チベットの英雄叙事詩

ケサル王物語

 竜世界の災害と疫病。占い 

 牛貨(ごか)洲のパドマ・トゥテン王 Padma thod phreng パドマサンバヴァの化身)は、蓮華光宮のなかに坐り、衆生を教化する時期が来たこと、神の子が人間の世界に降臨するのは今をおいてほかにないという確信にいたった。
*仏教(「倶舎論」)の宇宙観による宇宙では、大海の中に4つの大きな島(洲)が浮かんでいます。北の倶盧(くる)洲、東の勝身洲、南の贍部(せんぶ)洲、そして西の牛貨洲です。われわれが住む世界は贍部洲です。牛貨洲はサンスクリットでゴーダーニーヤ、チベット語でヌブバ・ランチュー(nub ba glang spyod)と言います。
 108の持明者、108の勇者、108のダーキニーがあつまった集会において、パドマ・トゥテン王は宣言した。
「地上の雪の国に降臨して衆生を教化するのはトゥパガワである。すべての神はこの神の子を守らなければならない」
 それから王は72の護法神パルゴン(
dPal mgon)、チベット13の地方神、マサン・ニェンチェン4部落、21の修行者や善神、竜神などに対し、同様のことを言った。そして神の子トゥパガワに教訓の歌を贈った。


そなたはかつて大乗の無上の菩提心でもって

堅固な大金剛の誓いをたてた。

利他の事業はこれから行われようとしている。

晴れ渡った空では

太陽も月も休んでいる暇などない。

疫病や病が蔓延する世の中では

薬の休む暇などない。

愛憎に翻弄される世の中で

凡人に休む暇などない。

チベットの衆生を教化するために

因果関係を認識しなくてはならない。

三宝の力で士気を高め

即刻チベットへ行きなさい。

山神、戦神、地方神、

またウェルマ護法神、

それらを連れて行きなさい。

方便と慈悲のため

大楽手印空行母を派遣しなさい。

十八の国の周囲で

有形の敵を滅ぼしなさい。

また無形の魔鬼を征服しなさい。

好男子よ、怠けるなかれ。

しっかりと教え、心に刻ませなさい。

 

 神の子トゥパガワは、パドマサンバヴァ(パドマ・トゥテン王)の教訓を聞きながら、心の中で誓いを破るわけにいかないことを肝に銘じた。しかし、男子たるものも、武器もなしでは敵に戦いを挑めない。
 ことわざに言うとおり、家畜が柵に守られていても、飼料の草は必要。強い司令官がいても、勇ましい兵は必要。高僧ラマにもなみの僧は必要。裕福な人にも運が必要。勇者も武器を持ってはじめて敵を倒すことができるのだ。
 広い空を覆うのはむつかしいが、黒雲が青空を覆うことはありえよう。大地は安定していてどこでも何かを生ずるが、山神や地方神はだからといって嫉妬するものでもなかろう。
 私は人間の世界に降臨したい。もし十分でない父母や家族、民衆があるなら、私は願って降臨し、衆生を教化するという難事業に挑むであろう。
 トゥパガワはこのように考え、パドマサンバヴァに向かって言った。


前世においてわれは誓願をたてた。

衆生を教化し妖魔を調伏すると。

いま慈悲の矢を持ち、標的に当てようとしている。

それで人間のために雨を降らせよう。

海の蒸気を煙のように凝縮しよう。

父母は血と肉をつくることはできない。

神の子は人間に投生することができる。

慈悲深いグル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)がわれにおっしゃった。

人間の中に生まれるには条件がある。

人間の父はよく真言を唱え

願ったことすべてがそのとおりになる者。

人間の母は竜族であること。

人間界の親戚が少ないのが望ましい。

強力な妖魔を調伏し

衆生の悪を排除する。

慈悲深いグル・リンポチェ!

わが願いを満たしてください!


 パドマサンバヴァは神の子トゥパガワの願いを聞き、精神を集中して熟考した。トゥパガワは衆生を救出したがっている。願いを成就させるためには、降臨する土地が肥沃であること、民が善良であること、両親が善良であることが必要となってくる。

 パドマサンバヴァは両目をかっと開き、チベットの上、中、下地方を望んだ。上地方のンガリ地方を見ると、プランは雪山に囲まれ、グゲは岩に囲まれ、マンユルは氷河に囲まれている。いわゆるンガリ三部(nNga ris skor gsum)地方である。
 中地方のウー・ツァン四翼(
dBus gtsang ru bzhi)は、ウル(Uru)、イェル(Yeru)、ヨル(Yoru)、ルラク(Rulag)から成っている。
 下地方のドカム六ガン(
mDo khams sgang drug)は、セルモ・ガン(Zar mo sgang)、ツァワ・ガン(Tsha ba sgang)、マルカム・ガン(sMar khams sgang)、ポボル・ガン(sPo ’bor gang)、マルツァ・ガン(dMar rdza sgang)、ミニャクラブ・ガン(Mi nyag rab sgang)から成っている。
 黄河(
rMa chu)、金沙江(’Brig chu)、瀾滄江(rDza chu)、怒江の四大河も見える。
 そのほか四大農業地帯、四大都市、四大秘密地帯なども見たが、神の子トゥパガワが降臨するにふさわしいところはなかなか見つからない。
 パドマサンバヴァは深呼吸をし、目を閉じてじっくりと考えた。神の子のためには吉祥の地でなければならない。もう一度目を見開き、仔細にチベットを見回して、ドカム六ガンの中心地リン国こそがふさわしいことに気がついた。
 上リンの八大セルパ、中リンのオムブ六部落、下リン・ムジャン四部落。中リンと下リンが接するところに、十善を備えた部落があった。こここそ幸福の太陽が昇る場所である。

こうして降臨する場所は選んだ。つぎに探すのは両親である。
 チベットでもっとも古い氏族は古代六氏族、すなわちディグン(
'Bri gung)のキュラ(sKyu ra)氏、タクルン(sTag lung)のガシ(Gwa zi)氏、サキャ(Sa skya)のクン(’Khon)氏、ラン(rLangs)氏、キュンポのギャ(rGya)氏、ネードンのラ氏である。
 パドマサンバヴァはさらに九つの氏族から探した。ガ(
sGa)、ドゥ(’Bru)、ドン(gDong)の三氏、セル(gSer)、ム(Mu)、ドン三氏、バン(sPang)、ダ(sTag)、ツァ三氏である。
 リン国にドン氏のムクポという姓の一家があった。三人の姉妹があり、下の妹がジャン・ムサ(
sPyangs rmu bza’)だった。
 ジャン・ムサがチューラブム
(Chos la ‘bum)に嫁いで生まれた子供がセンロン(Seng blon)だった。センロンは善良で、性格も温和、寛容で、神の子トゥパガワの父親にふさわしかった。

 こうして父親は探し当てた。では母親にふさわしいのは誰だろうか。神の子の母親にふさわしいのは竜族である。竜族の中から選ぶべきだろう。

 竜族には人間のように四階級の族があった。王族、バラモン、庶民、賎民である。庶民や賎民から選ぶわけにもいかないので、竜宮の王族から選ぶことにした。
 竜宮のなかでふさわしい者を探すと、竜王ツクナ・リンチェン
(gTsug na rin chen)の娘メトラツェ(Me tog lha mdzes)が選び出された。もし彼女が人間の世界に降臨したら、戦神九兄弟と馬頭明王が守ってくれるだろう。メトラツェこそ神の子トゥパガワの母親に最適である。
 しかしどうやって彼女を竜宮から出すことができるだろうか。パドマサンバヴァはあれこれと考えるうちに一案を思いついた。

 竜王ツクナ・リンチェンが統べる竜宮では、多くの竜たちが自由気ままに、平和な水中生活を送っていた。静けさを破ったのは轟音とともに海に落ちたてきたゾ(ヤクと牛の交配から生まれた牛科の動物)だった。このゾはあちこちにぶつかり、疫病をまきちらした。疫病の治療のしかたをだれも知らず、その原因もわからなかったので、竜たちはパニックに陥り、海底の平穏な日々は吹き飛んでしまった。
 あらゆるところに竜たちの苦しみのうめき声に満ちるようになった。じつはパドマサンバヴァが竜女メトラツェを得るために、ゾの角に病原菌を入れ、また呪術をゾにかけ、竜の世界を混乱に陥れたことを竜たちは知らなかった。

 竜らは竜王ツクナ・リンチェンに疫病によって壊滅的な状況にあることを伝えた。その声は悲痛な叫びのようだった。


水晶の玉座の上にあらせられる

竜王ツクナ・リンチェンさま!

どうかわれらのことばを聞いてください!

われらの竜の世界に

突如巨大な災難が降ってきました。

竜の世界は疫病に満ちています。

これは前世の業によるものでしょうか。

それともほんのすこしの間の不運なのでしょうか。

どうしたら疫病を駆逐できるのかわかりません。

病気など知らずに安楽にすごしていたので

疫病など想像もしたことがありませんでした。

一生享楽と極楽にあけくれていたので

死というものを想像したこともありませんでした。

考えられないほどの大災害、

ラマの恩恵なども思ったことがありません。

これほどの損失を受けたことがないので

偉いお方の庇護など考えも及びませんでした。

これほどの災害など聞いたこともないので

倹約ということも知りませんでした。

われらの行為がまちがっていたのでしょうか。

菩薩がわれらに懲罰を与えたのです!

結局どうしたらよろしいのでしょうか。

どういう手を打つべきでしょうか。


 竜王ツクナ・リンチェンは竜たちの呻吟と悲嘆の声を聞いて不安におののいた。彼はこの疫病が何によってもたらされたのか、いぶかしく思った。落雷に驚いて鳥が飛び立ったのでなく、鳥が飛び立ったので馬が驚いたわけではなく、馬が驚いたのでゾが頭を負傷して水の中に落下したわけではなかった。
 竜の世界の災難の原因は結局何なのか。それは人間世界の魔術師によってもたらされたちがいない。われら竜族の予言者はどんな未来をも予見すべきなのに、疫病を予見できなかったのはどうしたことなのか。
 ことわざにも言うではないか。読経のときお坊さんの声がしわがれていたら、布施のとき施主の指先がこわばっていたら、競馬のとき馬の首がふるえていたら、狩猟のとき犬が突然吠え出したら、それは悪い予兆である、と。
 それなのに予言者の目はしっかりと見ることができず、耳は塞がれていて、予知することができなかった。いま、われわれは竜の世界になぜ疫病が発生したかつきとめなければならない。外の世界に行って高僧を招くべきだ。
 さて、だれがいいだろうか。レトマシェ地方に占いの神ドルジェ・ンゴンガが鎮座する。竜の子ンガワ・シテンを送って占ってもらうことにしよう。
 竜王ツクナ・リンチェンはその考えを竜たちに伝えた。竜たちは苦悶のなかにわずかな光を見出した。

 パドマサンバヴァは竜王が竜の子を占い神のもとへ派遣したことを知り、幻術を使って占い神に扮した。

 竜の子ンガワ・シダンは神通力を使って瞬時のうちにレトマシェ地方に到達し、占い神ドルジェ・ンゴンガに鏡を献上し、言った。

「この世の卜占の最高権威、予言者にして神変大王、天眼をもち全知全能の者よ、われら清浄なる竜の世界に18種の疫病が蔓延しているのは、一体いかなる理由によるものなのでしょうか。どんな過失があったというのでしょうか。どんな薬で治療をすればいいのでしょうか。わが父竜王ツクナ・リンチェンは私を有名な尊敬すべき占い神ドルジェ・ンゴンガ、つまりあなたのもとに派遣しました。どうか竜の世界へお越しになって衆生をお救いください」

 占い神ドルジェ・ンゴンガ、じつはパドマサンバヴァはこたえた。

「おお、いいだろう。中世界のツェン(占い神はツェンの一種)と下世界の竜は隣り合う兄弟。ことわざにも言う。草は雑然と生えるが、風が吹くと一方向を向くもの、と。また、高い空の星々は散らばっているが、いっしょに昇り、青空ではいっしょに消える、と。竜世界がたいへんな災難に見舞われていと聞いて、行かずにいられるだろうか」

 そう言い終ると、360の卦縄、500の卦板、150のサイコロ、32の矢、360の卦の図表、卦の書などを50頭のラバに載せ、竜の子とともに竜宮に向かった。

 彼らがシパ・ユムツォ湖に着いたとき、竜王ツクナ・リンチェンはすでに相当待っていたが、あいさつを交わしたあと、待ちきれずに占い神に対し訴えかけた。


竜世界はたいへんな災難にみまわれています。

どんなに祈っての効き目なし、

占神のあなたになんとかしてもらいたい!

占い縄を出して

占いの図を出して

サイコロをころがして

神の矢をならべて

いつでも占う準備はできて

あとはあなたさまが占うだけ

 

 占い神はすぐにこたえた。
「まず占うのは竜王あなたのお体。つぎに占うのは竜たちの疫病の原因。そして政治のこと。もしこれらの占いのための道具やお供え物がそろっていなければ、取りかかることができません。神を軽視することはできません」

「どんなものが必要なのでしょうか」と竜王は恭しくたずねた。

「まず清浄なる占いの布が必要です。それから13の金色の神の矢。50種のさまざまな色の宝物。白い鷲の羽毛。白い綿羊の右前腿。錆のないガラスの鏡が必要です」と重々しく言った。

 竜宮の宝物はすぐ持ってくることができた。しばらくするとすべてのものがそろった。あとは占い神が占いをはじめればいいだけである。

 占い神は清浄なる白い布を広げた。そして絹布で束ねた13の金色の神の矢を取り出した。また白い鷲の羽毛を白い綿羊の右腿に挿し、錆のないガラス鏡を掛ける。50種の宝物を絨毯の上に置き、360種の占いの図を取り出した。占い用の木片を並べ、360の占いの縄を結び、祈祷のことばを述べた。


ああ、光栄なる廟堂にあって

神聖なる占いの主、

またバンセ、トセ、ダセの三王子よ。

ああ、卜占の伝統の戦神よ。

ああ、マサン・ニェン族の総統ガンウェンよ。

ああ、世間一切を予知するタンポよ。

あなたがたが顕現なる卜占を保護する。

霧が覆う卜占の疑念、

卜占を撹乱する障害、

阻害する魔物を取り除け!

上は遮断する雲をこすり落とせ。

下は覆う霧をこすり落とせ。

中は立ち込める塵をこすり落とせ。

透き通ったガラス鏡をきれいにするように

白い玉石をさらに美しくするように

清浄なる竜の国から

不浄な疫病をこすり落とせ。

このことはそもそもどこに発生したのか。

どんな因縁があったのか。

どんな方策があるだろうか。

 

 占い神ドルジェ・アンガが歌い終わると、平原に突然風が起こり、白い綿羊の腿の上にあった鷲の羽毛がふるえはじめた。神の矢の絹の飾りもまた、はたはたと翻りはじめた。すると卜占の図が、風に揺れてぱたんぱたんと音をたてはじめた。竜王ツクナ・リンチェンとその子、孫は何が起きているかわからず、緊張した。

 長い時間がたち、占神はかっと両目を開くと、跪いている竜の群集には一顧だにせず、喉を払うと、歌い始めた。


やや! 卦(モ)は明白であるぞ。

おまえたちはよく聞くがいい。

卦の「頭」はよく、「体」は重い。

「外」は高く、「自」は低い。

祈祷し祭祀をすれば、効験あらたか。

この竜の世界に

未曾有の災害と疾病が襲い掛かる。

これは人の世界において

チベットの王が開祖を招き寺院を建てたため。

竜はいまだ処罰を受けず

その報いによって

内乱が発生し

燎原に火は広がる。

もし有効な手立てがなければ

竜世界は廃墟と化してしまうだろう。

ジャンブー州の人間世界、

その汚辱を除くために現れたのがパドマサンバヴァ。

ここに呼ばなければ

ほかに打つ手なし、妙計はなし。

雪の国チベットの俗諺に言う。

死に際して財を惜しむな。

宝物に出会ったら疑って遅れるな。

やっかいなことがあったら果断に判断せよ、と。

竜王はこれらのことに留意すべし。


 竜王ツクナ・リンチェンはこの歌を聞き、疾病や災難を防ぐにはどうしたらよいかはっきりとわかった。また占い神の要望も理解した。
 心の中で竜王は考えた、積み上げてきた財産は生きていくには十分である、しかし尊い生命を救うことはできない、それらは幻にすぎない。
 こう考え、彼は13の袋の貴重な宝物を報酬として占い神に献じた。その因と縁をあきらかにしたことへの感謝の印としては相当のものだった。

 はっきりしたのは、この苦境を救うことができるのはパドマサンバヴァしかいないということだった。ではだれを派遣したらいいのだろうか。またどこへ派遣すればいいのだろうか。

 平民出身のゼンパ・ジョナの子イェルワ・ジェンガが自ら進み出てパドマサンバヴァのもとへ行きたいと告げると、竜の群集は歓喜して歓迎した。竜王はイェルワ・ジェンガならば目的を達成できると確信した。

「竜の子イェルワ・ジェンガよ、おまえを使者に任じよう。矢を放て。もしパドマサンバヴァを招請することができたなら、どんなことも受け入れるだろう。どんなことにも応じるだろう」

 そう言いおえると、竜宮の如意宝瓶と火をも克服するという宝物を贈り物として用意させた。使者はこれをもってパドマサンバヴァと謁見し、戻ってくることになる。


⇒ つぎ 


倶舎論の描く宇宙。中央に須弥山があり、四角い7つの山脈のまわりの海に、4つの大陸が浮かぶ。そのうちの南の大陸が贍部洲であり、われわれが住む世界である。パドマサンバヴァが住む牛貨洲は西方にある。
(定方晟『須弥山と極楽』より) 



パドマサンバヴァ八変化 
 パドマサンバヴァは8つの称号ないしは姿を持っている。それはシャキャ・センゲ(釈迦獅子)、パドマサンバヴァ(蓮華生)、ニマ・ウーセル(日光)、センゲ・ダドク(獅子吼)、ドルジェ・ドル(憤怒金剛)、ツォキェ・ドルジェ(蓮華金剛)、パドマ・ギャルポ(蓮華王)、ロデン・チョクセ(愛慧)の8つである。
 上の写真に写っているのは、8体のうちの5体。 
 なお、第1章の註で述べたように、パドマサンバヴァはサンスクリット語であり、チベット語でペマチュンネ、中国語で蓮華生。庶民は親しみを込めてグル・リンポチェと呼んでいる。
 パドマサンバヴァは実在したのはまちがいないが、その文字通りの足跡(仏足跡のような足跡)は数千キロの範囲にわたって残っている。チベット仏教、とくにニンマ派への影響ははかりしれない。真贋はともかく、その名を冠した著作は厖大にあり、非実在説を吹き飛ばすほどの存在感を持っている。
 伝説によればパドマサンバヴァはオギェン(ウッディヤーナ)の出身であり、ウッディヤーナがパキスタン北部のスワートなら、人権活動家のマララさんと同郷ということになる。もし住人が入れ替わっているのでなければ、パドマサンバヴァはタリバンの母体民族、パシュトン人である。




竜王ツクナ・リンチェンと竜宮 


二つの竜について 
 日本人と中国人は2つの異なる存在、すなわちル(klu)とドゥク('brug)に「竜」という一つの文字を当てたため、しばしば混同してしまう。上の竜王ツクナ・リンチェンは「ル」なので、いわば蛇の王である。われわれになじみ深い竜は、中国の竜であり、この蛇の竜はインドのナーガである。

 したがってわれわれがイメージする竜宮を想像してこの竜宮に入ったら、蛇がニョロニョロいて、肝をつぶすことになるかもしれない。このナーガ(ル)は水と関係が深く、湖、池、泉などのなかに棲んでいると思われている。

 ケサルの母親であるゴクモは竜女だが、この竜王の娘なので、蛇の系統ということになる。

 一方、ドゥクは、「神話伝説上の稀有なる動物」とされ、中国の竜に近いようである。チベットの占星術はインド、中国双方からの影響が強いが、十二支はあきらかに中国起源だ。その辰にあたるのがこのドゥクである。

 ドゥクはどうやら雷鳴を発しているか、雷そのものと考えられていた。雷鳴はドゥク・ケ(ドゥクの言葉)、あるいはドゥク・ダ(ドゥクの声)と表現されるのだ。

 ツァンパ・ギャレ(1161−1211)によって開かれた、カギュ派の一つドゥクパのドゥクもまたこちらのドゥク。ギャレは大地から飛び出て天空へと消えていった9頭のドゥクを見たことから、自分の教派をドゥクパと名づけた。ドゥクパはブータンのほか、ラダックなど広い範囲において信者を得ている。

 ドゥク・ユル(ドゥクの地域)とは、ブータンのことである。ブータンは竜(ドゥク)の国であり、雷の国でもあるのだ。ブータンの航空会社
Druk AirDrukはこのドゥクである。

 竜(ドゥク)はしばしばユ・ドゥクと呼ばれる。漢訳されるとき玉竜(
yu long)という言葉が使われるが、チベット語のユ・ドゥク(g-yu 'brug)はトルコ石の竜という意味。トルコ石はターコイズ・ブルーの名の通り青い色なので、青竜のこと。竜(ドゥク)は青色と考えられているのだ。

 ケサルの妻(正妃)であるドゥクモは竜(ドゥク)の娘という意味。彼女が生まれるとき、竜の声が空に響き渡ったことから名付けられた。竜といっても、竜宮に棲む蛇類の竜とはまったく異なることに留意する必要がある。