チベットの英雄叙事詩
ケサル王物語
15
ジョルとドゥクモが進むと、眼前に七つの砂山が現れた。これはまさにドゥクモとインドの美少年大臣が会った場所だった。巨大な岩の上に目印があったのだ。ドゥクモはその岩を見た瞬間あわてふためき、先を急ぐようジョルに促した。しかしジョルは疲れたのでここで少し休息をとりたいと言った。ドゥクモはことさら異を唱えず、心を乱しながらもジョルの横に坐った。
ジョルがその岩に身体をもたせかけると、その姿はインドの美少年そっくりだった。ドゥクモははたと気がつき、錯乱し、顔を赤らめたり、青ざめたりした。ジョルはその様子に気づかないのか、疲れた身体を岩に寄せたまま両目をつむり、眠ったかのようだった。ドゥクモはその姿を見て安心した。
そのとき突然ナキウサギの一群があらわれた。それらはジョルとドゥクモを取り囲んでキーキーと鳴きながら踊り騒いだ。そのなかから白いスカーフを巻いたナキウサギが出てきた。そのスカーフはドゥクモがインドの大臣に贈ったものだった。
「吾輩はナキウサギの大臣トンガ・パルミであります。本日はジョルさまに謁見するためにやってきました。ここに9枚のスカーフがあります。これはドゥクモのお嬢様がインドの大臣に贈答したものであります。三度のお約束のものなのです。大臣はこれをわれに賜るとお帰りになられました。そのときわれはつぎのような歌をうたいました」
もしすべての財産を馬の上にのせたら
ある日乞食になるかもしれない
もしすべての心を女にささげたら
ある日独り身が終わりになるかもしれない
飼っている馬を大事にしていたら
かえって蹴飛ばされるかもしれない
子供を大事に育てていたら
かえって憎まれるかもしれない
食べ物と財を蓄えていたら
そのために命を失うかもしれない
女の貞操を信じていたら
災難に遭うかもしれない
ドゥクモは美人だけれど頭の中はからっぽ
熱しやすく冷めやすい
こんな娘はクジのようなもの
ジョルを間違った道に導くかもしれない
ナキウサギは歌い終わると白いスカーフをジョルに向けて投げ、穴の中に消えた。ほかのナキウサギもみな一斉に姿をくらませた。
ジョルは青ざめた表情のドゥクモを見て得意げに語った。
「へえ、ぼくはあなたの人となりを知っているつもりだけど、そんな秘め事があったなんて知らなかったなあ。ナキウサギが言ったことはうそとも思えない。家にもどったら話し合おうじゃないか」
ジョルはスカーフを懐に入れると立ち上がり、歩き始めた。
ドゥクモは圧倒されて釈明する気力もなかった。それに釈明のしようがなかった。この瞬間ドゥクモは取り乱していて、釈明の手がかりすら見つけられなかった。ほかに方法がなく、ドゥクモはジョルの判断に任せるしかなかった。そのジョルはほとんどしゃべらず、ただ前進をつづけていた。すこし先にはドゥクモが黒い馬に乗った黒い人と出会った場所があった。そこに一匹の蜂があらわれ、心地よい音をたてた。そのブーンという音は次第にはっきりとしてきて、人の声のように聞こえた。
「ジョルよ、あの花の上の金の指輪が見えるかい。あれはドゥクモがベリ・ニマ・ギェルツェンに贈ったものだよ。おいらがジョルのために盗んできたんだよ」
ジョルはすぐさまその花のところへ行って指輪を手に取った。それは日差しを浴びて金色に輝いた。
「ああ、これはキャロ家の指輪だな。この金の指輪はドゥクモの指にあってこそ美しいものだ。それにしてもなぜあなたは簡単に人に贈り物をするのだ?」
ジョルは指輪をドゥクモの面前にかかげた。
「この指輪はドゥクモさんのでしょう?」
ドゥクモは体中の力が抜けていくのを感じた。はずかしさのあまり顔を上げることができなかった。
「美しい娘さんよ、センチャム・ドゥクモさんよ。ぼくといっしょにいるこの道すがら、どれだけ都合の悪い人が出てくるのか。どれだけ都合の悪いことがあきらかになるのか。これらのことを叔父のトドンやギャツァ、それからあなたの父上に知らせねばならんでしょう。お父上はどんな教育をされたのであろう? まさか大胆になることを教えたのではあるまいか」
ここにいたってドゥクモは確信を持った。これまで見てきた黒人の妖魔やインド人の少年大臣はどれもジョルが作り出した幻なのだ。それはドゥクモを試すためのものである。自分が軽薄な娘であるのはたしかだが、それらが幻であることに気づかず、ジョルを結果的に怒らせることになってしまった。ドゥクモは自分とインドの大臣ベルガの甘い愛の語らいを思い出して恥ずかしくなった。彼女は地面に跪き、ジョルの許しを請いたかった。しかしジョルがそれを受け入れてくれるとは到底思えなかった。
先をお見通しの尊敬すべきジョルさま
寛大なるあなたに私の申し分を聞いてほしいのです
知らずに過ちを犯すのが衆生というもの
知りながら過ちを犯すものはブッダといいます
いままで知らずに、認識せずに過ちを犯しました
それがあきらかになり、私は悔やんでいます
インドから来た少年に
心を奪われた私はおろかでした
あなたが作り出した幻にたぶらかされて
にせものだと気づかなかった私はまちがっていました
気もそぞろな空虚な私に
あなたの轡(くつわ)と手綱がかけられていたのですね
かつての私の心は狂気の象のよう
これからは変わらずジョルさまにしたがっていきたい
私ドゥクモは誓います
それと同時にジョルさまにお願いします
あなたの知恵が海のように広くありますように
私をお嫌いにならないように
力を発揮して王位につけますように
リンの人々がみな幸せになりますように
ジョルはドゥクモが懺悔する様子を見て心の中ではうれしく思ったが、厳しい口調で言った。
「あなたが言うことはまちがっていない。過ちを知り、認識することは、つまり過ちをただすことができるということだ。すなわち悟りの果を得るということである。ぼくは心の中の変化を空(くう)となす。あなたは心の中の過ちを空となす。過ちと変化は分けがたいもの。過ちは虹のごとく消えていくだろう」
ドゥクモはジョルが自分のことを許してくれるのだと思い、喜んだ。そして自分の夫となるのはジョル以外ありえないと確信するにいたった。そのとき遠くからゴクモが神馬をひいてやってくるのが見えた。馬をあらためて眺めると、鞍と轡はそろっているが、鞭だけがなかった。ドゥクモは即座にジョルに言った。
「何も言わないで。私が鞭を贈りますから」
ジョルはからからと笑った。ドゥクモはうれしくて花が咲くように顔をほころばせた。母親のゴクモは何が起きたかわからなかったが、ジョルとドゥクモが仲睦まじく笑っているので、彼女も口をあけずにはいられなかった。
ジョルとゴクモがもどってきました
ドゥクモとジョルの仲も元通り!
ジョルがもどってきたことは、すぐにリンの人々の間に知れ渡った。彼らはジョルが競馬に勝つことに希望を託していた。
人々はジョルとゴクモを取り囲み、挨拶のことばをかけた。しかしもっとも関心があったのは、ゴクモがひいてきた神馬だった。どうみても一般の馬とは違っていた。
ジョルと母ゴクモを出迎えた群衆の中に叔父トトンの姿はなかった。ジョルは目を凝らして叔父を探したが、やはり見当たらなかった。ジョルはどうしても叔父と会いたかったので、一刻も猶予を許さないと考え、その場は母に頼んで、神馬をひいてトドンの家へ向かった。戸口の前にやってくると、ジョルは大声をあげた。
「叔父さん! 甥のジョルがやってきましたよ! 宴席を設けてください。馬のエサをください」
ジョルの声を聞くとトトンはすぐに出てきた。しかしまず見たのはジョルではなく、ジョルがひいてきた神馬キャンゴ・ペルポだった。まさにこの世でもっとも入手しがたい稀有な馬だった。トドンの視線はこの馬に釘づけになった。それからジョルのほうに眼光を当てると、トトンは言った。
「おや、甥っこじゃないか。おまえが戻ってきたというので出迎えようと思っていたところだ。ちょうどよかったよ。もう何日も競馬について話し合いをしているのだが、おまえはいなかった。わしは忘れなかったけどな。宴会でもてなしてやろうじゃないか」
トトンは神馬をさも欲しくてたまらないというふうな目で見ていた。心の中でジョルは冷笑した。トトンは神馬に心を奪われていた。彼は本来針の先ほどの細かいところにまで注意が行き届く人間だった。しかし王位をめぐる争いには当然馬が重要になってくるのである。トトンが無関心でいられるはずがなかった。
トトンは口を開いた。
「甥っこよ、この馬はだれのものだい? どこから来たのかい? わしが見たことないのはどうしてなのだ?」
ジョルは冷たく笑った。
「ぼくが追放された頃、この馬はまだ親の胎内にいたのです。叔父さまに見る機会などないでしょう。母馬が生んだあと、ぼくには馬を養うことができなかったものですから、山の中に放牧していたのです。だから調教はまったくしていません。いまのところ野生馬といっしょですから、騎乗することもなかなかかないません。競馬でこの馬に乗るのは賭け事のようなものです」
トトンはジョルの言葉を聞いて動揺をおさめるのがむつかしかった。というのもジョル追放を謀った主犯は自分自身だったからだ。しかしそのあとジョルは追放について触れようとしなかったので、またこの馬が野生馬であると聞いたので、心中ひそかにうれしくてたまらなかった。
「ジョルよ、わがいとしい甥っこよ。競馬のときには、体格に恵まれ、強健で、脚が速く、身体能力が高く、性質がおだやかで、見た目もいい馬に乗らなければならないぞ。これらを備えた馬でなければ相当に不利だろう。思うに叔父と甥のあいだで取り引きをする必要がありそうじゃな」
「取り引きですって?」
「そうだ。わしはたてがみが緑色をした白馬の駿馬をもっておる。数いる馬のなかでも群を抜いてすばらしい馬だ。この馬にふさわしいのはおまえをおいてほかにない。わしとおまえで馬を交換することにしようではないか。もしほかの馬を探すのならわしが協力してあげよう」
ジョルは笑った。
「馬の交換は当然ありえることです。しかし双方が望んでこそ可能なことなのです。この馬は性格が荒いのですが、それゆえかえって良馬かもしれません。もし馬が売れなければ調教のしようがないし、もし売れればくやしい気持ちになるものです。もし叔父さまがわれわれ母子に13匹の絹、13錠の馬蹄銀、13包の黄金を贈ってくださるなら、交換に応じることも考慮いたしましょう。しかしもしぼくが叔父さんの馬に乗ることができたとしたら、叔父さんも私の馬を飼育することができるでしょう」
トトンは満悦にひたったが、ジョルが自分の馬と交換してくれることのみに注意を払い、彼が話の中で何を言ったか、しっかり聞いていなかった。
翌日トトンは上質の花茶、3歳のヤクの牛乳、香りのいい点心、素食、果物、陳酒など豪勢な品々を山のように並べた。このほかジョルが交換条件としてあげた13匹の彩絹、13錠の馬蹄銀、13包の黄金などをそろえた。トトンが使者を差し向けようとしたとき、ジョルは馬をひいてやってきた。トトンは心の底から喜んだ。馬頭明王(カヤグリーヴァ)の予言が正確であり、霊験あらたかであることを確信した。ジョルのこの馬によって順当に王位の座につくことができるだろう。
笑いをこらえきれないトトンはジョルをテントに迎え入れた。
「わが愛する甥っこや。おまえが望んだすべてのものがここにあるぞ。これまでわれら叔父と甥はあまり話をする機会がなかったが、今日こそはゆっくりと膝をまじえて語り合おうじゃないか」
ジョルはテントの中に食べ物や飲み物がうず高くなっているのを見ながら、顔色を変えずに言った。
「叔父さんにこんなにもそろえてもらって感謝に尽きないのですが、これをどうやってもっていけというのですか」
「いやいや、余計な心配はせずともよろしい。下の者に運ばせるからな」と言い終わる前にトドンは家来に命じてジョルへの贈り物をドゥクモのテントに運ばせた。
ジョルは座った。
「叔父さん、何を申し付けたのですか」
「叔父は何も申し付けていないさ。雑談をかわしただけだ。雑談のなかに処世に役立つような言葉が混じっているのをジョルが聞いたのだろう」
トドンは歌った。
子供時代、青年時代、老年時代
人生の旅の3つの装い
青少年の時代、父母をいつくしめば
年をとっても幸せは去らない
師匠、弟子、施主
これらは修行者の3つの装い
弟子、師匠の修行法で
正果を得る喜び
君、大臣、平民
これは世の中の幸福の3つの装い
徳政を敷けば臣民とも喜ぶだろう
民を保護することによって誰もが幸福になるだろう
父と叔父、兄と弟、息子と甥
これらは社会の名誉の3つの装い
相手に勝てば喜び
愛し合う肉親もみな喜ぶだろう
姑、娘、息子の嫁
これは家庭の気運の3つの装い
裏表のない関係を築けばみな喜ぶだろう
ずっと長い間喜びがつづくだろう
親戚、友人、知人
これらは世の中の喜びの3つの装い
互いに益があればみな喜ぶだろう
私心なく誠実であればみなの喜び
太陽、月、星
天空が湛える3つの装い
世界を照らす暖かい日の光
宇宙でそれらは分かちがたい
雲と霧、雷鳴、慈雨
茫洋とした大空の3つの装い
互いに依存しあい
大地に福音を伝えるだろう
種、収穫物、果実
これらは肥沃な土地の3つの装い
人も家畜もうまく暮らせばみなが幸せ
輝きを増して離れ離れにならない
お父さん、叔父さん、甥
力をあわせればリン国の3つの装い
ともに協力して四方の敵に立ち向かう
信頼し合い離れ離れにはならない
トトンは歌い終わると、得意げに目を輝かせ、親しげにジョルの顔を見た。ジョルはさぞ感激しただろうと、トトンは勝手に思い込んだのだ。しかしジョルは眉ひとつ動かさずに言った。
「叔父さんの歌が終わりでしたら、つぎは私の番です」。
子供は経験もなければ知識もない
青年は物事が理解できない
老人は愚昧で恥知らず
老いても楽しくて死を知らぬかのよう
僧侶は驕って権利を求める
弟子は法を破って風紀を乱す
施主はお布施を出し惜しみ
法を守り規則を順守するのも欺瞞的
領主の心は財布に穴をあけ
大臣らは上にはご機嫌うかがい、下にはいじめ
庶民は冤罪で罰を受ける
どうしたら民を守り、仁政を行えばみな幸せになるといえるのか
父と叔父はずる賢さで競い合い
兄と弟の策略合戦は死臭が漂うほど
甥と息子の争いは流刑をもたらす
敵を倒し、身内を守っても益がない
姑の心は虚空のように真っ黒
息子の嫁の行いはヤギのように勝手気まま
娘の心は貪欲のかたまり
長く平穏を保つのはむつかしい
肉親は最後には仇となる
知人は最後には裏切ってしまう
親友は最後には訴訟を起こす
私心なく誠意を尽くすのはきわめて困難
太陽は西山に落ちる
雲は月を隠して漆黒の夜空
星々の光は夜明けの日差しに追いやられる
青空はそれらをばらばらにする
厚い雲が吹き散らされる
竜はその身を隠して姿が見えない
慈雨は降りやんだ
福音を大地に伝えるのはむつかしい
種は野牛に食われてしまった
食べ物は倉庫の奥にしまわれた
果実は熟れて地に落ちた
花が咲き競うのはわずかな間だけ
父センロンは愚かである
叔父トトンは策略ばかり
甥のジョルは苦しめられっぱなし
だれとも離れるのはむつかしい
ジョルは歌い終わるとあざけるような目でトトンを見た。まるでぼくの答えはまちがっていないでしょう、あなたの心の底を見透かしているでしょう、と言わんばかりだった。
トトンはジョルが機敏で鋭いことがわかった。彼と面と向かうのを恐れ、また話をこじらせるべきでないと考え、彼は作り笑いを浮かべながら言った。
「人生は長いもの。苦しいこともあれば楽しいこともあるだろう。こまかいことにこだわってはいられない。それよりも甥っこよ、馬を見てくれ」
「馬を見る必要はありません。もし叔父さんが玉のような馬を交換したいとおっしゃるなら、話し合う必要があるでしょう。でもそうでないなら、もう話題にすることもないでしょう」
「なんだって?」とトトンは思わず声をあげた。玉のような馬をジョルの野生の馬と交換しようなんて言えるだろうか。
「叔父さんは交換したいのですか」とジョルはじらすように言った。
「甥っこよ、冗談はやめてくれ。玉のようなわが馬はダクロン家の宝。やすやすと人にあげられるものではない」
「玉のような馬は叔父さんの宝です。キャンゴ・ペルポもまた私にとっては宝でしょう? そんなにやすやすと手放すわけにはいかないのです」
「そりゃそうだ。交換というのは双方が願ってこそ成り立つもの。おまえが望まないのなら、その馬をひいて戻るがよかろう」
「ここに用意した贈り物の数々も引き取ってください。このチベットの地には贈答の規則などないようですから。それとも叔父さんは規則を破っているのですか」
そう言うとジョルはキャンゴ・ペルポをひいてその場から去って行った。
トトンは荒くなった息を静めることができなかった。この鬱憤が晴らせる競馬会が待ち遠しかった。
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