チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

16 競馬の会場に集まる群衆。乞食のジョル登場。ネウチュンの予兆夢 

 マルンの花が咲き乱れる美しい緑の草原は、まもなく開催される競馬会をひかえて、活力があふれていた。カッコウやジョカ鳥(雲雀の一種)の歌は、白い絨毯のような雲が浮かぶ宝石のような青い空にこだました。

 競馬会の会場であるタクタン・タモ(sTag thang khra mo)は、人だかりが山をなし、波打つ海のようでもあった。娘たちが日頃まとうことのない色とりどりの晴れ衣装を着て、はしゃいだり、談笑したりするさまは、鮮やかな花のようだった。日頃ラクダのように背を曲げているおじいさんやおばあさんも、新しい衣装を身につけると、若いころのことが思い出されるのか、本当に若返ったかのようだった。

 もちろん群衆のなかでもひときわ目を引いたのは、競技に参加する英雄たちだった。

 長系(チェ系)のセルパ(gSer ba)8部落からは、金帽をかぶる900人の勇者たち。日光が輝くように、金色に輝いている。幼系(チュン系)のムジャン(rMu spyang)8部落からは、金襴緞子の海のような勇者たち。中系(ディン系)のオムブ(’Om bu)6部落からは、青々と広がる麦畑のような勇者たち。*チェ系、チュン系、ディン系はリン国の三大王系。このなかの代表的な「英雄」がリン国三十英雄である。これにはセンロンやトトン、ギャツァ、ときにはケサル自身などの「大物」が含まれることがある。

 さらに右翼に、白い勝利旗をかかげたガ(sGa)部、左翼に、青い麦(ドゥ)が波打つように見えるドゥ(’Bru)部、流れる血の火炎のように見えるタウミツォ(rTa’u mi mtsho)部落、火炎のような珊瑚が輝くタクロン(sTag rong)18大部、四大洲四小洲を形成するようなテンマ12万戸部、乳桶が乳で満ちたかのようなグシアキャ('’Gu zi a skya)6大部、神前に捧げたチーズのような富裕なツァシャン(Tsha zhang)9部、平原に花が満ちているような富裕なキャロ(sKya lo)部、光り輝く雪のようなカルエ(dKar g-yas)万戸15部、黒雲が空を覆ったかのようなナクヨン(Nag g-yon)万戸13部、白い綿羊が並んで草を食んでいるようなマチュ上流(rMa stod)部落や矢が的に刺さったかのようなマチュ下流(rMa smad)部落などがつづく。

 参加しただれもが自分こそは勝利者になれると信じていた。自分こそは大会に勝利し、王位に就けると考えていた。神に祈ればそれが可能だと確信していた。

 タクロン部落の長であるトトンは、自分か息子のトンツェン、あるいはタクロン18部落のだれかが勝利の栄冠を勝ち取るはずだと思った。馬頭明王(ハヤグリーヴァ)の予言によれば、馬頭明王の助けによって彼らが勝つはずである。トトンの「トルコ石の鳥のように飛翔する」駿馬(rta mchog g-yu bya 'phur shes)は、リン国で一番速いのだから、その結果は至極当然といえた。

 老総監ロンツァ・タゲンは、自分が率いる部落が有力ではないとはいえ、十分に成算があった。というのも12年前、パドマサンバヴァから予言を賜っていたからだ。その予言によれば、競馬の大会で勝ち、王座に就くのはジョルにほかならなかった。だからトトンが馬頭明王の予言を受けたと主張していても、真に受けることはなかった。ジョルは競技に勝ち、ドゥクモと結婚することになるだろう。

 しかし肝心のジョルはどこへ行ったのだろう。華々しい行列のなかにジョルの姿はなかった。総監と息子のギャツァは目を皿にして群衆のなかにジョルを探した。

 そのときジョルはドゥクモの家のなかにいて、キャロ・トゥンパ・ギェルツェンの贈答品と祝いの言葉を受け取っていた。


 九宮模様の毛氈を差し上げます。ジョルさまには黄金の玉座として乗っていただきたい。
 花模様の金の鞍を差し上げます。ジョルさまにはまたがって敵国を倒していただきたい。
 如意杖を差し上げます。ジョルさまにはこれで魔物を制圧していただきたい。
 白い法螺で飾った鐙(あぶみ)を差し上げます。ジョルさまにはこれで衆生のために事業を成し遂げていただきたい。
 如意成就の藤製の鞭を差し上げます。ジョルさまにはこれで悪の国王を退け、われらの娘センチャム・ドゥクモのよき夫となっていただきたい。


 これらの祝いの歌を聞くと、ジョルはキャロ家の父と娘の前で神馬に乗り、飛ぶように会場へ向かった。

「ジョルだ!」

 突然神馬に乗ったジョルがさっそうと姿を見せると、群衆にどよめきが走った。最有力の玉鳥馬に乗るタクロン・トンツェンのライバルがついに現れたのである。

 ドゥクモは姉妹とともに群衆のなかにいた。心の中ではうれしくてたまらなかった。馬上のジョルはかつてのみすぼらしい子供ではなかった。

ああ、なんて立派で、美しく、堂々としていること! この人こそ未来の夫、すなわちリン国の国王なのよ! 

 ドゥクモはそう思いながら得意げな表情を浮かべた。まるでもう王妃気取りである。しかし彼女がよく見ると、そこにあるのは夢の王子様のような姿ではなかった。目をこすってもう一度見たが、想像していたジョルではなかった。驚きのあまり彼女は口をぽかんとあけていた。

 これがジョルなの? 

 ジョルが頭にかぶっていたのは、ほころびだらけのつばの広いいびつな羊皮の帽子だった。身にまとっているのは、牛皮をつぎあわせて作った穴だらけの衣だった。はいていたのは、足の指がとびでた汚い皮靴だった。馬上の金の鞍や銀の鐙(あぶみ)も歪み、ボロ雑巾のようになっていた。これでは大会に参加する勇者ではなく、乞食だった。

 このジョルのさまを見たキャロ部落を含むリン国幼系(チュン系)の部落の人々は、かなり落胆してしまった。彼らはみなうなだれてジョルからできるだけ遠ざかろうとした。ジョルのツキがなさそうな貧乏ったらしさがうつってしまいそうだったからだ。ギャツァや総監ロンツァ・タゲンの心中を察して彼らは同情したが、かといってジョルが王座に就くことには疑いの余地がなかったので、余分なことは何もしゃべらず、競馬競技がはじまるのをただじっと見守った。

 ドゥクモは目の前が真っ暗になったように感じた。このボロボロの衣を身にまとった乞食同然の少年が自分の夫になろうとしているなんて、信じたくなかった。しかも男はせむしだった。こんな見てくれの悪い男は見たことがなかった。泣きたい気持ちだった。

 と、そのとき一匹の蜜蜂がやってきて、ドゥクモの耳元で軽快な歌をうたった。彼女ははたと気がついた。そりゃそうだ、この乞食はジョルが変身しただけのことなのだ。変身がジョルの十八番であることを彼女は思い出した。

 トトンはこのジョルを見て喜んでいた。もはや敵ではない。ダクロン家はジョルのことを気にかける必要もないだろう。彼はジョルにたいし、むしろことのほか親しみを覚えるようになっていた。彼は馬頭明王(ハヤグリーヴァ)の予言が正確であったことを確信した。彼はリン国幼系(チュン系)の若者たちが意気阻喪としていると考え、声をかけた。

「兄弟たちよ、準備はいいかな? さあ、気を取り直してがんばろう! 競技を開始しようではないか」

 この言葉の端々に得意げで、傲慢な性格があらわれていた。ジョルがこの重要な局面においてあのざまで、一方のトトンが自信にあふれているのを見て、人々は今日の勝利者はトトンであろうと確信した。

 アユディ山(A yu dil)の麓に各家を代表する勇士たちが会した。法螺貝の号砲が鳴り響き、一斉に馬に乗った彼らは駆けだした。疾走する駿馬たちはひとかたまりの巨大な雲となって緑の草原を移動した。集団の前方に出てきたのは、リン国中にその名が知れ渡った30人の英雄たちだった。

 セルパ、ムジャン、オムブの各部落の勇士は鷹、鷲、狼と呼ばれた。彼らの馬はとても速かったが、空を駆けるというほどではなかった。

 ギャツァを首領とするリン国7勇士は人々を守る7人の豪傑だった。彼らは70万人の大軍を率いた。彼らの馬はとどまることなく、天空に架かる虹のようだった。

 総監ロンツァ・タゲンを首領とする4人の叔父は、リン国の重大な決定にたずさわる長老だった。知識と経験豊かな4人は、カイラース山から流れる四大河のようであり、田畑を潤す大河の水のように国を潤した。彼らの馬は空高く駆け上がり、竜巻のように圧巻だった。

 ナンチュン・ユタク(総監の息子)を首領とするリン国13人衆は、13の矢のごとく魔物と戦った。13頭の馬は濃い雲のように疾走し、大地をとどろかせた。

 強運をもった兄弟であるミチェン・ギェルワ・ルンドゥプとリンチェン・タルベ・ソナム、剛毅な兄弟であるギャプン・ペンデ・マルルとトンプン・タツェ・シェチョク。彼ら4人はリン国の四方の旗であり、テントの四方の縄であり、家の四柱であり、四翼のリーダーである。彼らの馬はガルダのようであり、大空を流星のごとく駆けた。

 キャロ・トゥンパ・ギェルツェンら4人は聖なる幟(のぼり)を持つ4兄弟であり、白獅子の4つの爪だった。彼らは徳における最高位に位置付けられた。人々の尊敬を集め、だれもが彼らの長寿を願った。彼らの馬は軽快に駆け、あたかも天高く昇る青竜のようだった。

 アグ・ツァンギ・ゴルクら美しい3兄弟は花模様を彫った鞘と矢入れのようだった。彼らの馬は雪山のように白く、天空に舞う雪花のように駆けた。

 公証人ウェルマ・ラダルと判定人ワンチェン・ワンボ・ダルペンは意見を最後に取りまとめる責任者であり、会議の決定権を持っていた。善悪の判断はいつも適切だった。ウェルマ・ラダルの馬は「金毛の飛翔」、ダルペンの馬は「黄金(セルボ・セル)馬」と呼ばれた。彼らも大会に参加し、王位を欲した。

 グラザ山から雲か霧のような煙が立ち上っている。13の聖所で杜松(ねず)の葉が焚かれているのだ。お香の煙は天を覆い、神秘的な雰囲気を醸し出していた。法螺貝の音が響き渡り、人々は五体投地をしてはマントラを唱えた。

 アユディ山上はこの運命を決する競馬会を見ようという人々でごったがえしていた。彼らは大会の参加者に負けないくらい緊張していた。そのなかにはもっともきれいに着飾っていた七姉妹も含まれた。彼女らは馬場の微妙な変化も見落とさないようにと目を見開いていた。

 七姉妹のひとりネウチュン・ルグツァヤ(Ne’u chung Lu gu tshar yag)はセンチャム・ドゥクモに言った。

「ドゥクモ姉さん、昨夜私、夢を見たのですけど」

「何小声でひそひそしゃべっているのよ」ドロ・ペカルラゼ(Gro lo pad dkar lha mdzes)が大声でどなった。「私たちにも聞こえるようにしゃべってちょうだい」

「そうよ。私たちにも聞かせて」とほかの姉妹たちも近づいてきた。彼女たちは馬場が遠くてよく見えなかったので、おしゃべりに興じたかったのだ。

 

キャロ氏(sKya lo)、ンゴロ氏(sNgo lo)、そしてドロ氏(Gro lo) 

お金があるときは同族三兄弟と呼ばれ 

お金がないときは同族三奴婢と呼ばれる 

ドゥクモ、ネウチュン、そしてラゼ 

お金があるときは三姉妹と呼ばれ 

お金がないときは三婢女と呼ばれる 

 

「こんな歌だれが聞きたいというの?」とラゼは不平をこぼした。

「ネウチュン、昨夜の夢について歌うのではなかったの?」とドゥクモ。

「あんたたち、そんなに急かさないで。みなさんのご教導がまず必要ですからね!」とネウチュンはいたずらっぽく笑った。

 

昨夜見ました香ばしい夢 

そこはマルン地方のイキ 

ガルダや青竜が天を舞い 

獅子や虎が地上を駆け 

象が奮迅の勢いで走っていました 

空には虹が架かっています 

 

夢に見たのは天をもしのぐ武勇 

その力は大地を静めるほど 

天の果てまで至らず戻ってきて 

地面に至らず宙に浮いたまま 

 

夢に見たのは天の湖の中 

太陽と黒雲が競争し 

強い陽射しが天の果てを照らす 

私ネウチュンは日光を祝福します 

暖かく心地よい日光をほめたたえます 

 

 歌い終えて、ネウチュンは口を閉ざした。

「もう終わり?」とトドンの娘トンツォは言った。「どういう意味かよくわからないわ」

 トンツォには歌の意味がわからなかった。ほかの何人かの娘たちも理解できなかった。ただドゥクモだけがわかっていたが、それを口にすることはなかった。

「みなさまにはご理解できましたかしら」とネウチュンは挑むような顔をした。

「私はわかったような気がしますわ」と総監ロンツァ・タゲンの娘ユドンがしゃしゃりでた。トンツォのように愚鈍でなく、ネウチュンのようなお調子者でなく、かといってドゥクモのように冷静沈着というわけでもなかった。機敏そうにほかの娘たちを見ながら、彼女は歌をよんだ。

 

チュンギュ部落の神、ガルダ 

ディンギュ部落の神、青竜 

チェギュ部落の神、獅子 

ダロン部落の神、虎 

兄弟の神、象 

勇敢さは天空を駆けめぐり 

地上をよく鎮めるでしょう 

神威はこうして現れるのです 

 

ネウチュンの歌った夢では 

勇敢さや本領は十分発揮されません 

駿馬も金座を得ることができません 

黒雲は陽の光を遮り、青空を暗くします 

それは苦行が必要とされることを示しています 

 

激しい太陽の光が天に昇ります 

これはジョルが王座に就くことの予兆です 

光は世界をあまねく照らします 

これはジョルによって衆生が喜ぶことを示します 

光が金色に輝きます 

これはジョルが衆生に幸福をもたらすことを表します 

 

 ユドンが歌い終わるとネウチュンが喜んだだけでなく、ドゥクモもまたうなずいて同意を示した。トンツォだけが獅子のごとく怒り、身体を蛇のようにくねらせた。髪は牛の尾のように天を衝いた。これは本当に怒っているということである。

 リン国のなかで公認されている駿馬といえば、疑う余地なく父親の「玉鳥馬」である。

「このあばずれ女ども! ジョルが王位に就くだと?」と、トンツォは憤懣やることなかった。それでも気を取り戻して彼女はネウチュンに向かって歌った。

 

汚いところじゃ砂埃が飛んで青空を隠す 

青々とした草も香ばしい花もみななくなった 

汚い頭の中は悪知恵ばかり 

善悪を逆にしてしまう 

いかれたお姉さんらは自信過剰気味 

知恵はないし聡明じゃない 

有徳のラマが講話をはじめる前に 

無知な坊主がわめきたてるもの 

学識ある宰相が熟慮する前に 

無知な大臣が勝手にほざいているもの 

主人の好みを知らないのに 

下女が料理を作るようなもの 

家を見たわけでもないのに 

下女がピンはねしていると勝手に想像するようなもの 

三度の食事がどこからやってくるのか知らない 

主人のありがたみのわからない犬のようなもの 

 

 ネウチュンやユドンはトンツォのこの言いがかりのような歌を聞いて唖然とした。その気持ちが理解できなくもなかったが、何と返したらいいか逡巡していると、トンツォはふたたび歌った。

 

あなたはジョルの貧乏ったらしさがいい予兆だなんて言うけれど 

あなたが征服されるだけのこと 

あなたはジョルの苦悩ぶりがいい予兆だなんて言うけれど 

あなたが彼のモノになるという予兆だということ 

あなたは乞食のジョルが神の子だなんて言うけれど 

神の子があなたをモノにして結婚するなんて 

 

 トンツォがどうして怒っているのか火を見るよりあきらかだった。ネウチュンやユドンの予兆夢が彼女を激怒させたのだ。ドゥクモは彼女らの袖を軽く引っ張って、あまり相手にしないようにと伝えた。ネウチュンは口をとがらせて不満げな表情をした。ユドンはドゥクモの狙いを理解したが、余計なはかりごとは必要ないと考えた。大会がはじまれば、おのずから結果が生じ、災いを起こしたトンツォ自身の口を責めることになるだろう。

 だれも彼女の歌に応じないのを見て、トンツォはみなが納得したのだと思い、さらに好き放題に歌った。

 

黄金の王座は玉鳥馬に属します 

センチャム・ドゥクモはトドン王に属します 

キャロ家の財宝はみなロンツァン家のものとなります 

リン国はわが父上の配下となります 

 

いっぱしの男も、雄馬も、雄牛(ゾ)も 

外見は不細工でも、中身は才能あふれるなんてこと、ありえますか? 

青菜の葉のなかがからっぽなら 

どんなに噛んでもおなかを満たすことはできません 

 

外見は流れ者の乞食 

中身を見ればおなかの皮の下は空洞があるのみ 

ジョルの馬はネズミのよう 

走るというより這いつくばるかのよう 

 

男たちの後ろでメシをつつく落ちこぼれ 

まるでゾウムシが鼻をかかげているかのよう 

錦の旗は参加者で一番少ないけれど 

ジョルはかならず手に入れるでしょう 

 

 トンツォの罵詈雑言の歌に人々は辟易としたが、ネウチュンとユドンの顔は上気していた。ただドゥクモだけは冷静沈着で、かすかに笑みを浮かべ、会場のほうを仔細に観察していた。

 馬場ではすでに競技がはじまっていた。トドンが乗る玉鳥馬は先頭を走り、ジョルが乗るキャンゴ・ペルポは最後尾だった。ここでギャツァが鞭をふるうと、ジョルを見やりながら一挙に前方へ抜け出した。ジョルは気にかけず、最後尾から見た光景をむしろ楽しんでいた。

 

⇒ つぎ 




汚くて醜いジョルは競馬に参加し、並み居る英雄たちを一挙に抜こうとしていた。



着飾った英雄たちが参加した競馬は壮麗だった 



ドゥクモをはじめとする女たちは丘(アユディ山)の上から競馬の様子を見守った 



チベット人は現在も競馬が好き(ラダック) 


勝利者を美女たちが祝福する様子は、ケサル王物語を彷彿とさせる