5 ラーマーヤナの影響
すでに述べたようにチベット人は「小説」というものを受け入れないが、本や口承文学を実際のできごととみなす傾向がある。それゆえケサル王物語も、ごく一部の思想家を除けば、批判的に中身を吟味する対象ではないのだ。そのごく一部の人々も、慎重に発言を控えるようにしている。
大部分の一般の聴衆にとって、およそ現実にありえない冒険や、英雄のセリフや行為の矛盾点などは、それほど問題にすべきとはとらえられていない。むしろそれを厳密に判定するのは風流ではないのだ。批判的精神に欠けるのは、世界中の信仰心が篤い人々に共通することである。批判精神が現れるや、信仰心は消えてしまうものなのだ。
伝説的な叙事詩というのは、常識人からすれば怒り出しかねないほど、つねにとんでもなく空想的な要素が優勢を占めるものだが、だからといって彼らが信じやすい愚か者というわけではない。
それには違う理由があることを私は指摘したい。西欧人には聞きなれないことかもしれないが、叙事詩には隠された意味があるのだ。それはヴェーダンタ哲学や大乗仏教の唯心論哲学に不慣れな読者にはとらえることができないのだ。
この考え方は、ラーマーヤナの作者トゥルシダスによって表わされている。ラーマーヤナは、よく知られているように、ヴィシュヌの化身であるラーマの英雄的行いを賞賛する叙事詩である。この叙事詩は、チベットにおけるケサル王物語と同じような地位をインドにおいて築いている。いくつかの共通点も見られるのだ。
ラーマーヤナのテーマは、多くの作者にインスピレーションを与えた。翻訳を通して西欧に広く知られるようになったヴァルミキの作品のほか、ヴァルミキよりあとの時代のこのトゥルシダスのラーマーヤナがあった。それは北インドではヴァルミキ版より人気があった。この第2バージョンのラーマの冒険は、より驚くべきものだった。ヴァルミキ版では、英雄の冒険を実際の人間の行為として描かれたが、トゥルシダス版ではヴェーダンタ哲学に依拠したリアルでない世界が付与されたのである。彼が描く英雄の行為は一貫性のない影絵であり、永遠の娯楽(リーラー)の一面だった。それは、不動の絶対性というスクリーンにつけられた、始まりのない無知(アナディ・アヴィディヤ)と幻影(マーヤー)という字幕のようなものである。
ラーマーヤナの第3バージョンは、アディヤトマ・ラーマーヤナ(秘教的ラーマーヤナ)である。このラーマーヤナの作者は不明で、書かれたのは14世紀よりもあとと考えられている。当然、それは同時代の哲学の影響を受けているだろう。
さて、トゥルシダスはヴィシュヌの化身であるラーマにこう言わせている。
「人の面白い部分を演じよう」
このような明確な宣言をケサルはしないが、聴衆や読者はそのことを知っているのである。彼らはラマ教の哲学や教義を知っていて、どんな奇妙なできごとにたいしても、この観点から見るのだ。
「形というものは、蜃気楼や空の雲によって作られるものだ。それは夢の中の姿かたちのようなものである。すべてはこのように考えられる」
この「プラジュニャー・パーラミター」(般若経)からの引用は、つねにチベット人が口にするものである。大半の人はその意味を完全には知らないとはいえ、そこから現れる精神性の影響を受けてきたはずだ。「雪の国」の住人が信じる世界は、西欧人が想像する世界ほどには、物質的に堅固ではない。叙事詩のなかの首尾一貫しない登場人物や移り変わりの激しい物語の性質は、彼らには受け入れやすいのだ。
登場人物の多くが神々のトゥルク(化身)であることは、特筆すべきことである。チベット人によれば、トゥルクは、天賦の超常的なサイキック・パワーに恵まれた奇跡的な存在である。トゥルクが聖人や聖者である必要はない。邪悪な存在や悪魔でも、このパワーをもつことがある。
実際、トゥルクは肉体と骨からできていて、他者とおなじように生まれてくるのだが(外国人から活仏と呼ばれるラマも例外ではない)それを生み出した人の意志によって動かされる装置にすぎない。それは神秘的な力によって操りヒモが引っ張られる操り人形のようなものである。ときには、その「装置」はごく短期間のみ使われる(ケサル王物語もそうである)が、その場合、トゥルクのかわりにトゥルパが作られる。トゥルパは幻影にすぎず、それに関連した人々にとっては物質的だが、その役目を終えると、蜃気楼のように消えるのだ。
叙事詩の舞台に上がる登場人物がとてつもなく膨大であること自体、魔法のようであり、そう考えれば突拍子もない行為も受け入れられというものである。
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