魔女球 

ドリーン・ヴァリアンテ 宮本神酒男訳 

 

「カヴィアット・エンプトール」、すなわち「買い手よ、注意せよ」。

「たしかに」と年配の紳士はコーヒー・カップ越しに笑みを浮かべながら言った。「古いラテン語の言い回しは憶えておくべきですね。とくにアンティークを買うときは」

 彼ともうひとりは、ブライトンの海岸通りにあるホテルのラウンジに坐って、灰緑色のさかまく海の水平線から吹き込んでくる雨粒が大きな窓にパラパラとぶつかるのを眺めていた。天気の変わりやすい秋の嵐の日とはいえ、ホテルのフロントを歩くのは問題なかった。すべてが昔風のホテルでの炉辺談話はとても楽しいものだった。

 若いほうの男、ジェレミー・ブレイクはビジネス会議に出席していた。彼は巨大で印象的なプロジェクトを進めていたが、休憩が入ったので、おだやかな環境のなかで静かなランチが取れる場所を探していた。それゆえ彼は年配の人、チャールズ・アシュトンとテーブルをシェアしたのである。アシュトンは数日間の予定で田舎の小別荘を離れ、海際のブライトンにやってきて、アンティーク市場を訪ね、ショッピングをしたり、旧友を訪ねたりした。

 ふたりの男は会話にのめりこんでいった。ブレイクはアシュトンが引退したアンティーク・ディーラーであることを知った。彼はあきらかに広い知識を持っていた。さらに静かな立ち居振る舞いが魅力的で、その話し方で人を引き寄せた。

 ランチのあと彼らはラウンジへ移動し、コーヒーを飲んでいたのである。ブレイクはブライトンがいかにアンティーク・ショップだらけのすばらしい場所であるか、とくとくと話をした。ここにはとびきり安い物がたくさんあった。十分に鋭い目と情報量があれば、好奇心をそそるすばらしい掘り出し物を探し当てることができた。

 アシュトンが話す番になると、彼は静かに、思慮深そうなほほえみを浮かべて、発見やにせ物、ペテン、そして若いバイヤーが知っておくべきことなどについて、無尽蔵に物語を紡ぎ出した。そしてよく知られたラテン語のフレーズを口にしたあと、この年配の男は黙り込むと、コーヒーをすすり、暖炉の火を眺めながら、しばらく物思いにふけっているようだった。

 ようやく彼は口を開けた。「わたしの職業にはある種のリスクがひそんでいるのです。ありそうにないリスクと言いましょうか。あなたは一度も出くわすことがないでしょう。じっさい、あざ笑われるかもしれません。でもわたしや一部の人間はこのリスクに出くわすことが多いのです」

「どういうリスクでしょうか」ブレイクはたずねた。

「何と言いましょうか、歴史がありすぎる物のリスクと言いましょうか」アシュトンはこたえた。

「おっしゃっていることがよくわからないのですが」ブレイクは言った。

「それなら」一息ついてからアシュトンは言った。「話をひとつお聞かせいたしましょう。どうとらえようとあなたのご自由です。それは本当にあった話です。あなたは魔女球(ウイッチ・ボール)というものをご存じでしょうか」

「ええ、知っています」ブレイクはこたえた。「大きなキラキラ輝くガラス球ですね。アンティーク・ショップのなかによくぶら下がっています。ずっと昔、ブライトンのザ・レーンズの暗い小さなアンティーク・ショップにいつも大きな銀色の魔女球がぶら下がっていたのを記憶しています。それの横には生きているような箒にまたがった魔女の人形がありました。子供の自分にとってそれはとても怖いものでした。今はもうありませんが」

「そうですね」アシュトンは言った。「それはわたしも憶えています。家の窓にこの魔女球をぶら下げる習慣がありました。これで邪悪な目の力を避けられると信じられていたのです。神秘主義的な考えでは別の用途がありました」

「神秘主義?」ブレイクはいぶかしげに言った。「あなたはそれを信じていらっしゃるのですか。じっさい、その球のなかに何があるのだろうかと不思議に思っていました。しかし今に至るまで神秘主義者を自負する人々に会ってきましたが、率直に言って、だれもみなあやしげだったんです」

「わたしはそれを信じているというより」アシュトンは重々しくこたえた。「神秘主義とか超常現象と呼ぶものは、想像する以上にありふれたものだとわたしは考えているのです。しかしこうした体験を持つ者は、愚か者とかペテン師と呼ばれるのがいやで、人に話したがりません。人の生命には、言ってみればカーテンに隠された部分があります。神秘主義とは『隠された』という意味なのです。

 さて、わたしが話しかけていた物語に戻りましょう。わたしが購入した魔女球の話です。自分のアンティーク・ショップのウインドウを飾るのにちょうどいいのではないかと思いました。カントリーハウスのセールでそれを見たとき、即座に購入を決めました。それはとても大きな銀色のガラスの球で、古いタイプのものでした。色付きのもののほうが時代は新しいのです。年代物であることがわかりました。そのほうがいいとわたしは考えていました。

 さて、週末でしたので、自分のショップではなく、上の階のアパートの自部屋に持って帰りました。とても暗い、凍えるような寒い冬の夜でした。わたしは自分のために紅茶を淹れ、買ったばかりの球をきれいに拭いて、よく眺めました。そして柔らかい布巾でピカピカに輝くまでよく磨きました。薄暗がりのなかでテーブル上に積まれた本の山を滑り止めにして球を置きました。

 肘掛け椅子に坐って一息つきました。とても疲れていたのです。もう一杯だけ紅茶を飲み、それからなんとか立ち上がり、明かりをつけました。

 なんという輝きだろうと、わたしは古い魔女球を見ながら息を飲みました。それ自体が光っているとしか、つまり奇妙な緑色がかった光を自ら放っているとしか思えなかったのです。その球の曲面は、部屋の中にあるものをぼんやりと映しているように見えました。それは映ったものを奇妙な形にゆがめ、見慣れたものを見慣れないものに、つまり何かほかのものに変えているのです。球面は何を映しているのでしょうか。何かぞっとするものに変わっているのです。たしかに窓が映っています。書棚も映っています。しかしこの黒い物は本当にわが書棚なのでしょうか。

 わたしの顔が映っています。しかしそれはわたしの顔ではありません。

 恐ろしい瞬間でした。わたしは見たことのない目を見ていたのです。19世紀初めに流行した長くて黒い巻き髪で顔を覆うような髪型の女を見ていました。青白い、整った顔の女です。信じてください、それはほんとうに邪悪な顔でした。ひどく悪いことをしようとしている、人を傷つけようとしている顔だったのです。

 わたしは恐怖のあまり、あるいは催眠術をかけられたかのように、椅子に坐ったまま身動きできませんでした。目をそらすこともできなくなっていました。

 それから女の顔は小さくなって球面に映った部屋の奥のほうに収まりました。あらためてわたしは全体を見渡してみました。女はその時代のはやりの衣装を着ていました。きらめくビーズが縫い込まれた暗い色のシルクかベルベットのようなものを着た、身なりのきちんとした貴婦人だったのです。彼女はロウソクとゆらめく炎の明かりだけの部屋のなかで磨かれたテーブルの横に立っていました。テーブルの上にはさまざまなカットグラスのデカンターがいくつかと銀のタンカード(大型ジョッキ)が載った小さなトレイがありました。

 貴婦人はタンカードを手に取りました。そして何の飲料かはともかく、小さな緑のガラスのボトルに入った液体を、注意深く、慎重にタンカードに注ぎ込んだのです。彼女はタンカードの中身をスプーンでよくかき混ぜたあと、立ったままそれを眺めていました。彼女の顔には冷徹さと残酷さが現れていました。人に見られていないかと、びくついているようにも見えました。

 どれほど長い間彼女は立ち、長い間わたしは見つめていたのでしょうか。ようやく彼女はタンカードごとトレイを持ち上げました。すると彼女は近づいてきて、こちらに顔を向けたのです。彼女は真っ赤な唇を丸めて、悪魔のような笑みを浮かべたのです。その目はぞっとするものでした。

 わたしは叫び声をあげました。空のティーカップと皿がわたしの手から滑り落ち、床の上で砕け散りました。この砕け散る音が呪いを解きました。我に返ったわたしは部屋の中を見渡しました。カーテンは開いたままで、外を見ると街灯のやさしい光によって夕闇がほのかに照らされています。銀色の魔女球の薄気味悪い緑色がかった明かりで照らされているわけではありません。

 わたしはダッシュして室内灯のスイッチをつけ、部屋の中を光で満たしました。そして紅茶よりも強いものを探しました。心を落ち着けたあと、わたしはもう一度魔女球を見ました。ごく普通に見えました。じっさい、おかしなところは何もありませんでした。しかし自分のショップには置かないことにしました。

 MR・ジェイムズ(怪奇小説の作家)のような進め方でこの物語を語ることができたらどんなにいいでしょう。魔女球がもともとあった古いカントリーハウスについてまずいろいろと説明するでしょう。そしてずっと昔に起きた謎めいた毒殺事件のことに話を持っていくのです。じっさいのところ、事件のことはそんなにもわかっていないのですが。

 たしかに貴婦人の衣装の詳細からいろんなことがわかります。正確な時期が特定できるのです。つまり前に申しましたように、19世紀の初めに事件は起きたのです。しかしそれ以上のことはわかりません、土地の所有者が当時変わったという点を除いては。大地主が突然死んだあと、やもめになった妻はすべてを売りに出しました。地主の親戚たちは遺産相続をめぐって争いを起こしました。しかし彼らは何も手に入れることができませんでした。後年、屋敷に霊が憑いているといった話がありましたが、結局はそれだけの話でした。人が生き、死ぬ家は、すべて霊の憑いた家と言えないだろうかと、どこかの詩人が言いませんでしたっけ?

 わたしは魔女球の歴史に関する本を読み、魔女球を使った魔術があることを学びました。それによると、魔女球は予言能力をもたらすのです。わたしがそうしたように予言者は暗がりの中に坐ります。そして球面に映る情景が変わり、ほかの何かが現れるまで球を見つめるのです。賢くて科学的な人々は、それを自己催眠と呼ぶでしょう。しかしわたしはずっと昔に死んだ殺人者のまさにもっとも邪悪な決断を下したときの顔を見たと考えているのです」 

 二人の男が黙ったまま坐っていたほんの一瞬、秋の雨が窓に叩きつけられ、暖炉の火がぱちぱちとはじけた。ようやくブレイクがたずねた。

「で、その魔女球はどうなったんですか」

 アシュトンはクスクス笑った。「まあなんていうか」と彼は言った。「恥ずべきことかもしれないが、じつはショービジネスにたずさわる裕福な夫婦に、即座に売ってしまったのです。彼らがあんまり好きじゃなかったんでね」

 ブレイクはアシュトンに合わせて安堵したような笑みを浮かべた。しかしアシュトンは突然真顔に戻った。「ご存じでしょうけど」と彼は言った。「彼らに関しては、じつに奇妙な偶然があるのです。彼らというのは魔女球を買った夫婦のことです。それからまもなくして旦那さんが病院に緊急搬送されました。薬の過剰摂取とかそういった理由です。奥さんは警察でずいぶんといろいろと聞かれたようです。幸運にも旦那さんは回復し、どこにも犯罪を疑うような点はなかったと警察は判断しました。しかし夫婦はすぐに離婚してしまったのです」

「それでどっちが魔女球を持っているんでしょうか」ブレイクがたずねた。

「それは興味深い質問ですね」アシュトンがこたえた。