ケサル詩人 サンドゥプbSam grub (1)

 

サンドゥプは1922年、チベット自治区北部のキュンポ地区丁青県(sTeng chen)のル(RuRug)という村で生まれた。ここはナチュとチャムドが交わる地区で、青海、チャムドとナチュ、ラサを結ぶ交通の要衝だった。西へ行けば索県(Sog)、ナチュを経てラサに到達した。東へ行けば類烏斉(Ri bo che)、チャムド、そこから北へ向かえば青海省玉樹の嚢謙(Nang chen)ジェク(sKye dgu)に達した。そのため商人や巡礼者の往来が絶えることがなかった。村に家は少なく、人々の生活形態は半農半牧だった。見たところチベット北部の他の村とさほど変わらないかもしれない。しかしこの村の人々は経験も知識も豊富なのである。サンドゥプの母方の祖父ロサン・ゲレクはこの地理的条件を利用して商売を始めた。利益は微々たるものではあったけれど、利潤は十分にあり、一家を支えていくことはできた。単純な耕作や放牧よりも裕福だった。

 しばらくしてロサン・ゲレクの娘が一家を成し、第三世代が多く生まれると、それは喜びではあったけれど、生活負担を増すこととなった。ロサン・ゲレク家の人口が増えるにしたがい商売はうまくいかなくなった。すなわち結局辺鄙な場所なので、チャムドやタルツェンド(康定)に商品を仕入れに行き、戻ってくるのに半年を要した。馬に乗ったり歩いたりしながら荷物を載せたヤクをゆっくりと進めるのにはたいへんなエネルギーが必要で、その辛さは想像を絶するものがあった。祖父ロサン・ゲレクは元来豪放な性格の持ち主で、南北に走り回って数多くの人と友好を結び、そこから受ける利益も少なくなかったが、商売のほうはといえば没落する一方だった。友人と集まれば酒を浴びるように飲み、ほろ酔い気分でケサル物語を歌うのが常だった。整ったかたちで歌うことはできなかったけれど、場面のひとつひとつを熱をこめて巧みに歌い上げることができた。歌い始めると友人たちが拍手して場を盛り上げ、酒のあとの暇つぶしとした。こうして友あれば酒ありといった風で、酒があれば痛飲し、酒を飲めばかならずケサルを歌い、聴衆もしだいに増えていき、家の敷地内の小屋は村人でいっぱいになった。時間は川の流れのように過ぎ去り、商売のほうはさっぱりであったが、ロゲ・ノルブ・タドゥ(ロゲはロサン・ゲレクの省略形)と美称で呼ばれるほどケサルの歌は評判になった。

 このようにロサン・ゲレクは人づきあいがよく、ケサルの歌が得意であだ名までつけられたのだが、家庭は苦境に陥っていた。サンドゥプの父の両肩に一家の生活がかかるようになった。しかし二頭のゾ(ヤクと牛の中間種)と数十匹の羊に頼らざるをえなかった。そのような状況で五男として生まれたのがサンドゥプだった。貧しい牧民の家庭ではひとりの子供より一匹の羊のほうが喜ばれた。両親は終日忙しく、幼いサンドゥプは祖父の膝の上で過ごすことが多かった。ケサル物語は幼い頃からなじみ深いものだったのだ。

 サンドゥプの両親の目には、祖父は身上つぶしに映った。朝から晩までやることがなく、チャンを飲んではケサルを歌った。しかし活発でないことはなく、隣近所の人を呼んでさながら庭に市でも立ったかのような賑わいだった。幼いサンドゥプはそんな祖父が大好きだった。祖父がケサルを歌うとき、サンドゥプは懐のなかで理解できない詩句を聴いていた。彼はケサルが音楽とともにはじまることを認識した。それがどんな音楽なのかよくわからなかったが、祖父の歌の調子が変わり、激昂して勇壮な色合いを帯びた時、ケサル王が出征するのだとわかった。悠々として歓迎の色合いを帯びた時、ケサル王が凱旋したのだとわかった。サンドゥプはケサルの音楽が起伏に富み、ゆるやかになったり激しくなったりすることを学んだ。叙事詩の旋律はどれも似たり寄ったりだが、彼にとってはそれが唯一の音楽世界だった。ケサルが何か幼いサンドプにはわからなかったが、その小さな心の中に根を下ろしたのだった。


→ つづく