チベットの英雄叙事詩　

ケサル王物語　

21　　メサ妃が北の魔王にさらわれる。取り返しに出発するもドゥクモが邪魔をする　

「ケサル大王さま、たいへんです、メサ妃さまが黒い妖魔に連れ去られてしまいました！　空中を飛び去っていきました！　大王さま、早くリンへお戻りください」

　ケサルの修行も最終日を迎えていた。下女が息を切らしながら寺に走ってきて、そう伝えたのである。ケサルはすぐに馬に乗り、黒い妖魔を追いかけようとすると、天の叔母ナムメン・カルモの歌声が聞こえてきた。

雪山の頂に住む雪獅子よ　

もし玉の鬣（たてがみ）を生やすなら　

けっして平原に降りてはいけません、山にいなさい　

森の中に住むまだらの虎よ　

もし花の紋様を増やすなら　

けっして外に出てはいけません、洞穴にいなさい　

深海の底に住む金眼魚よ　

もし甲羅のような鱗（うろこ）を生やすなら　

けっして岸に近づいてはいけません、海にいなさい　

われはそなたに警告をした　

閉関修法にメサを連れていけと　

そなたはわが忠告を聞きませんでした　

わが言葉を聞き流したのです　

そなたは黒い妖魔を倒さねばなりません　

しかしいまはまだそのときではないのです　

あわてて戻る必要はありません　

修練を積んで知恵と勇気を得て戦いに備えなさい　

　天の叔母の言葉を聞いて後悔するも、時すでに遅し。いまから追いかけても追いつけないだろう。しかし追いかけないのもくやしい話だった。うれしいはずもなく、笑顔はなかった。天の叔母の言葉はもっともで、黒い妖魔を倒すには、決断力と勇気が必要だった。降魔法を修得し、武芸を磨き、メサを取り返すタイミングをはかるべきだろう。

　メサを連れ去った妖魔とはだれのことだろうか。ケサルが閉関修法をしていることを、妖魔はどうやって知ったのだろうか。その鍵を握るのはトドンだった。

　北方にヤルカム（Yar-khams）という魔国があった。国には８つの山と４つの鬼門があった。平原の中央に９つの尖塔をもった魔宮があった。メサを連れ去った黒い妖魔ルツェンはこの魔宮に住んでいた。

　この凶悪な魔王は、山のように大きく、９つの頭部を持ち、それぞれに１８の角が生えていた。身体の表面には埋め尽くすように黒い毒サソリが這っていた。腰回りには９匹の毒蛇がまとわりついていた。手と足には四九三十六の鉄のフックのような鉄の爪が生えていた。それは鷹の爪よりも硬く、鋭利だった。魔王は、うれしいときは怒りに満ちた、殺気立った顔をし、怒ったときは口と鼻から息を噴出した。口からの呼気は噴火したときの火山の煙のようだった。鼻からの呼気は荒れ狂う暴風のようだった。

　魔王のまわりには妖臣や奴婢が集まっていた。つまり外大臣の犬口羊牙、内大臣の飲血魔童、使節代表の長翅烏、総務大臣の黒尾雄狼、女シャーマンの遍知無謬、女奴婢の花牙婢女、侍候読経役の老婆、さらには霊力をもつ２９人のボン教シャーマンらである。

　また特別席には黒魔王の父である黒大力士と魔王の妹アタラモがいた。

ケサル閉関修法の第7日目、　黒魔王が座していると、トドンからの使者が手紙をもってやってきた。そこにはリン国の内情が書いてあった。ケサルは閉関の修法に入り、愛妃メサは家にとどまっている、侵入するならいまがチャンスであるとその手紙は説いていたのだ。

　黒魔王は喜びのあまり牙をむきだして笑った。リン国には１３人の王妃がいるが、ドゥクモを除くとメサがもっとも美しかった。魔王はしとやかで美しいメサの姿を思い浮かべていた。あの姿はルツェンに属すべきだと魔王は思った。そう考えると居てもたってもいられなくなった。黒雲を呼び寄せると、それに乗り、妖臣、魔将を引き連れてメサを奪うべくリン国へと向かったのである。ケサルがこのことを知ったときには、ルツェンはすでにメサを奪って魔国に戻ってきていたのである。

　ケサルは天の叔母ナムメン・カルモの予言にしたがって、降魔の呪術と武芸を修練した。ある日天母は五彩の雲に乗ってケサルの近くに飛んでくると、降魔のときがやってきたと告げた。ケサルはすみやかに北の魔国へ向かわねばならない。ケサルはドゥクモを探し出し、天の叔母の思し召しを伝えた。

雪山の上方に水晶宮あり　

雪山の獅子には緑の鬣（たてがみ）あり　

雪獅子は百獣の王　

降魔の大英雄　

見上げれば中空にも　

青竜がいかめしく吼えている　

もし青竜を倒せず、命を落としたなら　

緑の鬣（たてがみ）も白髪になるだろう　

白檀の香りの緑の森あり　

火炎のごときまだら紋様の猛虎あり　

それは四つ爪の獣の王　

花紋は燦然と輝く　

下の村を見れば　

尾の長い犬があり　

もし犬を倒せず、命を落としたなら　

６種のまだら紋が恥ずかしい　

リンのセンチャム・タクツェ宮に　

獅子王の金色の甲冑が光り輝く　

そなたは世間衆生王　

よく四魔を制圧した英雄　

そなたには魔国を見よ　

命尽きるのは老いた魔王ルツェン　

もし敵を倒せず、命を落としたなら　

黄金の甲冑を身につけたとて面目ない　

「ドゥクモよ、わが愛妃よ、私はこれから北方の魔国へ行かねばならない。留守の間、家のことは頼むぞ」

　ケサルはそう言うと、颯爽と愛馬キャンゴ・ペルポに乗り出発しようとしたが、ドゥクモは手綱を引いて止めた。

「大王さま、わがいとしの人！　雪山の白獅子の輝きのような力をお見せください。森の花紋様の虎の威風をお見せください。獅子大王は世間衆生の大王です。われらリンの威風を示してやってください。それが天母さまの思し召しでしょう。しかしそんなにあわてないでください。甘い食事を食べ、お酒を飲んでください。途中でおなかをすかしたり、喉の渇きを覚えたりしませんように」

　言い終わると、ドゥクモはケサルが馬から降りるのを助け、自分で作った甘い食事とお酒を献上した。ケサルはどうやったら知りえただろうか。ドゥクモは大王をとどめるために酒のなかに忘れ薬を入れたのだった。ケサルが食べて飲み終わる頃、薬が効き始めた。ケサルは倒れこむように眠った。北の魔国のことなどすっかり忘れてしまった。

　どれだけ時間がたったのだろうか。満月の夜、天の叔母ナムメン・カルモが現れた。このときケサルとドゥクモは仲良くベッドの上に寝ていた。天母はケサルの耳元でささやいた。

「ケサルよ、獅子王よ。静かにすごしている場合じゃありませんよ。今日は降魔の日です。メサを救うことを忘れてはなりません。もしまた遅れるようなことがあったら、降魔どころか、妖魔にだまされてしまうでしょう」

　ケサルが身を起こすと、天の叔母はすでに彩雲に乗って去ったあとだった。しかし天の叔母の歌はまだ耳に残っていた。

白雪山の獅子王よ　

緑の鬣（たてがみ）が勢いを示す　

森の中のまだら紋の虎よ　

まだら紋は満悦を示す　

大海の底の金眼魚よ　

六鰭は豊かさを示す　

タクツェ宮の獅子王よ　

英断と武勇を示す　

今日のことをまた聞き入れないなら　　

リンの衆生に災難をもたらすだろう　

　ケサルは眼球をこすって天母が言ったことを思い出そうとした。これも何も酒の飲みすぎがいけなかったのだ。横にはドゥクモがすやすやと眠っていた。彼女を起こさないで自分だけ起きて出発しよう。ケサルは侍女のアチュンキとリチュンキを呼んだ。彼女らには水を運ばせ、茶を作らせた。また侍女に大臣らを招集させ、緊急に兵を北へ送るべきかどうかについて話し合いをすることにした。

　アチュンとネウチュンは水を運んできて、茶を作った。その炎は猛虎が飛ぶように、鞴（ふいご）の音は野牛の叫びのようだった。煙は彩雲のように、茶の香気は暁の霧のようだった。ふたりは薪のくべ方とコツをよく知っていた。灌木の枝はカラス、すなわち積み上げて焼くべし。棘の枝は魔人、すなわち圧して焼くべし。羊の糞は餓鬼、すなわち撒いて焼くべし。たきぎは英雄、すなわちうず高く山盛りして焼くべし。杜松の枝は友人、すなわち選りすぐって焼くべし。麦の茎は青年、すなわちならべて焼くべし。アチュンとネウチュンキは勢いのある火を得ることができ、いいお茶を作ったので、茶の香りが台所に充満した。

　ドゥクモもようやく目を覚ました。侍女たちが忙しそうに働いていて、ケサルの姿が見えなかったので、何が起こったのだろうかといぶかしく思った。ケサルが部屋に入ってきて、彼女が目覚めているのを見ると、強い口調で言った。

「ドゥクモよ、そなたは宝庫へ行って扉を開いてくれ。そしてわが勝利の白兜を取り出してくれ。わが世界マントを取り出してくれ。それによって世界を三度震わせるだろう。刀部が赤く柄が白い水晶刀を取り出してくれ。また９万神の矢を持ってきてくれ。それらがそろったら、牛角の弓、硬い盾、金の鞍、銀の鐙（あぶみ）を準備してくれ」

　ドゥクモは何もしゃべらなかった。ケサルが出征しようとしているのはあきらかだった。前回は酒を飲ましたが、今回はそういうふうにうまくいきそうもない。ではどうしたらいいだろうか。魔国に行かせないために、何かいい手段はないだろうか。そうドゥクモはあれこれと考えた。宝庫からケサルが要望したものを持ってこなければならないのか。

　侍女マレキキは白水晶山の山頂に登り、神のためにお香を焚いた。そしてキ、キ、と叫んで神を呼んだ。それからほどなくして、３０人の英雄、１１人の王妃、および大臣や民衆の多くが広場に集まった。

　ケサルは民衆を前にして、これから北方の魔国へ行き、ルツェンを攻めるということを宣言した。リンを守備するために、ギャツァ・シェカルを王代理に任命した。

　みなが納得してうなずいた。ケサルはキャンゴ・ペルポにまたがり、さあ出発しようというとき、ドゥクモを見た。しかし彼女が浮かない顔をしていたので、ケサルは馬から降りた。王妃の両手を握り、ケサルはやさしく言った。

「ドゥクモよ、愛する王妃よ、いまおまえと別れなければならない。私もつらいのだ。北へ行って魔王を倒すのは、生まれる前から決まっていたことなのだ。王妃はあせる必要はない。家にいて母上の世話をしてくれ。リンの国のことはそなたが切り盛りすることもたくさんあるだろう」

　ドゥクモは目に涙をいっぱいためた。そこへアチュンが酒をもってきた。

「大王さま、どうかこのお酒を飲んでください」

偉大な人はこの酒を飲みます　

心は天のごとく広くなります　

気弱な人もこの酒を飲みます　

ひとりで歩いていても怖くありません　

英雄勇者もこの酒を飲みます　

戦場で勇ましく敵を殺します　

この酒を天神に捧げます　

甲冑の力を高め、城を守ります　

この酒を右のニェン神に捧げます　

右手の力を強め、弓を射る力が増します　

この酒を左のル（竜）神に捧げます　

左手の力を強め、矢を射る力が増します　

これは大王さま御用達のお酒　

これは憂える人が安心するためのお酒　

楽しい歌をうたうためのお酒　

激しく踊り、舞うためのお酒　

大王さま、一碗この酒を飲んでください　

ドゥクモは勧めます、大王さまが行かないことを　　

　ドゥクモの目にあふれそうな涙を、そしてその手に持った美酒を見ても、ケサルは酒を飲もうとはしなかった。彼は耐え忍ぶかのように言った。

「ドゥクモよ、われらふたりとも天からリンへ降りてきた者である。上には天神がいて使者を送り、中間にはニェン神がいて誓願を発し、下にはル神がいて誓約をたてる。いま天の叔母がやってきて天神の思し召しを伝えてくれました。私は北方へ行って妖魔を倒さなければならないのです。もし神の意志に反したら、われわれは永遠に別れることになってしまいます。王妃よ、私が出征するのを見守ってほしい」

　ケサルの言葉を聞いて涙がドゥクモのバラ色の頬を伝った。それはまるで梨の花に露が落ちたかのようだった。彼女は上品で、あでやかだった。しかしその語気には憂いがあり、また怨みがあった。

「大王さま、チベットにはこんなことわざがあります。雪山ではとどまらず、遠くへ行きたがる。では、白獅子はどこに住んでいるのですか。海の中ではとどまらず、遠くへ行きたがる。では、金眼魚はどこに住んでいるのですか。森の中ではとどまらず、遠くへ行きたがる。では、花鹿はどこに住んでいるのですか。リンの大王はとどまらず、遠くへいきたがる。ではドゥクモはどこにいるべきなのですか」

「ドゥクモよ、雪山では遠くへ行っても手のひらほどの空間があれば、白獅子はそこに住めるのだ。海では遠くへ行っても手鏡ほどの空間があれば、金眼魚はそこに住めるんだよ。森の中では、遠くへ行っても鞍ほどの草木があれば、花鹿はそこで住めるのだ。王である私が遠くへ行っても、ギャツァがいるから大丈夫だ。ドゥクモはギャツァを頼りにすればいい」

　ドゥクモはケサルの心を動かせなかったことを自覚した。

「私には宝衣があります。また箱の中には金銀の腕輪があります。もし大王さまがリンにいらっしゃるなら、私はこれらを身につけます。もし出征なさるのであれば、火打石で火を作り、燃やしてしまいます」

　ケサルはドゥクモが怒っていることを感じ取り、不愉快になった。

「神の言葉をおまえは聞こうとしない。聞こうとしないなら、もうおまえを説得しようとも思わない。手をはなしてくれ。私は行くぞ」

　ドゥクモは握っていた手綱をはなすどころか、強く引っ張った。怒りは激怒に変わったのだ。

「よき国王というのは臣民を喜ばせるものです！　よくない国王というのは自分をもだますものです！　最初３人の王が私と結婚したいと申し出てきました。私は１００人のなかからあなたを選んだのです！　あなたは穴があいたボロボロの靴をはいていました。頭にもほころびだらけのヘンチクリンな帽子をかぶっていました。体にはつぎはぎだらけのきたない布をまとっていました。それを見てかわいそうだと思ったのです！　いまの私は路辺の石のようなものです。あなたにしたがって、つまずきながらここまできました。もしあなたが私を王妃としてまだ認めてくれるなら、ここにとどまってください」

　ドゥクモの薄情な物言いが火に油をそそぐことになった。

「わかったよ、センチャム・ドゥクモ。もとよりおまえは、乳のように色白で茶のように頬の赤い美人だ。だがそれはうわべにすぎぬ。内側は心根の腐った毒のような女だ。こんな滅茶苦茶な女をだれが必要とする？もう勝手にすればよい！」

　そう言い放つと、ケサルはドゥクモの話をそれ以上聞こうとせず、馬に鞭打って走り去ろうとした。それでもドゥクモは手綱を放そうとしなかったので、キャンゴ・ペルポの後ろ脚に蹴られて遠くに飛ばされてしまった。ドゥクモは怒りにふるえながら、意識を失っていった。

　ケサル大王の姿がぼんやりと見える。その顔は十五夜の月のようにまん丸くて白い。その両頬は珊瑚のように赤い。その両目は暁に現れた明星のよう。歯はつらなる玉のよう。身体はそびえたつ須弥山のよう。シルクのような慈しみの心。声は玉笛の音色のよう。ドゥクモは目をゆっくりと開いた。

　しかしそこにケサルの姿はなかった。ただ周囲からいっせいに声があがっただけである。

「王妃が目覚めた！」「ああ、やっと目をおあけになったぞ！」

　見守っていたほかの王妃たちは、ドゥクモが目覚めるとお茶やごはんを忙しく作り始めた。しかしケサルの姿が見えないので、ドゥクモは王妃たちを下がらせ、侍女のアチュンとネウチュンをそばに呼んだ。

「王妃さま、何なりとお申し付けください」

　ドゥクモは、ふたりの侍女の姿が見えず、声も聴けないかのように、自分の感傷的な歌を歌い始めた。

山に白雪はなく、枯れ山になりました　

山に住む白獅子も不安でいっぱいです　

泉の水も涸れ、泥濘になりました　

金眼魚も不吉な思いでいっぱいです　

森はなくなり、茅（かや）の原になりました　

虎の心はかき乱されています　

リンの大王さまは、リンの国からいなくなりました　

ドゥクモの心は憂いに満ちています　

　ドゥクモは軽やかに歌っているけれど、アチュンとネウチュンは真剣に聴いていた。彼女たちは王妃のことを心配していたので、王妃の憂いがどうしたら晴れるか必死に考えていたのだ。どうしたらいいか、わからないでいると、ドゥクモが言った。

「アチュン、ネウチュンよ、私のかわりに馬の準備を整えておくれ。大王さまなしに、ここで生きていくことはできないんだよ。大王さまを追って私も北方の魔国へ行くよ。たとえどんなに遠くて、どんなに苦しくても……」

「そんなこと、おっしゃっても」とふたりは顔を見合わせたが、ドゥクモが恐い顔をしていたので、触らぬ神にたたりなしといったふうで、そそくさと馬の準備に取りかかった。

　ドゥクモの意志は固かった。ふたりの侍女が準備を進める間、彼女はおなかを満たした。準備ができると、すぐに王宮を出て、後ろを振り返ることもなく、大王が向かった北方へと馬を進めた。

　ドゥクモは休むことなく馬を走らせ、いくつもの山を越え、谷を渡り、ついには北方のナタゴンという水草の生い茂った岸辺でケサルに追いついた。獅子王はまさにここで休息を取り、愛馬キャンゴ・ペルポは青草を食んでいるところだった。ケサルはすっかりくつろいで、丸くなって眠っていた。ドゥクモはケサルの前に立ち、それから喉のあたりにしがみつくように抱き着き、泣きながら語りかけた。

「ああ大王さま、あなたはなんてひどい人なのかしら。私ひとりをリンに置き去りにするなんて！　頼りになる人もなく、力もなく、気心の知れた人もいないのに、どうしろというのでしょう。大王さま、もし北方へ行くとおっしゃるのなら、私もつれていってください。大王さま！　聞いていらっしゃる？　起きてください！」

　ケサルは早くに目覚めていたが、ドゥクモが泣きわめくので、せつない気分になっていた。ドゥクモと結婚して３年の月日が流れていた。その間ふたりの関係はうまくいっていた。北方の妖魔と戦うのに最低でも半年、長ければ一年を費やすだろう。その間、ひとりでどんな生活を送ることになるのか。胸にしがみついているドゥクモのことを考えながら、北方につれていくのも悪くないかな、と思い始めた。そう彼女に言うと、彼女は喜び、また激しく泣き、それから旅の疲れが出たのか、心地よい寝息をたてはじめた。

　ケサルはその幸せそうな顔をながめ、頬を伝った涙をぬぐい、それから額をやさしく撫でながら、どうやってドゥクモを北方へ連れて行って、妖魔と戦うことができるだろうかと考えた。

　しばらくすると突然、空中に音楽が流れ、天の叔母ナムメン・カルモが彩雲に乗って現れた。彼女はケサルに向かって歌い始めた。

白雪山の麓に二頭の獅子がいます　

一頭は山を離れて出征したいと考えています　

もう一頭は水晶洞窟を守りたいと考えています　

天上には二匹の青竜がいます　

一匹は天を出て雷を落としたいと考えています　

もう一匹は雲の間を守りたいと考えています　

そびえる高山に二頭の野牛がいます　

一頭の赤い角の野牛は遠出をしようとしています　

もう一頭は陰山と陽山を守護しようと考えています　

赤い岩の上に二羽の胸が白い鷹がいます　

一羽は空高く飛びたいと考えています　

もう一羽は巣の周辺を守りたいと考えています　

森の中に二頭の花紋の虎がいます　

一頭は林の縁で盗み食いしようと考えています　

もう一頭は洞穴を守りたいと考えています　

海の底に二匹の金眼魚がいます　

一匹は鰭を必死に動かし、岸へ近づこうと考えています　

もう一匹は深海を守ろうと考えています　

リンの大王と王妃　

大王は四魔を倒そうと出征します　

王妃は家を守ろうとしています　

　天の叔母の歌を聞いて、妖魔を倒すためにドゥクモを連れていくべきではないとケサルは納得した。しかしドゥクモをどうしたらいいだろうか。天の叔母はケサルの気持ちを汲み取り、助言を与えた。

「勇者たる者、そんな軟弱であってはなりませぬ。くよくよと悩むことはないのです。ドゥクモが熟睡している間に出発なさいませ。ドゥクモがどうやって帰るかは、私に任せなさい」

　ケサルは天の叔母の話を聞くと、心を鬼にして、ドゥクモを大きな平たい石の上に置き去りにしたまま、馬に乗って出発した。

　ドゥクモはとても疲れていたが、ケサルが彼女を魔国へ連れて行くと言明したので、心は落ち着いていた。眠っているときも特別な香りを感じていた。それが気持ちを落ち着かせた。しかし目覚めたときにはケサルの姿がなかった。またこっそりと出発したのだ。ドゥクモはふたたび馬に乗り、ケサルのあとを追った。

　どれほど走っただろうか。ドゥクモの面前には大河が横たわっていた。対岸には冠をかぶり、袈裟を着たゲシェ（学者僧）がお香を焚いて儀礼を行っていた。河の上流側を見ても下流側を見ても、渡し場がなかったので、彼女は大声でゲシェにたずねた。

「すいません、ゲシェさま。この河を渡った一行のこと、ご存じありませんか」

「はて、どんな一行かな」

「白の渦巻き紋が入った紫の衣を着て、リンの金の甲冑をつけた武将です。その人は千里を走る馬に乗っています」

「おお、見たぞ、見たぞ。その人はもうとっくに遠くへ行っただろう。お嬢さんには追いつけないだろう」

「いえ、その人は私の夫ですから。追いつかないといけないのです」

「お嬢さん、ここは黒魔の谷という場所だ。ここの湖は魂が宿る湖なのだ。けがれた場所なのだよ、お嬢さんは近づかないほうがいい。それにこの河を渡る方法なんてないからね」

　ゲシェの話を聞いて無力感に襲われた。しかしここまで来て引き返すわけにもいかない。彼女はゲシェに言った。

「道理を知るゲシェさま、どうか私を助けてください。お願いしたいのはたったひとつだけ。大王さまに伝えていただきたいのです」

大王さまは私にお約束なさいました　

渡しを絶対に捨てたりしないと　

口でそうおっしゃいました　

紙の上にもそう書かれました　

石の上にもそう刻みました　

渡しはただ一心に大王さまのことを恋慕しているのです　

それなのに大王さまは冷たく私を捨てました　

この世ではもう縁は切れたのでしょうか　

来世は天でお目見えしたく存じます　

この娘が申したことを忘れないで伝えてください　

大王さまにお会いになったらかならず伝えてください　

ドゥクモは歌い終わると、対岸のゲシェのほうを見た。大河は広く、水は滔々と流れていた。彼女は大きなため息をつくと、馬の向きを変え、帰路についた。

　このゲシェはケサルの変化（へんげ）だった。ドゥクモの話を聞いてケサルの心は重くなった。リンまでの遠い道をひとりで無事に帰れるだろうか。

⇒　つぎ　　