11 翻訳の苦労         A・ダヴィッド=ネール (宮本神酒男訳) 

 言葉をひとつずつ訳し、ケサル王物語の完全な翻訳版を作ったとしたら、いったい何百巻の本になってしまうだろうか。なにしろ、歌のひとつひとつが前口上からはじまるのだから。

 登場人物の守護神の呼び出し、名前と称号の列挙、それぞれの人物の出自と系譜、彼らの行状、そして語られたことをまた繰り返す。この東洋的な語り手の手法で、物語は大巨編となる。

 私が持っているテクストは、ケサルのサタム王との戦いの巻だが、これだけでなんと748ページにもなる。すでに述べたように、キルクの語り手は毎日歌っても、終えるのに6週間以上を要した。彼の「独演会」は1回あたり3時間、1日に2回行われるのが通例だった。

 地元の有力な人々がケサル王物語の本を持っている場合、私は語り手に短縮して歌ってもらうことがあった。私はそれを書き留め、ほかのバージョンと比較することもできたのである。

 私の翻訳版ケサル王物語は、冗長で退屈な作品に陥らないよう腐心したつもりだが、それでも物語のおもなエピソードはすべて含まれているはずだ。

 私が底本としたのは、基本的に私が所有している原本であるが、他のバージョンを読んで覚書を取ったり、さまざまな語り手の歌う物語を聞きながら私やヨンデンが取った覚書を加えたりした。

 語り手の歌う物語とテクスト化された物語は、主だった場面においてはほぼおなじであったが、細かい部分になると相違が目立った。まったく異なった場合、もっとも受け入れやすいかたちになるよう苦心した。

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