岩山の上から俯瞰。左(東)から右(西)へくねり流れるのはランチェン・ツァンポ川。インド領内で名称がサトレジ川に変わり、スピティ、キナウル地方を通り、ビアース川と合体し、インダス川に合流したあと、インド洋にそそがれる 註1 


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 ラサからチベット自治区最西端の都市阿里まで伸びる公道を進み、聖なるカイラス山(カン・リンポチェ、ティセ)の前を通ってメンシのあたりで左折する。10キロほど進むとパドマサンバヴァと明妃イェシェ・ツォギェルが修業をしたとして知られる(またアティーシャやミラレパが訪ねたという)ティルタプリへの入口がある。さらに10キロ余り進むと件の岩山が見えてくる。このあたりの地名はカルドンで、石窟群もある。グルギャムは目と鼻の先である。このグルギャムとさらに南西の方向へ20キロ以上進んだところにあるキュンルンが、古代シャンシュン王国の都キュンルン・ングルカルの所在地争いを繰り広げている二大候補地である。

 
シャンシュン国時代の要塞(山城)の跡。テンパ・ナムカ祠堂もここにある 

 この岩山は鎧でも着るかのように日干しレンガで固めていて、さながら巨大な自然の要塞である。そもそもなぜレンガで固めなければならないのだろうか。想像するに、岩山内部に巨大な空間(大洞窟)があるか、複数の中規模の洞窟があるのではなかろうか。岩山の平らな上部の一部は陥落していて、空間が崩壊してしまったように見えなくもなかった。グゲ王宮がわかりやすい例だけど、岩山の最上部に開いた穴から降りていくと、岩山の内部にいくつものおそらく人工の洞窟があるのだ。西チベットには数千、数万の石窟が見られるが、外から見えない岩山の内部にもたくさん石窟が存在するはずである。

 「石窟は地底世界シャンバラに通じている」といえばオカルト信者認定されてしまうだろうが、西チベットは未踏査、未調査の石窟だらけである。トルコのカッパドキアの地下教会みたいに地底や岩山内部に蟻の巣のような洞窟ネットワークが張り巡らされている可能性はけっして小さくない。チベットの考古学調査といえば、四川大学の考古学調査チームか西安の考古学研究所が担っているのだが、広大な研究フィールドのことを考えると、まったくもって研究者の数が足りていない。しかも地元のチベット人はなかなか研究に参加できないようである。三星堆遺跡(四川省)のような漢民族と関係のない先進文明が発見されるのを当局は恐れているのかもしれない。

 この岩山の平坦な上部の端にこのテンパ・ナムカのラカン(祠堂)が建っているのである。ということは、やはりここにテンパ・ナムカがいたということなのだろうか。このすぐ下には巨大な考古学的遺構がある。これがシャンシュン王の墳墓なのか、宮殿なのかわからないが、近くに遺構らしきものもあり、シャンシュン国の中心地のひとつであったことは間違いない。

 
テンパ・ナムカも修業した石窟ユンドゥン・リンチェン・バルワ。ここで修業していたテンジン・ワンダク 

 近くのグルギャムに関しては、テンパ・ナムカとの関係がもっとはっきりしている。岩壁にユンドゥン・リンチェン・バルワという修業窟があるが、伝承によるとまさにここでテンパ・ナムカは瞑想修業をしていた。岩壁だけで中には何もない簡素な石窟である、と言いたいところだが、真逆で、神像など驚くほどたくさんのものがひしめいていた。それらに囲まれて瞑想修業を続けていたのは、御年八十歳のテンジン・ワンダク・カルサン・リンポチェだった。テンジン・ワンダクの師キュントゥル・リンポチェが1920年代後半にここに来たときはコウモリの巣のようなありさまだった。この真下にグルギャム・ゴンパを建て、この石窟を石窟寺として再スタートできたのは1936年のことだった。もともとここはシャンシュン国の中心地であり、この岩壁の石窟群こそその宮殿であるキュンルン・ングルカルと考えられた。

 
修業窟内は神像や宗教的小道具でぎっしり。下の僧院には経典がそろっていた(カンギュール・テンギュール) 


註1 『セブン・イヤーズ・イン・チベット』で知られるハインリヒ・ハラーら第二次大戦中インドのデラドゥンの収容所に抑留されていたドイツの登山隊のメンバーは何度かチベットに逃亡しようとした。別行動を取っていたL・シュマードラーとH・パイダーも、ハラーらも、一度はチベット領域に入っている。しかしトリン(グゲ)王に追い返され、インド側のサトレジ川流域の村ナムギャに一時滞在している。その後1944年5月、ハラーはガンゴートリ近くの峠(カメ―ト山や聖地バドリナートの西)から入り、誰にも会わないようにして東に進み、ラサに達した。シュマードラーとパイダーもチベットに再度入るべくスピティ地方にいた。しかしリンチェン・サンボ創建の古刹タボ僧院があるタボでシュマードラーはスピティ川(サトレジ川支流)に沈められる。金品強奪目的の殺人だった。サトレジ川を遡ってチベットに入るプランは彼の考えだった。*悪党どもはまずシュマードラーを不意打ちでスピティ川に突き落とした。そして上からみなで石をぶつけた。7月なので水は濁り、水量があり、激流だったはず。ナンガ・パルバット峰に挑んだ身体能力の高い登山家とはいえ、これでは生き残ることができなかった。丘の上で彼を待っていたパイダーはタボに引き返し、彼を探すが行方はわからなかった。ようやく殺されたことを知り、警察署のあるランプールとサラハンまで往復している。主犯のソナム・ツェリンは逮捕され、奪われた金品もある程度は取り戻すことができた。
 また千年前、グゲのイェシェ・ウー王によってインドに派遣され、厖大な仏典をチベットにもたらした翻訳官リンチェン・サンポ(958—1055)のたどったルートもサトレジ川沿いであった。サトレジ川が流れるキナウル地方には、彼の伝説が多数残っている。


 
巨大な遺跡。ボン教寺院跡か。右はドリンと呼ばれる巨石遺跡。シャンシュン人が立てたのか。もっと古いものか 




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