チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

30  ケサル、ホル三王を殺し、勝利する 


 センチャム・ドゥクモ王妃がホル国に来てから3年の月日が流れた。どうしようもない状況下で、彼女はクルカル王の王妃になり、子供をもうけた。

 ある日クルカル王と王妃は赤子を抱いて王宮のもっとも高いところで遊んでいた。ドゥクモが目を上げると、遠くにボロボロの服を着た流れ者の姿が見えた。男は猿を連れて王宮に向って歩いてきた。ドゥクモはクルカル王に言った。

「大王さま、あの猿回しを宮中に呼んで遊びましょう」

 クルカル王(白テント王)とクルセル王(黄テント王)、クルナク王(黒テント王)の三兄弟はみな、「寄魂牛」の角が切り落とされて以来、重い病に伏せていた。医師から薬をもらい、天神に祈るようになってから、クルカル王の病状は快方に向かい、王妃や王子とともに遊び、談笑するまでによくなっていた。セルカル王やセルナク王の病状もよくなっていたが、起き上がって動き回るほどには回復していなかった。思ったように病が癒えず、クルカル王の心は冬の空のようにどんより重かった。そんなおり、猿回しが来たと聞いたので、彼は心を開いて宮中に呼ぶことを決めた。

 年をとった猿回しは宮中に呼ばれ、芸を披露した。それを見たクルカル王は大笑いし、王子も無邪気にキャッ、キャッと笑って喜んだ。クルカル王は侍女に命じて猿回しのためにごちそうを運ばせ、またお金を渡した。老いぼれ猿回しはお金をもらうとその場から離れようとしたが、王子はもっと見たがった。クルカル王はドゥクモに言って猿回しを王子にもうすこし見させ、自分自身は奥にもどって休むことにした。

 ドゥクモは猿回しが各地を回ってきたと聞いたので、それならリン国やもしかすると北の魔国のことを知っているかと思い、彼に近づいた。クルカル王が近くにいると質問するわけにもいかなかったので、王がいなくなるのを待っていたのだ。

「旅芸人さん、猿の芸、とてもよかったわ。食べ物も、報酬も十分だったかしら。ところであなたに聞きたいことがあるの。もしこたえてくれたら、百年分の食べ物、百年分の着るものをあげるわ」

 老いぼれ乞食は皺(しわ)を寄せて笑顔を作って答えた。

「なんでもお答えしますだ」

「あなたが東のほうへ行ったとき、二つの山が見えたはずよ。ひとつは黄色い上衣の上にボタンが縫われているような山。もうひとつは頭の上に黄色い帽子が載っているような山。これは私の故郷の聖なる山。どんな変化があったか教えてほしいの」

「尊敬する王妃さま、このような有名な二つの山をおらは見たことがありません。ただボタンがとれてしまった山があります。もうひとつは黄色い帽子が落ちてしまった山があります」老いぼれ乞食はそう言いながら、ドゥクモの顔色を観察していた。

 リン国がひどいありさまであることを知って、ドゥクモの目から涙がこぼれ落ちてきた。彼女は心の中で思った。
「もしケサル大王と会う機会があるとしても、ホル王と結婚し、子供を生んだ身、とてもじゃないけど会うことなどできそうにないわ。しかし大王はいまどうしているのだろうか」

「猿回しの芸人さん、あなた、獅子王ケサルがいまどうしているかご存じかしら」

「知ってますとも、知ってますとも。大王は北の魔国に妖魔を倒しに行ったのに、逆に殺されてしまったそうです。ケサルが死んでから何年たちますかな」

老いぼれ乞食は王妃の涙を見てもおかまいなしに、つぎからつぎとケサルの不幸ななりゆきについて語った。

 ドゥクモは猿回し芸人の話をひととおり聞いた。ケサル王はすでに死んだのだ。このいやしい身の自分が生きながらえて何の意味があるだろうか。ドゥクモは髪の飾りのトルコ石をもぎとり、身体につけた金の飾りすべてをはずした。

「これ、全部あげる。全部芸人さんにあげるわ。これはあなたへのお布施よ。あなたがたくさんの不幸なできごとについて話してくれたから、身に着けていたものすべての輝きがなくなったの。もう何も話したくない。あなたがこれらの飾り物をもらってくれればうれしいわ。善事をなせば獅子王ケサルと王妃センチャム・ドゥクモの魂も浄土へ行くことができるでしょうから」

 そう言い終わると老いぼれ芸人が腰に差していた水晶刀を奪い取ると、自分の胸に激しく突きたてようとした。

 瞬時に老いぼれ芸人がドゥクモの手から小刀を奪い取った。

「いけませんよ、自らの命を絶とうなんて。私がいま言ったことは、ふざけて言ったことです。東方のふたつの山に変化などありません。ケサル大王は魔王ルツェンを打ち負かし、いまホル国に仇討にやってきています」

「ほんとに? 芸人さん、あなた、人をだまさないで」

 ドゥクモは信じつつ、疑った。顔は涙でびっしょり濡れていたが、喜びや疑いの気持ちも浮かび出てきていた。

「さっき、人をだましていたけど、いまはだましていません。首飾りをつけてください。クルカル王が私を見とがめて、殺さないようにするためです。あなたが獅子王を見るときに失望させないためです」

 老いぼれ芸人はなにやらおかしさをこらえているみたいだったが、ドゥクモは何がおかしいのかわからなかった。そうだ、と彼女は思い出しかけた。あのペリトンツォ湖に飛び込もうとしたとき、ジョルが馬のしっぽをギュっとつかんだ、あのときの笑い方とそっくりだ。それなら目の前にいる老いぼれ芸人は獅子王ケサルの変身した姿なの?

 たしかに彼はケサルがすでにホル国にやってきていると言った。でもそれが王宮内のことなのかは明言しなかった。こちらからも問いたださなかった。外で会う機会があればもう一度聞くこともできるだろうに。

 ドゥクモは首飾りをすべて首にかけ、この老いぼれ芸人に食べ物を恵み、いくらかのお金を施した。

 猿回しの芸を見せるこの老いぼれ芸人は、ケサル王が変身した姿だった。彼はドゥクモが自分のことをまだ愛していることを知り、感極まったのだった。しかし彼はその感情を表に出すことができなかった。時期を逸して露見した場合、ホル王を驚かせ、魔物を呼び出しでもしたら、面倒なことになるとケサルは考えたのである。そのため彼は恵まれた食べ物をたいらげ、施されたお金を受け取って、そそくさと王宮から出ていった。

 しかし途中でホルの大臣シェンパ・メルツェに呼び止められた。ケサルは自分の変身が見破られたのかと思い、一瞬あせった。姿を現して戦うべきだろうか。メルツェの寄魂牛の角は切り落とせなかったので、彼は健康そのものだった。それどころか力がみなぎっているように見えた。もし戦うことになれば、いい勝負になるだろう。しかしこのシェンパは殺さなければならない。兄のギャツァを殺したかたきを討たなければならない。ケサルはあれこれ考えをめぐらせ、緊張したが、表向きは平静を装った。

「おや、尊敬するシェンパ王さま、この乞食になにかご用事でも?」

「私といっしょに来い」とメルツェは簡潔に命じ、静かな林のほうへ向かった。ケサルは緊張しながらその後ろをついていった。これは彼が望んでいた状況でもあった。だれもいないところでシェンパを殺す。だれもそのことに気づかない。

 林の中に入ると、突然メルツェはひれふして、頭を地面につけながら拝み始めた。

「わが尊敬するご主人さま、万民を統治する明君、世界獅子王ケサルさま、どうかわたくしのこの気持ちを受け取ってください」

 メルツェは一枚の白いカタ(吉祥のスカーフ)を取り出した。そして碧玉の指輪を手のひらの上に置いて、つづけて言った。

「ケサル大王さま、わたくしは罪深いシェンパでございます。でもそのことがどれだけわたくしを苦しめたか、言葉もありません」

 メルツェはホルとリンの戦争がどのようにしてはじまったかを述べ、それからこのように付け加えた。

「獅子王さま、もし仇を討つためにホルに来られたのだとしたら、どうか命だけは助けてください。わたくしの黄金十八袋、白銀十八袋、絹十八袋、トルコ石と珊瑚十八袋、大麦十八袋、無数のラバ、牛、羊、みなあなたにさしあげます。これでわが罪をあがめることができれば安いものです」

 ケサルは愛する兄ギャツァがこのシェンパによって殺されたことを思い出し、いっそ彼の頭を叩き切ってしまおうかと思ったが、思いとどまり、殺すより生かしておいたほうがいいだろうと考え方を変えた。草をむやみに打って蛇を驚かすように、3人のホル王を驚かすのは良策とはいえない。ホル王3人を殺す機会はあとでまたやってくるだろう。ケサルはあれこれと考えをめぐらせたが、メルツェの話がよくわかっていないふうを装った。

「おやおや、あなたは大シェンパさまではありませんか。ホル王の大臣、ホル国の大英雄、十二万戸部落の長ではないですか。私のような流れ者にどうしてそのように礼を尽くそうとなさるのでしょうか」

「獅子王さま、二度とこのようなことはなさらないでください。あなたの行動に関して、けっして他言はしません。わたくしはあなたにたいして、誠心誠意尽くします。わたくしの忠誠心は絶対にゆるぎません。今日からわたくしは閉所にこもり、修行に入ります。ふたたび出てくることはないかもしれません」そう言い終えると、メルツェは林から去っていった。

 ケサルは自分に献じられたカタと指輪をながめて笑みを浮かべ、彼もまた林から立ち去った。

 ガルパナ王の家に戻ると、ケサルは時間を惜しんで鎖を造った。数日のうちになんとか鎖を造り上げることができた。チョクツン・イェシェが走ってきてケサルに言った。

「大王さま、もう一度雪山の後方に行かなければなりません。ホル三王の寄魂野牛(ドン)の頭に釘を打ちこんでください。そうすれば簡単に彼らを制圧することができます」

 決去るは雪山の後方に走っていき、三頭の寄魂野牛の釘を打ちこみ、さらに長くて大きな鉄の釘を打った。3人のホル王はこれによって病気になったが、前回よりもずっと重かった。クルカル王は侍従に命じ、チョクツン・イェシェを呼んで占いで病の原因をさぐらせるよう命じた。

 チョクツンは占いの道具をもって王宮に入り、祈祷をするように装い、いい加減に占った後、驚いた表情を浮かべて言った。

「大王さま、たいへんです、この卦はよくありません! 大王さまとご兄弟が病気になった原因は、一族の守護神ツェマン・ギェルモを怒らせたからです。女神は天界に帰ってしまいました! 女神に戻ってもらうためには五人の美しい乙女に、もっとも美しい首飾りをかけてもらって、前の山の上でラサン(神のために香を焚く)の儀礼をおこなうしかありません。同時に王宮の3つの門を三日間開いて、一族の守護神の帰りを迎えなければなりません」

 クルカル王は病に苦しめられてぼんやりし、どうしたら病気が癒えるかばかりにとらわれ、何をすべきかわからなくなっていた。王はすべてチョクツン・イェシェが言うとおりにしてしまったのである。クルセル(黄テント王)とクルナク(黒テント王)は王宮の門を開くのは危険だと心配し、3つの門の開放には強く反対した。クルカル王はあれこれ考えて、結局内門をしっかり閉めて、大門と中門を開くことに決めた。

 月の明るい十五夜、ケサルはチョクツン・イェシェに言った。

「今日はホル王を征服する日である。私は王宮に入り、ホル三王を殺し、ドゥクモを救出する。あなたはペマタンへ行き、石山と草山が接するところで私を待っていてほしい。あなたはそこでドゥクモと会うことになるだろう」

 チョクツン・イェシェはケサル王がやろうとしていることが危険であることは十分に承知していた。しかしこれが天の意思であるなら、抗うことなどできないのだ。とりわけクルセル(黄テント王)は多面にわたる悪行で有名だったので、殺さなければならない。彼女はケサル王が出発するのを眺めながら、王の無事を祈り、成功を願った。

 ケサルは鉄の鎖を懐に入れ、身を震わせると、ホル人に変身した。毛衣に身を包み、白いフェルト帽をかぶり、月下のもとではあまり目立たなかった。大門と中門は開放されていたのでケサルは簡単に内門の前に到達した。そこで彼は懐から鉄の鎖を取り出してそれを放り投げると、城の上部の鉄の杭にかかった。ケサルは鉄の鎖をもって壁を這い上っていった。しかし途中で彼は疲れを感じ、喉の渇きを覚え、おなかも減ってきたので、それ以上登れなくなってしまった。

そのとき、天の叔母ナムメン・カルモが現れた。彼女がケサルの顔に向って息を吹きかけると、異なる香りが鼻を打ち、瞬時にして元気が出てきた。彼はいっきに壁を駆け上がり、王宮の仏間に到達した。ケサルはそこで一息ついた。

 ケサルが城の壁を登っているとき、雲が湧き起こるようにリン国の戦神と魔物があつまってきて、殺し合いをはじめた。それはドゥクモの子供を驚かしたので、子供は大声で泣き始めた。クルカル王は目が覚め、ドゥクモに向って聞いた。

「王子はなぜ泣いておるのだ?」

 老いぼれ芸人に変身していたケサルに会って以来、ドゥクモの心は乱れていた。クルカル王が何かを聞いてきたので、彼女はいい加減にこたえ、子供には乳を飲ませた。子供が泣き止んだので、クルカル王はまた睡眠に落ちた。ドゥクモはケサル王が王宮にやってきたのではないかと考えていた。すると今夜中に王宮内で殺戮がはじまるだろう。自分自身もこれに対する準備をはじめなければならない。

 ドゥクモはクルカル王が歩きそうな地面にすこしばかりの黒豆を撒いた。撒き終ると、王宮の窓から獅子王ケサルが跳んで入ってきた。王子はまた泣き始めた。目を開けたクルカル王は、だれかが王宮に侵入してきたことに気づいた。あわてて床の上に立ち、足を踏み出すと、黒豆を踏みつけて彼は滑って転んでしまった。すかさずケサルは飛びかかり、左足でクルカル王の身体を踏みつけた。三度踏みつけたあと、金の鞍を身体の上に置き、動けないようにしてから水晶刀を取り出し、ののしった。

「おまえは人殺しの魔王である。今日はおまえの最後の日であると知れ」

「お、おまえはだれだ?」クルカル王は恐怖におののいていた。

「私は世界獅子王ケサルである」

「ケ、ケサルだと。おお、大王さま、わたしはたしかに罪を犯しました。わたしは金銀をもっています。宝石をもっています。黄金宮殿をもっています。牛や羊をもっています。そのほか高価なものをたくさんもっています。それらをすべてさしあげます。どうか大王さまのやさしい御心で命だけは助けてください」

 クルカル王はケサルの刀の冷たさを肌に感じながら、助命を嘆願した。

「おまえがどんな罪を犯したか知らしめてやろう。私ケサル自らが来たこと自体、おまえの罪の重さがわかるというものだ。なぜおまえの命を助ける必要がある? もしおまえを助けたら、わが兄ギャツァがよみがえってくるとでもいうのか。われらリン国の死んだ英雄がこの世にもどってくるとでもいうのか。今日、私はこの水晶刀をもってきた。これはおまえを殺すための宝刀である」

 そう言い終わったときには、クルカル王の命はなくなっていた。

 ケサルは事をすみやかにすますとドゥクモに約束していた。彼はクルセル(黄テント王)とクルナク(黒テント王)を殺すと、ドゥクモのもとにやってきた。しかしドゥクモの背中に子供が背負われているのを見ると、顔をくもらせた。

「おまえは魔王の種を背負ってどこへ行こうとしているのか」

「大王さま、子供を背負っていくことをお許しください。この子はクルカル王の血と骨を継ぐ者ではありますが、私が生んだ子です。わが肉の一部なのです。まだ乳飲み子ですので、母親から離されたら生きていけません」

「おまえにはまだそんな慈悲の心があるのか。ホル王がわがリン国のどれだけの子供を殺したと思っているのか。彼らがどれだけのリン国の英雄を殺したか知っているのか。おまえはこの子を捨てて、私といっしょに行こう」

 ドゥクモはケサルの気持ちもよくわかった。しかしかといってこの乳飲み子を置き去りにするのは忍びなかった。まさに断腸の思いだった。ケサルは自分の前を歩いていた。ドゥクモがわが子を見ると、すやすやと眠っていた。なんていとしい顔だこと。しかし仕方なくその我が子を倉庫の部屋に置く。心のなかで彼女は祈った、だれかが育ててくれますようにと。ひもじい思いをさせないで。餓死させないで。ドゥクモはあふれる涙をぬぐった。何度も何度も彼女は倉庫のほうを見た。

 ドゥクモがひとりで出てきたのを見たケサルは、子供が部屋に残されたことを知り、心が休まらなかった。ケサルは思った、子供は敵の骨と肉である、大きくなればかならず敵愾心をもつようになるだろう。それならばその根はいまから断たねばならない。いまやらねば、あとで患いのもととなるだろう。そう思ったケサルは引き返し、子供を殺した。ケサルはドゥクモを連れて王宮から出て、チョクツン・イェシェを探した。

 ケサルはホル三王を殺し、民衆から禍(わざわい)を取り除いた。すべての場所で人々はケサルの勝利を祝福した。シェンパ・メルツェもやってきた。ケサルは彼を一目見るなり怒りを覚え、彼をおさえこみ、ギャツァの仇として首を斬ろうとした。しかし民衆は、彼はすばらしい人なので殺さないでくれと嘆願した。ドゥクモもまたリンとホルの戦いはメルツェの責任ではないとして、擁護した。ケサルはメルツェが民衆に愛されていることを知り、感銘を受けた。ケサルはメルツェの罪を許しただけでなく、ホル国の藩王に封じた。

 メルツェは忠誠を誓い、ケサルにたいして臣下の礼を取ったのである。つまり獅子王ケサルにたいし、犬や馬のように奉仕するという意味である。ケサルはメルツェによく国を治めるよう命じた。民衆はメルツェ統治下で、平和で幸福の日々を過ごすようになったのである。


⇒ つぎ 






ホルのクルカル王は、ヤツェ城に乗り込んだケサルにおさえ込まれた 



漫画版。テンマ将軍にぶった切られて、力尽きたかと思われた美青年クルカル王だが、魔王はそんなに簡単に負けることはなかった。



美青年クルカル王は、追いつめられて、本来のバケモノの姿を現した。



最後はやはり英雄ケサル王自身の手によって、妖魔は斬り殺された。