チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

14  ジョル、バラバラ死体になる 


 ジョルは荒ぶる神馬キャンゴ・ペルポを落ち着かせると、ドゥクモ、母ゴクモとともに帰路についた。ドゥクモは神馬に賛歌をささげながら、この馬なら競馬会でまちがいなく勝つだろうという確信をもった。

 ということは、自分の夫となるのはジョルということだった。ゴクモは義理の母になるということであり、死の時を迎えるまで支え合って生きていくことになるだろう。

 彼らは迅速にもどらなければならなかった。ドゥクモがインド人の少年に思いを寄せていたことを知ったジョルは、憤りで心が張り裂けそうになった。しかしドゥクモが無邪気に喜んでいるさまを見ると、やはり彼女の心を捉えてみたいと考えるのだった。

「神馬は捕縛したといっても、十分調教したわけでもなく、また鞍や轡(くつわ)もないので、もし乗ったとしても振り落とされるかもしれません。ぼくだって振り落とされれば死んでしまうかもしれませんよ。こうしたらどうでしょうか、われわれが先に行き、この神馬はぼくの母にまかせるのです。ゆっくりと、ひいて帰ってもらえばいいのです。ぼくが心配しているのはむしろ、ドゥクモ、あなたが雌馬に乗っていられるかどうかです」

「それならジョル様が私の馬に乗ってください。私は馬の後ろを歩いていきます。私だって馬に乗ることぐらいできるんですけど」

 ドゥクモはジョルにたいして深い信頼を寄せていたので、彼が自分をもてあそんでいるとは考えなかった。

「じゃあそうしましょう」とジョルはドゥクモの雌馬ドムに飛び乗ると、はじめ身体が左右に大きく揺れたが、安定を取り戻し、悠々と進み始めた。ドゥクモは恨み言をいわず、馬のあとを急ぎ足で歩いた。

 しばらく行くと、丘の上から一匹の麝香(ジャコウ)鹿がじっとこちらをうかがっていた。ジョルは鹿のほうを見ないようにしながら小さな声でドゥクモに言った。

「あそこにいる動物は山の陰にいる鹿の魔物ポンラ・ロチュンです。われわれのことをつけ狙っています。ドゥクモ、どうか歌をうたってください。あれは歌に聞き惚れるでしょうから、その隙に乗じて私が縄で捕縛するのです」

 ドゥクモはその鹿をじっと見ると、いつも見かける鹿とは違うことに気がついた。しかしまた疑念も湧いてくるのだった。これもまたジョルが幻覚を見せているのかもしれないと思った。このような山にどうして麝香鹿がいるだろうか。それを捕えるのがどうしてむつかしいだろうか。それにそもそもなぜ歌をうたわないといけないだろうか。しかしジョルがそう言うのなら、歌わないとは言えない。歌うなら、どの曲がいいだろうか。そう思いをめぐらしながら、歌いはじめた。


あの山陰の道に

孤高と立つ一匹の麝香鹿

行くべきかどうか、とどまるべきかどうか

ジョルはもうお見通しなのでしょうか

わたくしドゥクモは麝香と鹿肉のことばかり気にかけているけれど



 ドゥクモが歌い終わる前にジョルは縄を麝香鹿の首にかけた。しかし鹿の力は強大で、ジョルの身体はドゥクモに向かってはじきとばされた。ジョルが持った縄がドゥクモにまとわりつこうとしたとき、彼女は足元の石をつかみ、思い切り鹿めがけて振り下ろした。それは命中し、鹿は地面にたたきつけられた。ドゥクモは死んだ鹿を見て飛び上がらんばかりに驚いた。こんなにも巨大な鹿を、かよわい娘が一撃でつぶしてしまうなんて、想像すらできないことだった。

 ドゥクモが麝香鹿を殺すさまを見て、ジョルは不愉快だった。

「ドゥクモよ、鹿の魔物を倒すならこのぼくであるべきなのに、なぜあなたが殺してしまったのか。それにどうして麝香と肉のことが思い浮かんだのか。そなたのような美しい乙女がどうして財に目がくらみ、食欲が旺盛なのか。リン国の人々にこのことを伝えたなら、人々は理解に苦しむでしょう」

「ジョル、この件についてしゃべらないでください。麝香鹿を殺すつもりはありませんでした。鹿はもう死んでしまっているのです、私にどうせよとおっしゃるのです?」

 ドゥクモは苦痛も死も恐ろしくなかったが、名誉を失うのはこわかった。彼女の名声はすでにリン国中に聞こえているのに、彼女のよからぬ点をジョルにしゃべらせるわけにはいかなかった。

「そうですね、わかりました。ひとつ答えてもらえば、秘密は守ると誓いましょう」

 ジョルは彼女が名誉を損なうことを恐れているとわかったので、それに乗じて要求を示そうと考えた。

「なんでも言ってください。私ドゥクモができることであるなら、なんでもこたえておみせしましょう」

「これはとても簡単なことです。あなたのお父上の宝庫にあるふたつのものをお借りしたいのです。それは金の轡(くつわ gser srab)、すなわち「如意珠」、それと金の鞦(しりがいrmed)、すなわち「願成就」です。このふたつを借りて競馬に参加したいのです」

「わかりました、ジョル」

 ドゥクモは宝庫から父親が大切にしているものを持ち出すのが容易でないことは承知していたが、自分の名誉を守るためにも、またジョルに勝利させるためにも、成し遂げなければならなかった。父親も同意してくれるだろう。

 ふたりは一言も発せず、黙々と歩いた。マガリン・ラランゴンマに至ったとき、ジョルは乗ったまま、突然チャンカル・ベルカと呼ばれる魔法の杖でもって雌馬ドムを叩き始めた。馬は驚いて飛び跳ね、前足を掲げたかと思うと峠道のほうへ向かって全速力で駆けていった。ドゥクモはぽつねんとひとり残された。

 ドゥクモはジョルが愛馬を理由もなく叩くのを見て、心を痛めた。馬は峠道の向こうに走り去り、影も見えなくなった。彼女は思い切り走って峠道にさしかかった。するとそこに現れたのは、身の毛のよだつ光景だった。

 そこに転がっていたのはジョルの首だった。目をこらしてよく見ると、木の枝には腕が入ったままの袖が掛かっていた。その近くの道の脇には、靴をはいたままの足が落ちていた。さらには内蔵や腸が散らばり、血や肉といっしょにぐちゃぐちゃになっていた。あまりにも凄惨だったため、ドゥクモは直視することができなかった。

 ドゥクモは家の中で牛や羊が屠殺されるのを間近に見たことがなかった。しかしここで起きたのは、屠殺のようなものだった。いましがたまで生きていた人がこんな変わり果てた姿になってしまうなんて! 鞦(しりがい)や轡(くつわ)を借りたばかりなのに、まばたきをする間に首と身体が分離してしまったのだ。ショックのあまり感情がすぐには湧いてこなかった。これはいったいどういうことなのだろうか。

 ドゥクモがふりかえるとそこには愛馬のドムが汗をかいて立っていた。鐙(あぶみ)の上にはジョルのもう一本の足が掛かっていた。ドゥクモは怖くなり、ジョルの母親であるゴクモのことを考えた。すると遠くのほうから、そのゴクモの影が次第に大きくなるのがわかった。ドゥクモは恐怖心をおさえてジョルの首、腕、足を集めた。

 ジョルの目は大きく見開いたままだった。老人たちが言うには、死んでも目を閉じないのは心にひっかかることがあるからだった。

「ああジョルよ」とドゥクモは思った。「志半ばで亡くなるとは! 目を瞑ることができないのは当然だろう。でも結局私はジョルにどれだけ近づけたのだろうか。またジョルはなぜ愛馬のドムを急き立てたのだろうか。なぜ私の馬のために命をなげうつことになったのだろうか」

 ドゥクモはジョルの遺体を片づけながら、自分にたいして恨み言を言った。ジョルの閉じない目は生きているときとまったくおなじだった。いや、ますますドゥクモのほうをじっと見ているように思われた。

「人はいつも言うけれど」とドゥクモは心の中でつぶやいた。「向こう側の世界の人にこちら側を見させることはできないもの。私はジョルの目にあちら側を見させることはできないわ」

 ドゥクモはなすすべもなく、ただジョルの目に灰をまいただけだった。それから白石を積み上げて墓を作った。ジョルの墓を前にしてドゥクモは声を出して泣き崩れた。

「ジョルや、私ドゥクモはもとより駿馬を持っています。鞍も轡(くつわ)もあります。あなたは競馬でも勝つことができたでしょう。私ドゥクモはあなたに一生沿うことになったはずです。でもこの世であなたは大業を成し遂げることができませんでした。すでにあなたは亡くなってしまっているのに、私ドゥクモひとりで生きて何の意味があるでしょう。ジョルよ、あなたの魂が天にあるなら、どうか私を待っていてください。この世で私ドゥクモとあなたは夫婦になることができませんでした。天でお会いしたら夫婦になりましょう」

 泣きながらドゥクモは愛馬に乗り、ペリ毒海に向かって走っていった。岸辺に着くと、彼女は天に向かって両手をあわせ、「天の神様、どうか私とジョルの魂がいっしょに天界へ行けますようにお計らいお願いします」と祈った。

 祈りを終えたあと海のほうを眺めると、遠くからまがまがしい黒い波が押し寄せてくるのが見えた。それはすべてを飲み尽くすかのように思われた。ドゥクモはあえて波のほうは見ず、襟で目を覆い、両足で馬の腹部をおさえこみながら、海に向かって飛び込もうとした。

 しかし馬のドムは海に飛び込むどころか後ずさりしていった。ドゥクモは心の中で思った、この馬は私といっしょに行くのがいやなのかしらと。それなら自分で家に戻ればいい。父や母が大事にしてくれるだろう。彼女は馬ののどを軽く叩きながら言った。

「ドムよ、わが愛する馬よ。私といっしょに行きたくないなら、リンへお戻り。ジョルが死んだいま、私はひとりでこの世に生きていこうとは思いません。私とジョルの魂は分けることができないのです。生きていても死んでいても一体なのです。もしジョルが先に浄土に達しているなら、私も急いで追いつきましょう。願いがかなうなら、死が苦痛であったとしても、幸せでしょう。ドムは早く父母のもとに戻って尽くしてください」

 ドゥクモの話を聞いて、ドムはさらに後ずさりをした。ドゥクモはいぶかしく思い、馬から飛び降りた。馬をよく見ると、しっぽにジョルの顔が浮かび、ドゥクモは飛び上がらんばかりに驚き、地面に尻もちをついた。この馬もジョルの変身した姿だったのだ。

 ジョルはドゥクモの様子を見て大笑いした。

「はは、センチャム・ドゥクモよ! ことわざにも言うだろう。雄鹿はうれしくてたまらないときに号泣する、フクロウは夜、苦痛を感じるときに笑う、老いたオオカミはおなかがいっぱいで動けないときに(食べ物の)肉のことが気にかかる、とね。センチャム・ドゥクモよ、あなたも美しすぎて泣いているんじゃないかな? あなたの家が富裕すぎて憂えているんじゃないかな? あなたの家が権勢を持ちすぎて苦痛なのではないかな? そうでなければどうして毒海に飛び込もうとするだろうか。死ねば安楽の世界が待っていると思っているのなら、どうして恐れて眼を閉じるのだろうか。何を気にかけているのか。あなたの目が見たくないのは何なのか。リンの人たちはみなあなたの美貌を知っている、心が善良であることも知っている、しかしこんなにも死を恐れていることは知らないだろう。ぼくはこのことをお兄さんのギャツァやリンの人々に知らせなくてはならない」

「ああ、なんていうことを……」とドゥクモは狼狽してうまく言えなかった。

「ぼくは死んでなどいない。あなたは灰をわが目を塗りこもうとした。石でわが身体を覆った。これはどういうことなのか」とジョルはたたみかけた。

 ドゥクモはジョルの言葉を聞かないようにし、言い訳を試みた。

「ジョルさま、なぜそのようにおっしゃいますか。ジョルさまを想う気持ちが残虐無道な心に変わったとでもいうのですか。あなたがこの世を去ったとばかり思い、取り乱してしまったのです。あなたが変身の術を用いて私を弄んでいるなんて、思い至るわけがありません。こんなことをして、リンの人々に何と説明しようと考えておられたのでしょうか」

「ぼくはつねに遊びの心を持っています。だからあまり真に受けないように。人にぺらぺらしゃべったりはしませんよ。でもぼくが借りたいふたつのものを貸してくれなければなりません」

「借りたい? 私ができることなら大丈夫ですけど」

「ひとつはあなたの家の花紋様の金の鞍(セルガ)。もうひとつは九宮が描かれた毛氈の敷物です。これらで馬を飾れば(王位を競う)競馬に参加することができるでしょう」

「ジョル、心配しないで。私が用意しますから」とドゥクモはさわやかにこたえた。


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