9 ジェクンド(玉樹)で会ったケサル王物語の語り手 
                            A・ダヴィッド=ネール (宮本神酒男訳) 

 9月のはじめ、私はジェクンド(玉樹)に着いた。何のプランもなく、行きたいとあこがれたことがなく、何かに呼ばれたということもないのに、ここへ来てしまったこと自体に私は驚いた。

 ジェクンドは(地元ではキルクと呼ぶ)チベット北部を占める巨大な草地の荒原(チャンタン)の東南に位置する交易町である。[訳注] 作者はジェクンドではなく、ジャキェンドと呼んでいる。またチェク(lJe rku)という綴りを紹介している。この綴りの場合、盗まれた舌を意味し、現地の伝説と関連があると言う。現在の一般的な綴りはsKye rgu mdoで、衆生がつどう場所という意味になる。

 この町がなぜ重要かといえば、中国との境にあるターチェンルー(康定)からラサへ向かうキャラバン・ルートの中間点にあたり、交通の要衝だからだ。この草地の多い荒地を抜ける交易路は、3か月の行程である。もしかわりにナクチュカ(ナチュ)を通る南ルートを取った場合、さらに3、4か月進むと、家や木を見ることなく、ラダックやカシミール、またはパミール地方に到達する。

 キルクの南へ、森が広がるだけの人跡未踏の地を抜けると、そこはサルウィン川の川岸である。そこから北西に進路を取ると、砂漠を超えたあと、ツァイダム盆地のモンゴル人遊牧民の居留区に着く。その先は中国トルキスタンのゴビ砂漠である。それから真北へ向かい、黄河を渡ってその河源に近づき、無人地帯を進むと、驚くべき湖群、すなわちキャラ湖、ノラ湖、トッスン湖、カラ湖、そして巨大なココノール湖(青海湖)が散りばめられた風景を通ることになる。そして甘粛省の西寧(現在は青海省)に到着する。そこには大きな中国、チベットの市場があった。

 私は計画も目的もなく、この荒野のなかで立ち往生していた。すくなくともここまで来たルートをたどって逃げ出すことができないことは知っていた。

 しかしながら、さしあたり逃げ出そうという考えは追い払うことにした。7か月もの間馬上に揺られ、山岳地帯をやってきた。ひどく疲れたというわけではないが、わずかばかりの休息を楽しむのも悪くはなかった。この海抜3千メートルの健全な地域に位置する僻村は、美しい風景に囲まれ、魅力にあふれていた。私はここにとどまった。

 ある日、村の中を散歩していると、突然近くで騒動が勃発した。手に刀を持った大男が家から飛び出してきて、通りを疾走し、そのあとを20人ばかりの男たちが追いかけていたのだ。女たちもおなじ家から飛び出してきたが、ある者は泣きわめき、ある者は笑っているというありさまだった。みな興奮していて、甲高い声で叫んでいた。

 私はそのなかのひとりに近づいた。

「何が起きたの?」と私はたずねた。「だれか殺されたり、傷つけられたりしたのかしら? 走っていった男は頭がおかしいの? それとも酔っぱらっているの?」

「そんなんじゃないわ」と善良そうな女は答えた。「彼はディクチェン・シェンパなのよ」

 ディクチェンとは、チベット語で大罪人という意味である。この狂乱者はちらりと見ただけだが、見かけ上は聖人と真反対だった。いったいどういった理由で並外れた罪人という烙印が押されたのだろうか。

 彼の名前の一部はシェンパ、つまり屠殺人という意味である。このことから私は彼が職業を実践しているのではなかろうかと考えた。チベット人は彼を罪人とみなすのだ。肉食を忌み嫌うチベット人はほとんどいなかったが。

「なるほどね」と私は言った。「走っていた男は屠殺人だったのね。でもどうして手に刀を持って走っていたの?」

「屠殺人じゃありません!」と女たちは唱和した。「彼はディクチェン・シェンパ、ケサル王の大臣です。彼はホル戦争の一節を歌っているのです。そしてケサルの敵であるクルカル王が少年としてこの村に転生したのです。先の戦争の記憶がよみがえったので、彼は刀を抜き、王の敵を殺そうと考えたのです」

「こんなのはいつものことですよ。お酒を飲みすぎるとすぐに暴れ出すのです」と女のひとりが笑いながら付け加えた。「恐れを知らない男たちが彼を取り押さえてくれるでしょう。彼は子供に触ることもできないはずです」

 彼女らはホル王の転生について、一斉にわめくように声を上げて説明しようとした。ばらばらに何かを主張するので、混乱して、何を言っているのかよくわからなかったが、このキルクにひとりの男の子がいて、噂によれば、数多くの前世のひとりがケサル王の敵であったという点は理解できた。そして近隣にリンの英雄の物語を歌うことのできる語り手がいることもわかった。

 こうしてふたたびケサルと関わりをもつことになったのである。しかも今回はより好ましい状況下にあった。地方の寺院にいた知識のあるラマたちとともに私は研究をはじめたのだが、私がどうしてもこの未来の救世主である偉大な英雄の物語を聞くだけの十分な時間が得られないため、この研究だけに集中させようとはしなかった。

 語り手は、彼が逃げ出したその家で「独演会」を開いた。彼が私の前にさっそうと姿を現した日の数日後、彼の歌と語りを聴くために集まった女たちの間をすり抜けて、彼の面前に出た。

 固められた地面の上に座布団や絨毯の端切れを置き、その上に人々は座った。部屋の半分以上は敷物によって埋められていた。地面の上にも直接男たちが座り、敷物に坐った人々と向かい合った。この聴衆の中央で、先日怒りまくっていた男がときどき仕草を交えながら、歌っていた。そして彼は頻繁に、目の前の低いテーブルの上に置いた紙に視線を当てていた。

 存分に彼を見ることができるいま、カムで流行している、巨体でかつ、スポーツ選手のようであるという美的基準からいって、彼がいい男であることがわかった。この語り手は必要とされる基準に達しているどころか、ハンサムな男だったのだ。彼の誇り高い、力強い顔立ち、輝く大きな茶色の目。それはときおり激しく、傲慢にひらめいた。そしてときどき驚異の幻像の世界を映しだし、そのことが信じられないほどの表現力を与えていたのである。

 彼のメロディアスな節回しはときおり擬音によって中断した。彼はそれを強調しながら歌い、ケサル王物語の主要人物が登場するときは、トランペットが華々しく吹奏されるシーンで擬音を使った。

 ル・タ・ラ・ラ! アッラ・ラ・ラ! タ・ラ・ラ! 

 それからイーリアスの英雄たちのように、登場人物はひとりずつ称号を名乗り、功績をあげて自己紹介をする。

「もしあなたが私のことを知らないなら、私がいかに華々しい人物であり、その刀は雷光よりも速く、百万の敵兵の首を斬ることができることを学ぶべきだろう」

 そういった大言壮語が等しく並ぶのである。

 私にとっては不幸なことに、語り手はカム方言で物語を歌った。

 このことは、つまり、歌われた内容を理解し、追うのが困難であるということだ。それは省略が多く、たんに節を長くするために母音を加えることもあった。さらには聴衆が何度も「オム・マニ・ペメ・フーム」というマントラの合いの手を入れ、流れが中断するため、筋を失うこともあった。

 この「独演会」は興味深いことばかりで、激しい郷土色もついて、魅力が尽きることはなかった。しかしもし本格的にケサル王伝説を研究するのなら、もっとほかの方法があるはずだ。第一に、幸運の星が、ケサルの語り手を私の手の届くところに運んできたのである。それならば、私の家に来てもらって、歌ってもらおうではないか。さらにはケサル王物語のテクストをもっと手に入れられるはずだ。そしてのちには、もっとたくさんの語り手を探し、彼らが順繰りに歌うのを聴くべきだろう。

 最初に私は息子(養子)であるラマに美しいスカーフ(カタ)と堅実な贈り物を持たせて「ディクチェン・シェンパ」を訪ねさせた。それなりの報酬を考慮するので、プライベートで彼の語りを聴きたいという意思表示なのである。

 困難だったさまざまなインタビューの内容については省略させていただく。というのも彼は尊敬の念をもって耳を傾けてくれたこと、私がケサルにたいして攻撃的ではないことを確認したがったからである。

 ついに「独演会」がはじまった。催眠術にかかり(そう見えた)白い紙を前にした偽ディクチェンは、無尽蔵の情熱をこめて詠唱をはじめた。私と息子のラマは懸命に内容を書き留めた。このようにして、日々の独演会は6週間以上にわたっておこなわれた。

 語り手は普通の人ではなかった。彼の人生は、社会的に見ればつつましやかなものだったが、神秘的な面を持っていた。村人たちが言うには、彼はときおり長い期間、姿を消してしまうことがあったという。彼がどこに行ったか、だれにもわからなかった。キルク(玉樹)は広大な荒野に囲まれていたので、人目につかないようにするのは難しいことではないだろう。しかし語り手はどうしてそのように消えてしまうのだろうか? 私はこの質問をぶつけてみた。

 最初彼は話そうとしなかった。ようやく重い口を開き、精霊、あるいは神々に会いに行くのだとこたえた。彼は慎重にウソをついているのだろうか? 私は絶対にウソではないと思っている。彼は幻覚の世界のなかにいて、歩き、どことも知れぬところへ行き、おそらく数々の冒険を夢に見て、戻ってきたときにそれを思い出す。こういった現象はチベットの地域によっては頻繁に起こるのだ。

 あるいは、おそらくキルクから離れた山中に隠れた庵があり、そこへ行っているのかもしれない。そして彼の想像の世界の中で神に近い聖人が現れるのかもしれない。たくさんの推定が成り立つだろう。偉大なるチャンタン高原は神秘の地なのだ。

 しかしながら、イントロダクションの最初に述べたように、この語り手は二度不可解なことを述べて、私を悩ませた。このことについてはほかのところで述べたので(『わがラサへの旅』)繰り返しを避け、簡単に記そう。

 ある日私は中国人が作った紙の花を彼にプレゼントした。それは開くといろいろな形をとった。多くのチベット人はその紙の花を家庭の祭壇に飾りつけるのが好きだった。それを彼も喜んでくれるだろうと考えたのである。実際喜んでいるように見えたが、突然真剣になってつぎのように言って私を驚かせた。

「あなたの名前でこの花を国王に捧げます」

 国王とはケサルのことである。語り手がしばしば神秘的な次元にあるケサルの宮殿を訪ねていることを自慢気に話していたが、自分を重要人物に見せたいからだろうと考え、あまり気にしなかった。

 数日後、ケサルの宮殿を訪ねてきたという語り手は、私に青い花を手渡しながら、厳粛にこう言った。

「これはあなたの捧げものに対する国王からの感謝のしるしである」

 それは新鮮な花だった。季節は真冬だった。キルク周辺の谷間では、温度計は零下20度から30度を指していた。地面は地中深くまで凍り、山は深い雪に覆われていた。ディチュ川(揚子江上流)は2メートルの厚い氷に下敷きになっていた。

 青い花は7月頃沼地に咲く種類のものだったが、その季節でさえ、キルク近隣では見られなかった。彼はいったいどこでこの花を手に入れたのだろうか? 私の従者が「神聖なるケサル王が(私に)花を贈った」と話すと、チベット人たちはぞろぞろとやってきて、この青い花を崇めていった。この花がどこからやってきたか、ついに謎のまま終わってしまった。

 2番目の話は以下の通りである。

 ケサル王の冒険の「独演会」が終結したとき、語り手は英雄の帰還に関する予言を列挙したが、そのなかに、タシ・ラマ(パンチェン・ラマ)が昔からずっと住んでいるシガツェの住居(タシルンポ寺)を去り、チベットの外の北方へ行ってそこに住むだろう、という予言が含まれていた。彼は正確にも、そのことが起こるのは2年半以内のことだろうと述べた。

 驚くべきことに、この予言は内容の詳細だけでなく、時期までぴたりと当ったのである。私はのち、ラサへ行く旅の途上でタシ・ラマが脱出し、北方の砂漠地帯を経由して中国の域内に亡命したことを知った。彼はそれ以来、モンゴルと北京に滞在している。

 ケサルの敵の王の転生であるとみなされたあの少年について話すと、ディクチェンの転生は怒るかもしれないと私は警告されていた。だから少年の話はいっさい出さないよう気をつけた。しかし少年に関する情報を集めることはできた。

 少年はそのとき10歳だった。彼の母はタオの商人が持っているキルク支店の使用人だったが、少年にとっても商人は主人だった。すでに述べたように、聖書時代の習慣と同様、この国の習慣においても、母親やその息子に屈辱がもたらされるべきではないという考え方があった。

 タオ(タウと表記されることが多い)はホル地区にあった。それゆえホルパ(ホル人)である父親を通して少年はクルカル王が統治した部族とつながりがあった。少年はクルカル王の転生と考えられたのである。そのとき少年はキルク僧院に新米僧として在籍していて、僧服を着ていたが、大きくなったとき、その僧服を捨て、僧院にとどまらないことを決めた。

 私は彼の話に格段驚くべきことはないと思った、彼の悪賢そうな外観を見るまでは。その見かけは伝説と合致しているように思われた。

 彼の尋常ならざる誕生は、悪魔の血を持っていることの証明だと言われた。

 現地の善良なる人々によると、子供は生まれるやいなや、母親に向ってパンがほしいと言った。そして自分で準備を整え、小麦粉をこね、燃えがらに入れてパンを焼きあげたという。

 のちに邪悪な本性が姿を現し始めた。少年は石で鳥を殺すことに楽しみを見出し、遊び仲間と喧嘩をするのを好んだ。奇妙なことに、彼が投げた石はかならず的に当たって死をもたらした。たとえば的が動物なら、動物に当たり、死にいたらしめた。彼がその幼児の拳骨でなぐると、相手はかならずひどい怪我を負った。

 かいつまんで言うと、この不吉な兆しを恐れ、彼が示した邪悪さを懸念した彼の家族が、少年がおとなになったとき、僧院に入れ、僧服を着せれば邪悪な本能を抑えられるのではないかと期待したのである。

 じつはこの僧院にもうひとり、ホルの王クルセルの転生と考えられる新米僧がいた。しかし伝説とのつながりは薄く、一貫性がなく、大多数から受け入れられなかった。

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