8 ケサルの子孫であるリンの国王と会う A・ダヴィッド=ネール (宮本神酒男訳) 

 数年後、私はカム地方にいた。

  私は、孤高のチャンタン高原と、ほとんどが森林に覆われ、独立した諸部族が占める四川省の最西端との間に広がる、興味深くて極度に美しい地を横切っていた。

 この7か月つづく旅は、その2年後のラサへの旅と比べて、絵になる美しさという面で劣ることはなく、冒険に富むという点ではそれ以上だった。私は托鉢巡礼の喜びはまだ経験したことがなかったが、「妖精」(*空行母、ダーキニー)と呼ばれる人々が存在することを知ったばかりだった。

 そう、妖精、チベット人がいうカードマである。彼らがイメージする妖精は、われわれの物語の中に描かれる、ファンタジー世界の、永遠に若くて美しい、小さな人々ではなく、ときには切実な理由から地上に転生することもある、威厳があって智慧のある女性たちである。

 私は慎重を期して、この奇妙な存在に自己投影したわけではない。ある善良な人々の彼らなりの方法によって、「予言者」と言われる尊敬されるラマの発した言葉が私のなかに見出されたのである。部分的には同意できる面があり、また従者と同様自分自身の安全を確保するためにも、私は急いで自分を妖精の存在に適合させた。

 どれほどの人々に、家々に、田畑に、私は祝福を与えたことだろうか! どれだけのアドバイスを与え、どれだけの予言を発しただろうか! 

 単純な魂はどの国でもおなじである。彼らの要求は尽きることがない。彼らは奇跡を求めることもあった。私はすこしだけなら奇跡が起こせると本気で思っていた。生きた信仰を前にして奇跡を行わないわけにはいかなかった。チベット人に過度に信じ込ませて、不相応の名声を得ることがないよう、私はヨーロッパに戻ったあと、手紙や口頭で、草原の牧人が想像できる以上の奇妙な奇跡を求められたことを、見せなければならなかった。

 私のチベットの旅の一部であるこれらの記述に関して、とくに問題とすべきものはないだろう。カンゼからバタンにかけての私のルートにあたる地域は、最近ラサの政府軍によって押さえられたばかりだが、つまりチベット当局によって行く手をはばまれてしまったのである。当局は私に来た道を引き返せといいたいようである。結局私はもうひとつのルートを選択した。これ以上の変更を望まなかったので、断固として、私はジェクンド(玉樹)へ向けて進んだ。そこには中国の前哨基地があり、チベットが支配下に置いたエリアの外だった。(*[訳注]当時、中華民国とチベットの実効支配地域は入れ子状態になっていたことに留意する必要がある。チベットは実質的に独立を回復していて、現在のチベット自治区だけでなく、四川省の一部も版図に入れていた)

 私は楽な行程を通って、現在「禁じられた国」となっている地域を旅していた。ある日、道路沿いで見張り番をしていたと思われるふたりの男が近づいてきて、馬の馬勒(おもがい)をつかんだ。

 強盗だ、と私は思った。このあたりは追いはぎが出ることで有名なのだ。しかしふたりのうちのひとりが、私の機先を制するように丁寧に言った。

「リン国の王があなたさまをお待ちしています」

 そして彼は川の向こう側の丘の上に孤高として立つ城を指した。

 リン国の王! 

 即座にほとんど忘れかけていた英雄の記憶がよみがえってきた。私はダワサンドゥプが歌っていたバラードや北京で拝したケサル像、そして国籍の疑わしい戦士王に関するモンゴル人僧の救世主的な予言のことを思い出していた。

「リン・ギ・ギャルポですって?」と私は問いただすような口調で聞いた。

「そうです、われらの首領さまです」とチベット人はこたえた。「リンのケサルの末裔でいらっしゃいます」

 ケサルには末裔がいたのだ。しかもそのうちのひとりが私を招待してくれたのだ! 

 望まないルート変更が私を導いたのである。それと知らずにケサルのタイトルを戴く者の城のそばを通ることになったのだ。ケサルの末裔が私と話をしたいだなんて! これぞ奇想天外の冒険というもの! 私はうれしくてたまらなかった。私は案内する男たちのあとをついていった。

 つづら折りの道が丘を上っていった。巨大な扉があけられ、要塞の分厚い壁の内側へ入っていった。そこには中庭、小さな庭園、庵、納屋、家畜小屋、厩舎などが迷路のように雑然とあった。丘の頂上がテーブルのような地形になっていて、その上に村が建てられていた。そのなかで他の建築物を圧倒して、城の屋根と寺の屋根がそびえていた。それは金箔のギャルツェン(屋根の部分)であり、力と地位のエンブレムだった。その使用法はチベットでは厳格に定められていたのである。

 家族の何人かが私を出迎えに来てくれて、チベットの習慣だが、歓迎のスカーフ(カタ)をかけてくれた。彼らは私を小さな部屋に案内し、そこで心温かい食事でもてなしてくれた。

 なかなか国王は現れなかった。家族の話では、国王はたいへん宗教心の篤いかたで、現在こもりをしている時期であり、その期間中は部屋を出ることも、客を迎えることもできないのだという。しかし私は例外的存在とみなされ、彼の部屋を訪ねることが許された。

 食事が終わると、国王の妻が私に声をかけ、あとをついてくるように言った。彼女にいざなわれて、離れの庵を訪ねた。そこで国王はこもって勤行をしているのである。

 リンの国王は中肉中背で、年の頃は55前後に見えた。彼は際立った雰囲気を持っていた。顔立ちは立派で、その高い額は彼が哲学者であることを示しているかのようだった。彼の立ち居振る舞いは、威厳たっぷりの彼の人格を表わしていた。彼がケサルの末裔であろうとなかろうと、彼の血管に偉大なる首領の血が流れていることはわかった。

 彼がその日話したことはテーマと直接関係ないので、ここでは割愛させていただく。しかし会話の最後には、先祖の話を出さずにはいられなかった。国王はほかの人よりもはっとさせることを言っただろうか。

 彼は英雄ケサルの養子の子孫だった。神の化身であるケサルは、地上に子を残さなかった。しかしケサルの養子が王位を継承した。ケサルは奇跡的な方法でチベットを去り、天界へ戻っていったのである。私が会ったリンの国王は、ケサルの養子の子孫だった。中国の習慣にしたがえば、かの地では、彼は自身をケサルの後裔と称するあらゆる権利を擁するという。

 私は彼と論議をするつもりはなかった。ただ彼が話すことに耳を傾きつづけた。私は、ケサル自身に触発されたたくさんの語り手が国中を放浪しながら英雄の行状を歌っているということを、そしてケサル王物語の歌をいくらか書きとめたテクストが存在することを学んだ。

 現在のリンの国王はそのうちの数巻を所有していて、私にそれを見せてくれた。装飾が施されて立派な経典であったが、残念ながら字がかすれてよく読めなかった。

 国王は数週間、何なら数か月でも滞在してケサル王物語の研究をすればいいと提案してくれたが、禁じられたエリアを旅すること自体、当局の意思に逆らうことになるので、地方の首領の家に当局の気を惹かずに長期滞在することは不可能だった。

 国王の城を出る前、ガードが固くて聞きづらかったケサルの救世主的な帰還について、思い切ってたずねてみた。しかし、打ち解けて何でも話すようになっていたリンの国王は、その瞬間突然寡黙になった。これ以上聞いてはならないのだと私は理解した。

 
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