チベットの英雄叙事詩
ケサル王物語
22
ドゥクモが遠くに去っていく姿を見ると、ケサルは気持ちを抑えるのがむつかしかった。リンまでの道は遠く、無人地帯がつづいた。女ひとりでいったいどんな事態が起こるかもわからなかった。しかしケサルにできることは何もなかった。
ケサルは北方へ行き、さらわれたメサ妃を救出しなければならなかった。もしメサを救い出す前にドゥクモにもしものことがあったらどうしよう、とケサルは考えた。心痛はいかばかりだろうか。ドゥクモのいいところばかりが浮かんできた。思い断ちがたく、ケサルの口をついて憂愁の歌が出てきた。
われは妖魔を倒すために荒野を行く
王妃ドゥクモはひとりリンに戻っていった
北方の風は骨に刺さるほどの冷たさ
見ればすでに太陽は山の端に隠れてしまった
ドゥクモの衣は絹よりさらに薄いのに
雪まじりの寒風は彼女を凍らせるだろう
無人の草原はどこまでもつづく
母鹿のつんざく声に彼女はおびえる
高くそびえる岩山の上で
野牛の声にも彼女は飛び上がる
何とじれったいものだろう。格言にも言うではないか。
正しい道を示す善人は少ない。
心を乱さない修行者は少ない。
いつまでも恥を知る友人は少ない。
売買に正直な商人は少ない。
信仰に揺るぎのない弟子は少ない。
仲睦まじい夫婦は少ない。
ドゥクモを妃として以来3年の月日が流れた。メサ妃を救って、ドゥクモも見捨てないという両立はむつかしいことなのだろうか。
ケサルは歌っては思案し、思案しては歌った。リンに戻るという考えも一瞬頭によぎった。ドゥクモのことが心配だった。彼女が癇癪を起したとはいえ、それも薄情なことを言ってしまったから。それは深い愛情の現れだろう。
「トゥパ・ガワよ!」そのとき空中から声が聞こえた。「おまえは天界の誓いを忘れているんじゃないかい?」
そのやさしくも威厳のある声の主は、もちろん天の叔母ナムメン・カルモだった。ケサルが危機に直面するたびに天の叔母は現れ、予言を与えるか、教えを賜い、困難を乗り越える手助けをした。
「おまえが北方の魔国へ行くのは、メサを救出するためだけかい? そんなことはないだろう! 妖魔を倒し、衆生を救うのが目的だろう。それがおまえの誓ったことであり、天神から与えられた使命であろう! 衆生はおまえに希望を抱いておる。おまえは戻ることなんてできないし、さまようことは許されないし、進むしかないのだ。ドゥクモはわたしが守っているし、おまえの守護神でもある七兄弟もまた警護しているから、心配にはおよばないのだ」
天の叔母の話は雷鳴のようにとどろき、ケサルははっと目覚めた。たしかに魔王ルツェンを倒さずに、リンに戻るわけにはいかないのだ。
ケサルは地面に這いつくばりながら天に祈り、天の叔母に深く感謝した。そしてみずから誓いをたてた。
リンの獅子王ケサルとはわれのこと
人を害す黒い妖魔を倒すのがわが使命
稲妻のごとき矢をわれは放つ
妖魔の頭に当て、その血を飲み干す
妖魔の命の根を断たねばならぬ
衆生を魔の洞窟から救出せねばならぬ
歌い終わると、ケサルは馬に乗り、北へ向けて走っていった。以前に増して力強く疾駆した。ドゥクモへの思いを力に変えたのだ。一年の行程をひと月で、ひと月の行程を一日で、一日の行程を食事の時間ほどに速めることができた。
ケサルは山をいくつも越え、谷をいくつも渡った。ケサルは夕暮れ時、心臓のような形の山の前に着いた。山頂には四角い要塞のような城があった。四方の壁には死体で作った幟が掲げられ、人を震え上がらせた。ケサルはここが妖魔の城に違いないと思ったが、夜、どこかに泊まらなければならないので、城の前で馬を降りた。そして門を叩いた。
重い門がギイイと音を立て、ゆっくりと開けられると、わずかな隙間から天女かと思われるような美しい女性が出てきた。挨拶の言葉もなく歌をうたいはじめた。
死を探す人は羅刹の前にやってきます
死を探す虫は蟻塚の横にやってきます
門の前のお方は、いずこよりやってきたのか
天神さまが私に平らげるよう贈った夕飯かしら
歌い終わった女は目をぱちくりとさせた。
「あんたが門を叩いた人だね? いったい何の用があって魔国に来たのかい? 見るところ普通の人じゃないね。いい男だし、しばらくは殺さないでおこうか。ルツェンさまに見せないといけないからね。でも逃げるんだったら、とっとと行きな!」
ケサルは逃げる気はなかった。
妖魔を倒す人は羅刹を探しにやってきます
蟻を食べたい虫は蟻塚にやってきます
獅子王ケサル、それはわれ
まずはおまえ、魔女から平らげよう!
そう歌うと、ケサルは一歩前に出て、女の襟首をつかんだ。それから女を放り投げると、彼女が身につけていた飾り物の金銀宝石が地面に散乱した。ケサルは倒れた女の胸元に自分の膝当てを押し付け、腰から水晶刀を抜いた。
怒りに燃えるわれは魔王を倒す
魔女のおまえにも死期がやってきた
天高く舞う赤い神鳥ガルダ
下界の卑しい黒竜(ナーガ)を腹いっぱい食べる
雪山の頂上に立つ勇敢な獅子
南方の玉竜を降伏させる
四爪山にはまだら模様の虎
あまたの野獣をいいなりにさせる
大海中の大魚
海中のすべての魚を食べつくす
わが手には水晶刀あり
おまえの心臓を一刺しだ
ケサルは刀の切っ先を魔女の喉にあてた。
「おまえはどこのだれだ? 魔王ルツェンはどこにいる?」
刀を喉に当てられた魔女は、すっかり戦意を喪失した。
「わたしは北方の魔女で、アタラモと申します。魔王ルツェンはわたしの兄です。ここはリン国と魔国が境を接するところ。兄はわたしに辺境を防衛するよう命じたのです。ケサル大王よ、あなたの名声はここまで響いてきています。南贍部洲中の水竜があなたの名を唱えています。竜の声が心にしみてくるほどです。ケサル大王さま、娘はあなたに心を奪われてしまいました」
ケサルはアタラモの言葉を聞いて刀を鞘におさめた。
「おまえは私が魔王ルツェンを倒しに行くのを手伝ってくれるのか」
「大王さま、何なりと命令してください」
「だが魔王はおまえの兄なのだろう?」
「そうです。そうですけど、魔国の暮らしにはうんざりしていました。もし大王さまがおいやでなかったら、一生大王さまの伴侶でいたいと思います。大王さまにはこの鉄城の領主になってもらいたいのです。お口がさびしいことはありません。とてもおいしいお茶や酒があります。お身体がさびしいことはありません。白絹の帳(とばり)がありますから。お心がさびしいことはありません。わたしアタラモが慰めてさしあげますから」
ケサルはアタラモの心優しさに感動した。しかし何よりもその外見の美しさに惹かれたのだった。その肌は玉のようになめらかできれいだった。その姿はあだっぽく、形よかった。そして花が閉じたかのようなしおらしさ。そんな美しい女に心を動かされずにいられるだろうか。
ケサルとアタラモはこうして契りを結んだ。毎日、朝から晩まで、寝るときも、食べるときも、ふたりはいつもぴったりとくっついて離れなかった。外に出るのはケサルが馬に乗って猟をするときだけで、このときもアタラモは離れず近くにいた。城に戻ると、アタラモはケサルのために歌い、踊った。こうして夢中になっているうちに、めくるめくような月日が流れていった。
ある日突然、ケサルは魔王を倒していないことに気がついた。魔王が健在なのに、安穏としていられるだろうか。それにアタラモが魔王を逃がさないだろうか。もし彼女の助けがなかったら、魔王ルツェンを倒すのは容易ではないだろう。ケサルは悶々として悩み、すべてが楽しくなくなった。頭のいいアタラモは、しかしよく見ていた。ケサルの心の変化を察知し、魔王を倒しに行くよう促したのである。
ある日アタラモは宴席を設けた。ケサルはいぶかしく思ってたずねた。
「妃よ、このめでたい宴席は何なのか」
「大王さまの出征を祝う酒宴でございます」
「出征?」
「そうです。魔王ルツェンを除かずに、大王さまが安心してここに住めるでしょうか。今日は大王さまのために、ルツェンの退治法を教えてさしあげましょう。これで勝利は大王さまのものです」
「ああ、さすがはわが妃だ……」とケサルは感動のあまり言葉を発することができなかった。アタラモがここまで理性的であることに驚いた。この面ではドゥクモよりもずっと上だろう。ケサルは北方へ行くのを何度もドゥクモに邪魔されたことを思い出していた。
「大王さま、北の魔国へ行く道の途中には魔物がたくさんいます。さまざまな困難が待ち受けているでしょう。どうかこの指輪をもっていてください。もしものときに役に立つでしょう」
アタラモは自分の指から指輪をはずし、ケサルに渡した。そして半日にもわたって彼女はケサルの耳元でささやきつづけた。魔王を倒すための秘策を伝授したのである。
⇒ つぎ