イントロダクション   A・ダヴィッド=ネール (宮本神酒男訳)

 

1 ケサル王物語の背景 

 チベット語から翻訳された書籍自体多くはないが、仏教関連以外の書籍となると、ほとんど見かけない。言うまでもなくチベットでは、一般的な書籍は、哲学的、宗教的な書籍と比べ、ほとんど重要視されない。チベットの重要な書籍といえば、サンスクリット語から翻訳された厖大な仏教経典があるが、じつは有名無名の作者によってチベット語で書かれた何千ものオリジナル作品が存在している。

 しかしながらこのラマの国においても、ほかの地域と同様、宗教的な色合いがつくものの――チベットでは宗教的思考法がすべてに浸透している――大衆の作品がある。それをチベットの通俗文学と呼んでもさしつかえないだろう。

 この文学には専門的な書、たとえば医学、天文学、占星術などを扱った書のほか、さまざまな種類の書、すなわち歴史、伝説、詩、地理学、旅行記などが含まれる。

 純粋に創造的な作品、とくに小説はチベットには存在しない。少なくともそういった名称のものが存在しないことは特筆すべきだろう。われわれがフィクションと呼ぶものをチベット人は好まないのである。著者が想像力を使わないというのではない。その反対にこの力を存分に発揮し、空想的な要素は率直に、たっぷりと、われわれの妖精物語とおなじくらいに花開いているのである。彼らの語りは驚きに満ちていて、あたかもそこで起こっているかのようであり、物語の英雄はそこで生きているかのようであり、物語自体がはじめから終わりまで本当にあった事のようなのだ。

 私がわれわれ西欧の小説について、また読書の楽しみについて説明したとき、あるチベット人はこう言った。

「事実でないことを書けるのが、書くことの長所なのです」

 チベットの世俗的な文学にはとても有名な、賞賛されるべきチベットの国民的叙事詩、リンのケサル王物語が含まれる。

 ケサルの伝説的な歴史にはいくつものバージョンがある。こまかく言えばかならずしもそうではないのだが、その当時知られていた3つのバージョンをもとに、英雄に関する伝説には「共通する起源」が存在するとハッキン氏は主張した。東チベット(カム地方)で私が収集した、それまでのものよりも内容がそろった伝説がその意見を裏付ける。

 このバージョンは、チベットではもっとも知られているもので、英雄の故郷とされるカムだけでなく、ラサはもちろんチベット全域に流布しているのだ。それは正式にタイトルを名乗ることが許されるバージョンである。しかしなお、古代の決定版的な伝説の後裔だと決めつけてはいけない。

 千年から千二百年前、ケサル・サーガはおそらく2つか3つの歌にすぎなかった。それらを歌ったのは、偉大な戦士王の業績の伝説に触発された無名の叙事詩人たちであったことだろう。これらの歌は各地に伝えられ、それぞれ発展して土台が築かれ、現在のいくつかのバージョンができあがったと考えられる。

 モンゴル版が最初にヨーロッパ人に知られることになった。1839年、I・J・シュミットはドイツ語でケサル王物語の要約を書いた。このモンゴル版の物語は、カム版よりも素朴な環境のもとで発展した。実際のところカム版には、仏教哲学や理論に関しては、より多くの、長めの脱線が含まれていた。数巻にまとめた本にするためには、これらを削る必要があった。これとおなじ考え方は、チベットのラマによって書かれた論考にも見出されるものである。

 その最初からモンゴル版はケサルの性格を明瞭に示している。彼の使命は、不正と暴力を抑え、地上を統治することである。エピック(叙事詩)を歌うカムの叙事詩人は、宗教の守護者だった。しかしチベットにおいては、宗教(chos)という言葉には道徳法、公正さの実践、弱き者の守護といった意味が含まれていた。ある種の予言を信じる人々にとって、ケサルは「アベンジャー(復讐人)」にほかならなかった。

 モラビア教会の宣教師でもあったA・H・フランケは、西チベットのラダックでケサル王物語の2つのバージョンを収集した。これらのうちのひとつ(A Lover Ladakhi version of the Kesar Saga)に含まれる関連したエピソードは、驚くほどカム版と似ている。

 たとえば、そのなかにホルの巨人の殺害の話が出てくる。ケサルに恋した巨人の未亡人は彼を近くにとどめたいと思い、魔法を用いる。その間にケサルの妻はホルの王に略奪される。英雄は鍛冶師の見習いの少年に変装する、等々。

 にもかかわらず、細かい部分は異なり、かなり短く、カム版サーガと比べると、すべての歌が異なる精神でうたわれている。

 他の伝説とおなじように、ケサル王物語も歴史的基盤の上に成り立っていると思われる。この神格された戦士の首領は、想像力あふれる語り口に隠されてしまっているが、疑いの余地なく比較的最近、すなわち7世紀と8世紀の間に実在したのである。

チベット南部を探検したインド人サラット・チャンドラ・ダスはケサルを、中国陝西省を治めた王とし、またカムパとモンゴル人はケサルが同胞であると主張した。

 私自身、後者の意見を聞いたことがあるが、シュミットの自身たっぷりの翻訳から判断するに、ケサル王物語のモンゴル版にはその要素はまったく見受けられない。

 反対に、ケサルがチベット起源であることがわかるのである。ケサルはいつも「われらチベット人とともに」「われらのチベット」などと言っているのだ。そして王女ロンガ・ゴアがいかに自身にふさわしい夫を探すためにチベットへ行き、そこでケサルの妻になるかについて述べている。

 私は東チベットの長い間滞在中、英雄の起源に関するこまかい情報を集める機会が十分にあった。そこで会った領主は英雄の養子の子孫であり、「リンの王(リン・ギ・ギャルポ)」すなわちケサルの称号を持っていた。

 たしかなことは、フランケが1902年の時点では知らなかったリンという地域がカム地方にあったということである。また隣接する地域にケサル王物語に出てくる、あるいは描かれるたくさんの場所が見出されるのである。

 たとえばリンの人々とホルの人々の戦いは物語の中の重要な場面であるが、実際のところホルの領域はリンからそれほど遠くないのだ。読者は基本的な町の名を中国四川省の地図上に見つけるだろう。その町はカンゼ、またはホル・カンゼである。ターチエンルーからラサへ向かう隊商ルート上にあり、中国支配下に置かれたチベット人居住区のもっとも端である。

 しかしながらほかに2つのホルと呼ばれる地域がある。そのひとつはホル・ナクチュカで、大テングリ湖の北方に位置する。(*ナチュ、あるいは那曲のこと。テングリ湖はナムツォのこと) もうひとつのホルは、トルキスタンにある。

 カム版において、ケサルの軍隊は明け方に出発して同じ日にホルの最前線に到達している。それはちょうどホル・カンゼの領域に合致する。ラダック版においても、リンとホルは隣り合った国同士として描かれている。

 物語中に言及されるその他の地域も、あきらかに雲南北部、あるいはLikiang(麗江)、Yunning(永寧)、Shungtien(中甸、現シャングリラ)、Atunze(徳欽)を境界とする国である。

 物語に描かれる習慣も、だだっ広い草原地帯の東の境界に分布する半農半牧の部族(リンの人々を含む)とおなじである。

 複数の、あるいはいくつかの部族の首領がケサルという名称を持っていたのかもしれない。さまざまなバージョンの間に大きな差異があり、また英雄ケサルや周辺の人物に帰せられる会話や行動が地域によって本質的にまったく異なっているので、カムパとモンゴル人が本家争いをするまでもないことになる。

 私自身の考えはと言えば、陝西省を治めたケサル王や「雪の国」の国民的叙事詩において聖なる魔術師として描かれるケサルは、古代チベットの実在した将軍のひとりではないかと思う。その軍隊は陝西省の都(西安)まで攻めたのである

 チベットはいまでは弱小国になってしまったが、7世紀頃まで遡ると、栄光の時代があったのだ。彼らの軍隊は中国西部、トルキスタン、ネパールまで征服した。ケサル王物語にはペルシアの王子と戦うエピソードがあるが、ここまでくると純粋に空想の産物ではないかと考えざるを得ない。

 ケサルの栄光をたたえるすべての歌は口頭でのみ伝えられると信じられている。(いまもこの口伝で物語は伝えられる。なぜなら語り手のほとんどは文盲なので)正確にいつとは言えないが、ときおり、歌が収集されたり、書き記されたり、テーマ別に分類されたりした。

 このようにして書かれたテクストは、ケサルを愛する人々によって貸したり、借りたりして、書写した。私は印刷されたケサル物語を目にしたことがない。有識者のチベット人、なかでも現在のリンの王は、印刷されたものはひとつもないと請け合った。

 ケサル王物語全体をまとめたコレクションもない。それぞれのテクストに英雄ケサルの冒険の特別な場面、たとえば、サタムの王国の征服、ムテグパが出し惜しんだすばらしい薬のこと、ディクチェン・シェンパのような重要な人物の役割などが描かれているのだ。

 ケサルの歴史の細かい点まで全体的に把握しているケサルの語り手は、ほとんどいないだろう。大半の語り手が知っているエピソードは、数知れないというほどではなく、集会にあつまった観衆を前に、それらを繰り返すにとどまっている。彼らはしばしば、自分が得意とする場面でない場合、自分が語っているできごとが、そのまえに起きたできごと、あるいはそのあとに起こるできごとと、つながっているかどうか、気にしない。

 少なくとも本筋でない場面では、彼らは論理的な筋立てというものをむしろ軽蔑しているのだ。もし語り手が十分に勉強していない場合、あるいは内容を忘れてしまった場合、最悪なことに素人で才能もない場合、聖なるケサルの物語は驚くほど混沌としたものになってしまうだろう。

 もしケサル王物語の歌を習ったのかと問えば、大半のケサルの語り手は侮辱を受けたと感じるだろう。彼らはケサルから、あるいはほかの聖なる神格から直接鼓舞され、促されて物語を語っていると考えているからだ。

 私はまた、彼らの多くは自発的にしろそうでないにしろ、吟じているとき、憑依状態に陥っているのではないかと思っている。

 私がもっとも関わりの多かった、ケサル王物語の知識を十分に持った語り手は、ある種の「先見者」だった。彼は彼自身のことを叙事詩の主要人物のひとりであるディクチェン・シェンパの生まれ変わりととらえ、まわりからもそういう扱いを受けていた。いつもケサルの味方である神々が、ときには英雄ケサル自身が、ケサルの兄弟でもある彼を鼓舞し、言葉を与えた。しかし彼は心を落ち着かせるためか、いつも大きな白い紙を要求し、物語をよむ間、紙から目をあげることはなかった。彼によれば、よんでいる物語の文章が紙の上に浮かび上がってくるという。奇妙なことには、彼は文字を読むことができなかったのだが。

 彼が自慢していたのは、神格化した英雄ケサル、ケサルの親族、つづいて前世における敵や仲間を訪ねたことである。物語の中でそれらはみな歌われるのである。

 正真正銘、神秘的な力を持っているのか、ずる賢い詐欺師なのか、いずれにせよ、彼には二度、どうしても説明することのできない行為によって、私は驚かされた。このことに関してはあとで述べよう。

 チベット、とくに東チベットでは、ケサル王物語の歌は、人々を邪悪なことから守る効果を持っていた。ゴロクの略奪を働く部族が野営する砂漠地帯で、私はたまたま馬に乗って歌いながら旅をする人に会ったことがある。何を歌っているのかきいてみると、それはケサル王物語の断片だった。これらの歌の効果として、かならず襲ってくる盗賊団にたいし、見えない力によって圧倒すると思われたのである。いくつかの奇跡についても語られている。

何人かの善良な語り手は、待ち伏せして襲い、殺そうとしていた敵の前を、姿を消すことによって、無事に通り過ぎた。ある人たちは、川を渡るとき、激流に流されてしまったが、超常的な投げ縄に引掛かかり、岸に投げとばされて助かった。

 このようにカムの地の平民の間で(英雄ケサルの同胞だ)読まれ、歌われる英雄物語は、仏教聖典に対するのと同じような敬意が払われるのである。僧侶に関して言えば、プライベートにはケサルの伝説を読んだり、テクストを持ったりすることがかならずしも禁じられているわけではないけれど、彼ら自身が語り手の役割を持つことはない。

 仏教導入以前からチベットに存在したボン教徒の間に、ケサルに関連した古代の伝承があり、そして後世、仏教の注釈が施されたことは十分にありうる話である。

 ボン教始祖、グル・シェンラブが、ケサル王物語のなかで尊敬をこめてその名が口にされ、呼ばれるその姿はシャーマニズムそのものである。そもそも大衆的なラマイズム(民俗的な仏教)は、仏教を装ったシャーマニズムともいえるのだ。

善男善女の仏教徒の聴衆たちは、物語の前言が大乗仏教の賛頌から始まっているにもかかわらず、語り手が歌う英雄物語のなかに、ふんだんに非仏教的要素が織り込まれていることにショックを受ける。

 極端な仮説だが、この前言は、神聖なる英雄ケサルがパドマサンバヴァの代理としての役割を果たすようになり、ケサルの敵もまた魔王ということになったとき、古代の伝説に付け加えられたのかもしれない。そのほうが、魔王の起源を説明するのに好都合だからである。

ケサル王物語の扉の部分にふたりの女が現れるが、それはインド方式、つまりインドの物語から拝借したものである。しかしながら、つぎの転生でブッダになるというボーディサットヴァ(菩薩)の物語は、古典的な仏教徒の説話とはかなり違っている。

この説話のなかで、菩薩はトゥシタ天(兜卒天)から降臨してくる。かなり高いレベルの徳の修行をつづけ、何百万回もの人生を経て、その積まれた功徳によってはじめてトゥシタ天に達することができる。ラマ教もまたこの説話を伝えている。聖人はインドに転生し、チベットで犠牲になったすぐあと、ケサル王物語のなかい現れる。私はこのエピソードには、ケサル王物語以外で出会ったことがない。

 チベットには、このようにラマ教の周辺に、仏教に関するさまざまな伝説が存在する。そのうちのひとつの例として、最終的にインドで「よき法」の教師として、また「完全なる者」として生涯をまっとうする、幾世にもわたる有徳の者たちの物語への序言について紹介したい。

 たくさんの馬を持っている金持ちの男がいた。彼は馬を残酷に扱い、乱暴に殴りつけて殺すこともあった。男は死んで煉獄(*ニャルワは普通地獄と訳される)のひとつに馬の姿で生まれ変わった。彼は馬具をつけられ、ほかのふたりの同種の仲間とともに馬車につながれた。御者は悪魔だった。馬車はとても重かったが、急な坂道を引っ張って上げなければならなかった。3頭の動物は馬車を動かすことができず、御者は鉄の棒で彼らを無慈悲に叩いた。

 この拷問は人間が測ることができないほど長期間つづいた。そして、かつて自分の馬をいじめていた今は馬となった男に、憐みの心が生じた。この感情につき動かされて、彼はすべてのエゴイズムから脱することができた。彼は手綱を持っている御者の悪魔に向って言った。

「このあわれな動物たちを働かせるのをやめてください。馬具をはずして、私だけをつないでください。私はがんばってひとりで馬車を山の頂上まで運んでみせます」

「なんだと!」と悪魔は怒り心頭に発して叫んだ。「3人でもできないのに、おまえはひとりでやるという! さっさと仕事をしろ、この恥知らずの馬鹿者め!」 

 悪魔は鉄の鞭で彼の頭に強烈な一撃を与えた。

 馬は倒れて死んだ。このように慈悲の心が芽生えることによって、彼は解放されるのである。それは無知な者が信じるように、償いによってなされるのではない。慈悲の心が馬に対して厳しく当たっていた者の残酷な性質を変えたのである。

 残酷さゆえ彼は煉獄に堕ちたのだが、その性質はなくなり、彼はここにとどまることはなくなった。新しい性格は彼をどこかほかの場所へ動かしたのである。彼は新しい世界で意識を得て、慈悲深い仕事をするようになったのでる。

 転生が信じられているすべての国において、死に際し、慈悲の心を強くもつことによっていい結果が得られた、といった類の物語はいくらでもあるのだ。何十もの物語がさまざまな本に引用されているが、そのうちのいくつかは奇妙で、興味深いものである。

 このことに関し、私は日本で知られている逸話を紹介したい。偉大なる国民的ヒーローのマサシゲ(楠木正成)は、彼の部隊をはるかにしのぐ敵軍と英雄的な戦いをして敗れたあと、7回生まれ変わることを願った。生まれ変わるたびに、彼はミカドの敵と戦いたいと考えたのである。この希望を強く述べて、彼は武将たちとともに自らの命を絶った。

 1905年の日露戦争で死んだ兵士や官吏を追悼した葬式が行われたとき、日本の有名な僧である釈宗演師は正成の願いと広瀬大佐の同様の願いについて想起されていた。この願いはチベットの神秘思想と類似していたのである。

「この英雄たちが転生するのは、7回だけではありません。数千回、転生するのです。人類がつづくかぎり、彼らは転生するでしょう。過去、あるいはこの戦争において、日本の栄光のために命を捧げた人々は、その願いゆえ、また転生することになるでしょう。彼らは正成その人と言っても過言ではありません」

 このようなお話をされたあと、釈宗演師は、転生の実例を挙げ、その教義や、東洋では思考の集中として認識されている神秘的な力に言及された。

 ケサル王物語のプロローグの章では、詠唱される物語を聴衆が聴いて、理解できたもののみを、そして筋道が通っていると感じたもののみを提示したい。

 
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