チベットの英雄叙事詩

ケサル王物語

10 リン六部の移住 

 追放されたジョル(少年時代のケサル)と母ゴクモは、マチュ下流域地方に住んだ。天神と地方神みなが母子を保護した。

 そこからさほど離れていない「六つの山」がネズミに占拠されてしまった。彼らネズミは山頂の黒い土を掘り起こし、山麓の潅木を切り倒し、平原の野草を食い尽くした。そこに行った人間は土埃だらけになり、牛は草がなくて飢え死にした。

 ジョルはこの魔ネズミを退治する時期がやってきたと思った。彼は羊のお尻ほどもある石を三つそろえ、マントラを唱えながら、投石器でそれらを放り投げた。雷鳴が轟き、三つの巨石は、見事、ネズミ王ダワ・カチェ、タワ・ミワン、ネズミ大臣タワ・ナエン、そのほかのネズミに的中した。石が当たったネズミはみな頭を割られ、血を流し、粉々になって死んだ。

 ネズミの害は取り除いたが、魔物による人間への害は依然として横行していた。
 ある日、70人の従者を従え、2千頭以上のラバに金銀緞子の箱を載せて運んでいた3人のラダック商人率いる隊商が中国へ向かって進んでいるとき、7人のホル人の強盗団に襲われた。
 そのことを知ったジョルは、神通力を用いてホル人たちを殺し、盗まれた物をすべて取り戻した。商人らはありがたく思い、感謝のしるしに宝物の一部をジョルにあげようとした。

「いえ、それらはぼくには必要ありません。あなたがたがこのあと中国に赴いて商いをし、帰りがけにここに立ち寄ったなら、私にカタ(吉祥のスカーフ)をください。また中国のお茶をおみやげにください。いまぼくは小さな宮殿を建てています。どうかそれをすこし手伝ってください」

 ラダック商人らは、恩返しの機会があれば、命をも投げだしただろう。
 商人らは、四階建ての宮殿に案内された。宮殿のまわりには四つの小さな城があった。ジョルは彼らにとんがり屋根の大きな城を建てるのに協力してほしかった。ジョルは百人分の食べ物を出した。それはツァンパ(麦焦がし)一袋、バター一包み、茶葉一包み、肉と小麦粉もそれぞれ一包みだった。

「中国での交易を終えてこちらに戻ってくる頃までは、この食料で十分でしょう」

 ラダック商人らが中国から戻ってきたとき、食料はちょうど尽きた。一方、ジョルの宮殿建設はまだ完了していなかった。のち、宮殿が完成する頃、商人らの交易活動はうまくいっていた。ジョルが彼らのことを気にかけると、不思議なことに彼らの商売はうまくいった。


 ジョルが8歳の年、リンでは降雨が極度に少なく、人々は竜王ツクナ・リンチェンに祈り、八部鬼神に助けを求めた。連日雨乞いの儀式が開かれた。その結果、リンに雪が降った。

 十月一日から雪が降り始め、リンは国土がすっぽり雪に覆われた。山の上の木々も雪を被り、枝だけが形を見せていた。

 リンの人々ははじめ喜んだものの、それもつかの間、喜びはしだいにあせりに変わっていった。老総監ロンツァ・タゲンは、その責任感の強さから、とくにあせりを感じていた。雪は当分やむような気配がなかった。このままでは人も家畜も凍え死んでしまうだろう。温暖な地域に移住する必要が出てきた。しかしどこへ行くべきだろうか? 住みやすいところには先住者が住んでいるだろうし、人が住んでいないところは住みがたい場所だろう。老総監は四人の調査員を四方へ送り、調査させた。

 リンの上部、下部、ロン地方へ向かう調査員たちは、何日も走ったが、雪の止む気配はなかった。じつはこれらは八部鬼神が幻出したものであり、リンで見た雪景色とおなじものだった。

 マチュ下流域地方へ向かった調査員たちは、まずザチュ(メコン川)、ディチュ(長江)、チャチュの三つの川とマチュ(黄河)が交わる地域に行った。マチュ源流のサンチェン・コパ、中流のルグ・ツェル、下流のラルン・スムド、およびユロン・ガルタを見て回った。

 マチュ下流域地方に入ると、山は緑が濃く、平原は紫色だった。牧草地が広がり、リン六部落の牛や羊を三年は食べさせていけそうだった。調査員たちはこの地域を推薦したいと考えたが、だれが主人なのか知らなかった。もし勝手に移住してきたら、現地の人たちと戦争になるかもししれない。

 だれにたずねたらいいのかさえわからなかった。そんなときちょうどうまいぐあいに隊商がやってきた。彼らはジョルに物品を献上し、租税を納めようとしている隊商だった。調査員たちはたずねた。

「あなたがたの主人はだれなのでしょうか。ここの土地を借りるためには、だれに頼めばいいのでしょうか」

「この土地はかつて無人の荒野で、だれの持ち物でもなく、通過するだけでも大変な困難がありました。とくにホル人の強盗が頻繁に現れ、略奪し、通過を阻んだのです。しかしラルン・スムドのジョルという方が現れてからはそういったこともなくなりました。ジョルは人ではなく、鬼神の王であり、その力は無限なのです。われらはカタ(吉祥のスカーフ)、茶などを献上してその加護を請い、いまでは何も恐れることなく堂々と通ることができるのです。もしあなたがたがこの土地を借りたいのなら、ジョルさまに頼むべきでしょう」と言い終わると、商人らは馬に乗って立ち去った。

 調査員たちは顔を見合わせた。ジョルはまちがいなく、リンから追い出されたあのジョル。いまさらどんなツラを下げて会い、土地を借りるというのか。

 四人の調査員たちはリンに戻り、リン六部の集会に参加し、結果を報告した。説明を受けた老総監やギャツァ、テンマの心は決まった。予言を照らし合わせても、マチュへ移住する時期が来たのである。しかし表面上はまだ何も決まっていないように見せかけた。

 ギャツァは言った。
「現在雪がないのはマチュ地方です。そこを統括しているのはジョルです。六部を代表して交渉に行くなら、わたしのような王族のチューベン氏族の者がふさわしいでしょう。しかしジョルは常識からかけはなれたふるまいをする人物です。農業の時期もなぜか通常とは異なっているのです。彼との交渉は一筋縄ではいかないでしょう。わたしひとりでは成果があがらないかもしれません。そこで六部落のそれぞれから代表者を出してもらって、ジョルとかけあってみようではありませんか」

 リンの人々はギャツァの案を受け入れ、それぞれの部からテンマ、トトン、アガン、トゥンパ・ギャルツェン、チューキョン・ベルナクを選び出した。そしてギャツァを含めた6人がマチュ下流域地方に向かって出発した。

 ジョルは予知夢を見ていたので、彼らが来ることをすでに知っていた。しかし彼らが多分に高慢で横柄だったので、6人がやってくると、ジョルはその手には投石器を持ち、行く手を阻むようにして出迎えた。


六人の盗賊よ、聞け、わが歌を。

わが名はジョル王であるぞ。

北方から闖入してきたおまえたちに

待っているのは死のみ。

わが手にあるのは投石器

これは千の戦神の威力を持っている。

前方の石崖を見るがいい。

それもこれによって粉砕できる。

この投石器を使えば

おまえたちも粉砕されるだろう。

残された六頭の馬はわが戦利品。

ここはそういう場所だ。

たとえ魔物だってここには来たがらない。


 ジョルは投石器を構えると、石を飛ばした。その石は石壁に当たり、轟きとともに粉砕した。爆音のこだまはいつまでも残った。

 ギャツァは即座に馬から飛び降り、懐からカタ(吉祥スカーフ)を取り出した。

「見知らぬマチュという土地の見知らぬ人よ、わが名はギャツァ・シェカルと申します。リンの五智士とともにこの地にやってきました。話があるので聞いてください」


黄色い口の野牛の角

だれがそれに当たって怪我をしたいでしょう。

自分が育てた子牛に当てようなど思いません。

赤い母虎の鋭利な牙

だれがそれに食べられたいと思うでしょう。

自分が育てた幼い子虎に歯をかけようなど思いません。

リンの智慧ある猛者たちと

お兄さんがここに来てお願いします。

それに石を投げるものでしょうか。

弟ジョルよ、聞いてくれ。

リンは深い雪に覆われています。

家畜は飢えに苦しんでいます。

チューベン氏族の後裔のジョルに

マチュの地の貸借をお願いしたい。

よければ三年の期間、

すくなくとも半年…‥。


 ギャツァが歌い終わらないうち、ジョルは駆け寄り、抱きしめた。

「シェカル兄さんとリンの親類の方々だったのですね。すっかり変わっていたのでわかりませんでした。ぼくたち母と子が住むこの地域は、強盗がたくさん出没するので、用心深くなっていたのです」と言うと、ジョルは6人をテントに招きいれた。

 外から見ると小さかったが、中に入ると広く、豪華だった。茶、酒、食べ物などは天神の宴席かと思うほどだった。ジョルはギャツァらが詳しく説明するのを聞いたあと、吉祥のカタを首にかけ、金貨を贈り、彼らの移住の要望にもこたえることにした。

 6人は急いでリンに戻り、六部の代表を召集し、マチュへの移住について話し合った。マチュでは、草の葉の上にはきれいな花が咲き、草の中央部には露がつき、草の根はバターを吸った。マチュでは英雄が馬に乗って道を駆け回り、男女は市で買い物をし、競走馬は草地で休息した。すなわち富がなくても人々は楽しめた。

ジョルの意図は明白だった。リンの人々はいつでも移住することができたのだ。時間制限はなかった。地税を納める必要すらなかった。商人たちが建てた宮殿に関しても、無償でリンの人々に提供した。

 リンの六部の代表者たちはみな快諾し、マチュへ移住することに決定した。老総監ロンツァ・タゲンは、十二月十日に人も馬もマチュ下流域地方に集合し、ジョルから土地の配分がされるという日程を発表した。

 みな喜びにあふれていたが、ジョルがどのように土地を区分して分け与えるのか、はっきりとはわからなかった。とくにトトンは、悪い土地を与えられるのではないかと戦々恐々とした。そこで彼は他者に先んじてマチュへ向かい、イの一番に現地に到着した。真っ先にしたことは、ジョルを客としてテントに招き、もてなすことだった。三歳の乳牛の極上の乳、香りがよく甘いバターやチーズなどの乳製品、肥えた綿羊の肉などをふるまった。そして恥も外聞もなく、へりくだって、しかし傲岸そうに語りかけた。

「甥っこよ、わしは昔からおまえをかわいがってきたぞ。だから、頼むから、わしにいい土地をくれ」

 ジョルは心から笑い、うなずいた。

 十二月十日、リンの人々はマチュ下流域地方に集合した。馬に乗ったジョルは、礼帽を被り、礼服を着、輝くような馬靴を履き、リン六部の人々の前に出て、挨拶をし、激励した。そのさまは崇高で、畏れ多く、堂々としていた。

 ジョルはまずマチュの立地などについて紹介した。


上はインド、

下は中国、

*「上はインドから下は中国まで」はよく使われるフレーズ。中国のかわりにモンゴルが入るkともある。

前はアチェン・ホル、

後はアティロン、

ここはマチュが三度曲がるところ

第一の曲がりはリンの境界、

第二、第三はアンタンと呼ばれるホルの地域。


 つづいてジョルは土地の分配をはじめた。


マチュのラセカド。

天の模様は八輻(や)の車輪

地の模様は八弁の蓮

中央の小山には八吉祥

ここはもっともよい地方。

住むのにもっとも適した地方。

長系セル氏八兄弟に分け与えたい。

マチュのよい場所、谷のペマ・ランシャ。

ここは鹿が飛び跳ねる地方。

黄色の野牛が角を磨く地方。

草を食べ終えず、牛は子を失う

林が燃えつくさず、鹿の子は生き延びる。

ここは偉丈夫の住む地方。

中系のオンブ六部に差し上げよう。

マチュ中流のツェラ。

野花が見渡すかぎり咲いている。

涼風が吹き草税を納める。

川の水は樹木税を納める。

山はまるで帳を掛けたかのよう

川はまた清水を引いたかのよう

ここは勢力ある者にふさわしい土地

幼系ムジャン氏にこの土地を差し上げよう。

マチュの陰はザトゥチュ谷。

百と八のストゥーパと

千と二十二の寺院あり。

ここは竜の母の礼拝地。

竜世界の牛と羊の放牧地。

大臣にふさわしい広大な土地

わが父センロン王に差し上げよう。

マチュ下流のルグより上は

矢筒に入れた矢のごとし。

スパコモロン・ゾン地方は

夏冬問わず雪が降る

春秋問わず暴風が吹く。

人が叫べば魔女がこたえ

犬が叫べば狐がこたえる。

ここは雌馬が九歳に至らない場所

馬の子は生まれない。

ここは子牛が九度乳を飲めない場所

牛の子は生まれない。

ここは綿羊が三歳に至らない場所

羊の子は生まれない。

喉のごとく狭い峡谷

蓮華のごとく開いた平原

ここはたくましい男にふさわしい土地

この地をわが叔父トトン王に差し上げよう。


 このようにすべての部に土地を分け与えると、ゴクモとジョル母子はマチュ下流域地方にあらたな居を構えた。

 リンの人々は満足し、喜んだ。ただトトンのみが不満を抱いたが、顔に表すことはできなかった。与えられた土地は悪く、一方のジョルの力は高まるばかりだったからだ。

 十二月五日、ジョルは宝庫を開いた。金の釈迦像、螺鈿の観音菩薩像、自成のトルコ石のターラ像、法螺貝のガトゥキャンダ、神鼓セル・ウェタン、にょうはち(シンバル)のニマ・ドゥタ、錦旗のタラ・デンドンなどの神器、またテルトン(埋蔵経典発掘師)が発掘した七つの宝などを出して香殿に供えた。ジョルは人々に礼拝するよう促した。

 このようにリン六部の人々の新しい場所での新しい生活が始まった。



⇒ つぎ 










追放されたジョル(ケサル)と母ゴクモは、マチュ下流域に住み始める。そこでまずネズミのバケモノと対峙することになった。


リンの人々を救ったのはジョル少年だった。ひどい雪害に苦しみ、移住を決意したリンの人々のために、ジョル母子が自分たちで開墾したマチュ下流域を提供したのである。