14章 (アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール自身の後記)

「男だ!」
「ライフルを持て!」
「家畜を中に入れろ!」

 叫び声を聞いた私はテントから外に飛び出した。チャンタンの砂漠の中の大きな湖群がある荒涼とした、魅力的な地方に私はいた。わが4人のチベット人の下僕は、山脈と広大な高台とが接するあたりの緑地に、キャンプを設営したばかりだった。高台は、内側に折れて三日月形の窪地を形成し、天然の風除けのシェルターとなっていたので、そこで夜を過ごすことに決めていたのだ。

 われわれは隊商ルートを取っていなかった。もし取っていたら、旅人は少なく、われわれが通った地域で道を失っていたかもしれない。突然男が現れるのは、奇妙なことだった。何日間もわれわれは野生のロバや熊以外、生き物を見なかった。このような人気のないところでは、人は人をあやしむのである。ほかの人を見たとき、人は本能的にライフルをつかんだ。もし彼が野営地にいたなら、放牧していた家畜をすぐ中に引き入れ、家畜泥棒から守ろうとした。しかし細かいことにまで気を配ったところで、チャンタンの魔術には太刀打ちできなかった。ここでは、生命はとてもおいしいものだったのである。

 馬に乗った男は、微動だにせず、遠くからこちらを見ていた。私は望遠鏡を使って男をじっくりと見た。

 彼は雪のように白いすばらしい馬に乗っていた。馬飾りは疑いなく銀の飾りで、太陽のもときらきら輝いていた。馬上の男は黄色の衣を着ていて、帽子も黄色で羊毛に縁取られていた。彼は武器を持っているようには見えなかった。

「ライフルは置いて!」と私は叫んだ。「恐れることはありません。彼はモンゴル僧です!」

「あるいはならず者ですね。ラマを襲って、疑いを抱かせずに商人に近づくため、奪った僧衣をまとったのかもしれません。たぶん彼は強盗団の偵察です」と下僕のひとりは疑念を呈した。

「隊商はこの道を通りません。強盗団がここで何の用があるというのですか」

 われわれが話し合っている間にも、馬に乗った男は草地から牧草地を通ってこちらに近づいてきた。

 彼は若く、堂々としていた。おそらく彼が威圧的に見えたのか、下僕たちは前に進み出て、馬の手綱を取った。彼の衣装があまりにも高貴だったので、その姿を見た下僕たちは疑ったことを忘れ、彼の足元で身を投げ出して拝み、祝福を乞うた。彼はそうした尊敬を受けることに慣れているのか、指で彼らの頭に触れながら、鋭い声で言った。

「わがタパ(お坊さん)たちはあとから荷物をもってやってくるだろう。あなたがたのだれかひとりは私が来た方向へ行って、彼らと会ってください」

 それから私のほうへ来て、笑みを浮かべながら絹のスカーフを手渡した。

「あなたはクンブムに長年滞在し、カムとキルク(玉樹)にも長い間いらっしゃったというジェツン・クショー(ご婦人)ですね」

 彼の口調は、問うというより確認をしているかのようだった。

「ああ、あなたは私のことをよくご存じのようですね。どうやって知ったのでしょう? 失礼ですが、どちらさまでしょうか、クショー」

「私はカムから来ました。ホル・カンゼから来た商人やキルクから来た人々、たとえばロブ(Lob)のラマ、ゾクチェン・ペマ・リクズィン、そのほか何人かの人々があなたについて語ってくれました。異邦人のナルジョルマ(naljorma)が存在するというのはとても奇妙なことに思えました。ゴロク人からあなたがこの道を進んでいると聞いて、探しながらやってきたのです」

お茶が沸騰したので、私は彼が荷物の到着を待つ間、テントに招待した。われわれはお茶を飲みながら、なごやかに話をした。

 東チベットに生まれた彼は、子供のときに、モンゴル・ラマの転生(トゥルク)として認定された。このモンゴル・ラマはそれほど知られていないようだが、豊かな富、無尽蔵といってもよい所有者だった。

 彼の宝座はトゥルキスタンの境界線の近くの彼が「秘密の解放の寺院」と呼ぶ小さな寺にあった。しかし、彼はその寺ではなく、ほとんどテントで暮らしているという。彼はほかのチベット人僧と同様、旅が好きなのだという。ラサのデプン寺で学んだあと、彼はインドやネパールの聖地を巡礼しながら旅をした。中国は北京まで、シベリアはイルクーツクまで足を伸ばした。

 彼は私の旅の目的を知りたがった。なぜ寺から寺をめぐり、教義の深遠な点に関してラマたちに質問を浴びせるのか、と私に聞いてきた。私は理由を説明しながら、同時に彼に質問をした。そして彼が学者としても十分な資質を持っていると確信した。

 従僕のタパ(僧)たちとともに、彼の荷物が届いた。彼らはすぐにいくつかのきれいなテントを張った。美しい絨毯が敷かれ、いくつかのソファとなるクッションが置かれた。そのうちのひとつはこのトゥルクのためのものだった。彼のテントと比べると、私のテントはひどくみすぼらしかった。

 つぎは私が招待される番だった。私はラマとともにお茶を飲みながら、ツァンパや冷めた煮マトン、乾燥肉、乾燥アプリコットなどを食べた。それは盛大なチャンタン料理だった。

 彼はヨーロッパを揺るがした戦争(第一次世界大戦)について知りたがった。しかし私は郵便のないところばかりを旅しているので、彼以上に知っているわけではなかった。

「この戦争には、たくさんの善良な異邦人が登場しますか?」

「いえ、その反対です。邪悪な人ばかりが登場しました」

「そうでしょうね。というのも、これらの人々は、仏法のためでなく、自己の利益のために戦っているからです」

 チベット語のチュー(chos)が、何通りもの意味を持つことを理解しなければならない。それは宗教、哲学、形而上学、(課せられるのではなく、物事に内在する)普遍的な法、公正さ、清廉さ、公平さ、そしてすばらしいすべてのものを意味している。さらには、「もの」という語も、さまざまな意味に適用される。

「もうどこにも法というものはないようです」

「どうしてそう言えるかしら。あなたはデプン寺で学んだとおっしゃいましたね。そこには1万人の僧侶がいるのではないですか。セラ寺やガンデン寺、タシルンポ寺、その他の寺に何万人もの僧侶がいるのではないですか。チベット人が、もう法はない、というのは奇妙なことだと思います」

「たしかに僧侶は十分にいます。しかし聖職者は法そのものではありません。インドのバラモン、オロソ(ロシア人)の教主、ピリン(外国人)の神父、ラマ、どれもおなじなのです。彼らはマーラーの軍隊なのです。弱った心につけいり、破壊し、人々をばかにしてしまうのです。

 中国の僧侶はましなほうかもしれません。大半の僧侶は無知ですが、一部はとても善良な心を持っています。

 しかし彼らのすべてが間違った教義を広めています。それらは人を傷つけるだけで、苦悩の種となるのです。

 仏法とは真実を探すということです。それは心の輝きであり、正しい判断であり、正しい行動なのです。

 人の首を踏んで何が得られるでしょうか? 人の首を踏むというのは、自分の首が自分より強いだれかに踏まれるための準備をするということなのです。 

 力でねじ伏せられた者は、迫害者以上に、心の中に法を持てなくなります。彼らは邪悪で、意地悪く、臆病者なのです。もし彼らが力を得たら、彼らが憎んでいる人とおなじことをするでしょう。

 それにもかかわらず、われわれチベット、モンゴル、中国の人々は、誤った道を歩まないでいることができます。われわれは思考の力を知り、それを尊重しているからです。いかに瞑想するか、いかにこの世界を過ごすことができるか知っていて、上からそれを眺めるのです。

 白人はそれをどのようにするのか知りません。彼らは奇妙な機械を作ることには長けていますが。彼らはそれを誇りにしているのですが、それは彼らを破壊するでしょう。破壊はすでに起きていて、これからもつづくでしょう。ドイツ人、フランス人、英国人、その他の人々は互いに殺し合うことになるでしょう」

「ケサルがこの問題に取り組まない限り」と、そのとき頭の中が英雄叙事詩のことでいっぱいで、ノートに書きいれたばかりだった私は口をはさんだ。

 ラマは興味津々といった目で私を見た。

「ああ、あなたはケサルの話を知っているのか」

「ええ、ケサルが戻ってきて、軍隊を率いて西欧と戦うと聞きました」

「それを信じていますか?」

「すべては可能です」

「ケサルはわれわれの間に転生するでしょう。われわれの統一した思考の力がケサルを作ることになるでしょう。彼はわれわれすべての心のトゥルクなのです。ピリン(外国人)はそれによってわれわれを奴隷にしようとしているのですが」

「ケサルはそれぞれの手に剣を持ち、敵を左右ひとりずつなぎ倒していくでしょう」と私は語り手が吟じる叙事詩の一節を引用した。

「茶化さないでください。剣は象徴です。刃は見えない閃光を発し、人々の心を射抜き、変容させるのです。われわれにたいして武器を持って攻撃してくる者のなかで、武器を捨てる者もいれば、公正さや幸福の敵である悪魔と戦う者もいることでしょう。

 本当の仏法が説かれるでしょう。正しく行動することを拒む者たち、大師でありつづけようとする大師たち、奴隷でいつづけようとして、他者を奴隷にしようとする奴隷たち、そんな彼らにたいして……」

 彼は意味ありげな仕草をして話を終えた。

「わかります。ケサルの剣は……」と私は言った。「でもクショー、あなたにとって仏法とは何ですか」

「ニスメパ、ニスチャルメト(Nyi su med pa Nyi su med to 二であらず、二を作らず)です。手は足を害するべきではありません。おなじひとつの体なのです」

「しかし大師たちと奴隷を演じつづける者たちを滅ぼすことで、ケサルはこのひとつの体を切っているのでは」

「あなたがたの外科医は、治療のために体の腐った部分を切り取っているのではないですか? これらの外科医が腐った部分を切って捨てても、彼ら自身には何のトラブルも起こしません。悪のもとを除くだけなのです。しかしケサルは違います。ケサルはこの世界で殺した悪魔を浄土へ送ってやるのです。

 このチ・ポワ(chi powa)とは、心の本質を変移させることなのです。すなわち、ほかの種類の活動をもたらすために、エネルギーの川の流れを別の水路に移すということなのです。あなたは多くのラマに聞いてきたようですから、このことをよく知っていることでしょう。悪魔の心は神の心になるのです。冷静に言うなら、われわれは治すために殺すのです」

 彼は「われわれ」と言った。実際、彼の言葉から、彼が何を感じているか、あきらかになっていた。しかし彼は積極的な参加の意思を示していた。

「われわれ、とはつまり、あなたがたはたくさんいるということですか?」

「何百万人もいます。乾燥した藁の山の火のように、白人への憎悪が広がっています」

「こうした事態が起きたとき、もし私がまだこの世にいたなら、ケサルの許可を得て、戦争特派員として彼の軍隊に参加したいものです」

 特派員という言葉はチベット語になかったので、私はそこだけコレスポンダントという英語を使った。

「それはいったい何ですか?」

「それは新聞社に、起こっているできごとについて報告するため、軍隊についていく者のことです」

「新聞なんていうものはなくなるでしょう」とラマは、彼が時代遅れの慣例とみなしているものに関し、傲慢な、軽蔑するような口調で言った。「ケサルは風を使ってメッセージを伝えるでしょう」

 疑いなく、彼はわれわれのよりももっと進んだ無線の電信について述べているのである。ラマが考える文明の再建がどんなものであるにせよ、野蛮な状態に戻ろうとしているのでないことはたしかだ。

 夜は更けていた。すみきった夜空に、何千もの星がきらめく中央アジアの輝かしい夜だった。

 私はいとまごいをして、自分のテントに戻った。

 翌朝の夜明け前、タパ(僧侶)たちはテントをたたみ、荷物を梱包した。トゥルクと従者は東の空が赤味がかる頃には、出発の準備を終えていた。

 われわれは互いに旅の無事を祈った。そしてラマたちの一行は馬に乗って出発した。彼らが去ると、太陽が昇ってきた。小さな騎馬の一団は、黄金の光に包まれ、まだ陽が射していない西のほうへ向かっていった。

 前夜の会話は、私の頭のなかで鮮やかな記憶として残っていた。砂漠を横切っていく騎馬の一行は、チンギス・ハーンと仲間たちの姿を彷彿とさせた。

 ケサル王は本当に、前回よりも高度で、より多くの情報を持ち、より手ごわい軍隊を率いて、アジアの国のなかに現れるだろうか。

 太陽の道をたどって地平線の向こうに消えた旅人たちのように、黄金の光に包まれた未来の軍隊は、進化して、「浄化するための破壊」によって、「地表を刷新する」ことができるだろうか。

 私はこの時間に、幼児用ベッドで寝ている白人の子供たちのことを考えた。まさにこの日、このとき、ヨーロッパの大きな都市のどこかの家の庭で、子供たちはどんな未来が待っているか知らずにはしゃぎ回っている。一方その頃、はるか東方のだれも知らない荒涼とした地域で、今日もどこかのだれかが目を覚ます……。

 

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