え去り、風はぱたりとやんだ。
「魂」が附せられていた弓が倒れたことにより、戦士たちはパニックに陥った。彼らにとって、これほど不吉なこともなかったからである。ケサルは戦士たちを鼓舞しようと、彼がすでに雲のなかの悪魔を殺したことを宣言した。しかし彼らに注意を怠らないように言うのも忘れなかった。
ほかの悪霊たちは動物の姿を取っていた。足取りの軽やかな麝香鹿も悪霊だったが、戦士テマが弓で射抜いた。血をも凍らせるような恐ろしい叫び声をあげるのは、「墓場の」猪だった。これは狙い通りに石が当たって死んだ。そして夜の間に悪霊は猿の姿をして現れた。見張りがウトウトとしていると、猿は侵入して荒らし回った。しかし聖なる馬、キャンゴ・カルカルが後ろ蹴りをお見舞いして、葬り去った。
敵対するものどもの攻撃は収束したようだった。ラマたちは土着の神々にたいして祈りをささげ、そして純粋な供え物をして、無数のお香を焚いた。ケサルは兵士たちを率いてマギャルポムラを去り、宝物を持ち出した。
軍隊が出発すると、上空に、たくさんの神々やダーキニーに囲まれたパドマサンバヴァが姿を現した。彼らは旗を振り、天蓋を運び、花や米の雨を地上に降らした。喜びに包まれて、リンの人々は叫んだ。
「神に勝利あれ! 悪魔どもは退散しけり!」
彼らの喝采は雷が轟いたかのように谷間にこだました。
宝物がケサルの宮殿に運ばれるさまは、壮観だった。そして豪勢な宴が催される間に、武器は戦士たちに分配された。
一般の僧侶らに囲まれた偉大なるラマは、宝物とともに発見された魔除けや薬、命の結び目などを分配した。そしてすべての人が不死の水数滴をもらった。それは奇跡的な容器から掬ったものだが、不思議なことに水が涸れるということはなかった。そしてこの機会によって、リンのすべての人にアンクル(灌頂)が施されることになった。
ようやく歓喜の興奮がおさまり、王室の人々が怠惰な喜びにふけりはじめたとき、ケサルは宮殿の離れに閉じこもり、長い隠遁生活に入った。そこで彼は何年も瞑想修行をおこなった。食事を運ぶ妻と助言をもらいにくる大臣以外とは、だれにも会わなかった。こうして生まれて14年目の年は過ぎていった。