チベットの英雄叙事詩
ケサル王物語
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リン国の東に、18万戸の人口を擁する広大な国土をもったジャンという国があった。軍事力は強大で、兵士の質もきわめて高かった。牧草は美しく豊かで、農地では穀物も十分に産していた。国王はサタムといい、武芸にすぐれるだけでなく、妖術や呪術にも通じていた。
しかしサタム王は国民にたいしては圧制をしき、暴虐のかぎりをつくした。そのため民衆の苦しみは頂点に達しようとしていた。またつねに近隣諸国への侵略を繰り返し、隣接するいくつかの小国は、平安の時を過ごすことがなかった。
ある朝、サタム王は目覚めると、突然、国中を見て回りたくなった。たくさんのおべっか使いの大臣や侍従をひきつれて領地を歩くのは気持ちのいいことだった。宮中の、麦やトウモロコシがあふれんばかりの穀物倉庫や金銀、財宝がたっぷりと納められた宝庫を見たあと、馬に乗って牧場を走ると、どこに行っても牛や羊が草を食んでいた。どの人里を訪ねても、家来や民衆がいて、国王だと気づくと腰をかがめて平伏した。
しかしサタム王は、なにかが足りないように感じた。それが何であるかわからず、眉間にしわをよせて必死に考えた。大臣や侍従も、国王の顔を見ると、機嫌が悪いことはすぐわかったが、原因が何かはわからなかった。国王の雷が落ちそうだったので、人々は戦々恐々とした。サタム王は不愉快になり、巡視もつづける気が失せてしまった。楽しみにしていた狩猟も取りやめにした。
ジャン国の魔神だけはその理由を知っていた。魔神は三本脚の紫色のラバに乗り、雷の閃光になって王宮の中に入ると、サタム王の耳元でささやいた。
「国王さまの悩みがなんであるかは、重々承知しております。ジャン国には金も銀も、牛も羊も、牧草も穀物もたっぷりとあります。ないのは塩だけです。塩がないゆえ、国王さまが食事をしても味がなく、物足りないのです。お茶を飲むにしても、風味が十分ではありません。
しかし隣国にはアロンコンソン塩湖があります。国王さまにはこの塩湖を略奪し、国のものとすることをすすめます」
サタム王はためらっていたが、魔神はその理由を知っていた。王はリン国の英雄ケサル王を恐れていたのだ。魔神はふたたびささやいた。
「心配するにはおよびません。どんな攻撃に遭っても、わたくしが国王さまの身をお守りいたします。頭部が傷つけられることはありません。わたくしが金の兜(かぶと)を作って守ってさしあげますから。身体が損なわれることはありません。わたくしが銀の鎧(よろい)を作って身体を包んでさしあげますから。足がケガする心配はありません。わたくしが大地を作り、国王さまの足取りを守ってさしあげますから」
サタム王が目覚めたとき、すでに日は高く昇っていた。魔神の激励と保護の約束があったので、彼はジャン国の兵馬を集め、アロンコンソン塩湖へ向かって出兵することにきめた。
サタム王はドゥクデ・パルデン・グポ、ドゥチェン・ギェルウェ・トゥカル、ツェマル・プンポ・ケルキェらを将軍(マクポン)に任命し、王子ユラ・トギュルを先陣に立たせて、アロンコンソン塩湖へ兵を向けた。
王妃ペマ・チュードンは知らせを受けて、出兵を思いとどまらせようとした。
国王サタムさま
よく戦うとは、戦死するということ
戦いに勝つとは、過ちの上に成り立つこと
他国の土地を永遠に占領することなどできません
義なく、するべきものではないのです
ジャン国の地は豊かなところ
穀物も、家畜も、果物も豊富にあります
国王と家臣が食べきれないほど豊かなのです
他国を侵犯しても災いをもたらすだけです
内大臣のベルトゥも王妃ペマ・チュードンに賛同し、慎重に考え、将来に禍根を残すことがないようにといさめた。
しかし老大臣チェラ・ゴンポは王妃や内大臣の主張に耳を貸さず、白髪交じりのあごひげをなでながら、さとすような口調で言った。
「われらジャン国の名は天下にとどろいておる。兵士の数は多く、その勇敢さも近隣に知れわたっておるのだ。サタム王は智慧と勇気をかねそなえた賢王とたたえられたお方。塩湖はそもそもわれらジャン国のものだ。それを奪い返そうとするだけなのに、なぜ災いを呼ぶなどと誹謗するのか。国王さま、どうか雑音は気にしないでください。すぐにでも兵を出してください」
王妃ペマ・チュードンはこれ以上国王を説得するために言葉を費やそうとしなかった。しかしユラ王子のほうを向いて説得しようとした。
ユラ王子はまだ5歳の子供だった。王妃は王子を手のひらの上の真珠のようにかわいがった。この子を出征させることなどできるだろうか。
「こんなかわいらしいわが子を戦場へ送れというのですか。こんなにも小さいのです。乳歯もまだ生えそろっていません。もしものことがあったら、母親はどうやって生きていけというのでしょうか。国王の後継ぎもいなくなってしまうのですよ」
話を聞いた王子は、母親を怒らせたくなかったので、あえてつぎのように言った。
「わが子を先陣となすのは国王である父の願いです。母上はまず父上に頼んでください」
「わが子よ、母親の言うことをよく聞きなさい。あなたは父王のところへ行って、いとまを告げなさい。もし父王が許さなかったら、お礼の物を献じなさい。一群の駿馬、一群の梅花鹿、一群の牛や羊を贈りなさい。そうすれば父王も心の中であなたをほめたたえるでしょう。父王がそれでもどうしても許さないなら、ほかの物を献じなさい。900の金銀庫、900の緞子庫、9人の狩人、3人の英雄を贈りなさい。これだけのことをして要求に応じないなら、絶対にわが子を出陣させるわけにはいきません」
ユラ王子はこのような言い方が気に入らなかった。
「どうして父君にたいし、そんなねだるようなこと、しなくちゃいけないんだ。戦うのは大好きだ。なにがしたいって、戦争ごっこがしたいんだ。でも母さんにそんなこといちいち説明しても、理解できないんだから」
「母上、ぼくはふつうの子供とはちがいます。3歳のとき、すでに英雄といわれました。いま5歳で、大英雄です。ぼくは左手で稲妻をつかみ、右手で岩山を投げとばすことができます。ほえれば青竜に負けず、叫べば雷以上に大地をとどろかすことができます」
母親の目に涙が浮かんでいるのを見て、ユラ王子は耐えきれなくなった。
「母上、母上が育ててくれた恩を子供は忘れません。子供は猛虎と争うように敵とたたかっても、両親にたいしては奴隷のようにしたがうものです。子供が塩湖を奪いに出征するのは、両親に孝行するのとおなじであり、国を守る行為なのです。丈夫(ますらお)なら当然のことでしょう。母上は心を痛めないでください。ぼくをとめる必要はないのです」
ユラ王子が父王の命令でリン国の塩湖を奪いに行く戦いに参加しようとしているのはあきらかだったが、彼はあくまで国や家族のために出征すると主張した。彼は母親にあれこれととがめられるのを鬱陶しく感じた。彼は竜の模様が入った小さな上着を羽織り、緑色の腰帯をしめ、絹の黒靴をはき、五色の靴帯をかけると、馬に乗ってさっさと出発した。
王妃ペマ・チュードンは、王子が馬に乗って去っていく姿を見たとき、湧き出る涙を禁じえなかった。
漫画に描かれるジャン国の王城
ジャン国の国王サタム。ジャン国のモデルは麗江を中心としたナシ族の国と考えられるが、唐朝や吐蕃と張り合っていた南詔国の可能性もあるだろう。
リン国の領地内にある塩湖。ここにジャン国の軍隊が侵攻してくると聞いたホル出身のリン国軍将軍シェンパ・メルツェは、馬を飛ばしてやってきた。
ジャン国のユラ王子は、自軍を離れてひとり湖畔にやってきた
ユラ王子が変身した姿。いわば憤怒神
塩湖について
*ジャン国のモデルは、雲南省麗江を中心としたナシ族(ナヒ族)の国と考えられている。元朝を建てたフビライハーンが雲南に攻めてきたときから、木(ム)氏がこの地域を支配してきた。
それ以前は強大な国、南詔(653−902)を成す六詔の一つの時代もあった。また『元史・地理志』には「三ダン」(ダンは貝ヘンに炎)という名が登場するが、これはジャン王サタムに相応する。またナシ族の民族保護神、三多(saiddo)もサタムではないかと考えられている。
チベットとナシ族の中間には2つ塩湖があった。長年領有権争いが生じていたのは四川省と雲南省の省境に近い塩源県の塩池だった。この塩池のことは、『漢志』にすでに記されていて、当時はモソ族(のちのナシ族)の領地だった。
基本的にはナシ族の領地だが、漢や唐、吐蕃(チベット)に略奪されたこともあった。ケサル物語には、ジャンのサタム王がリンの塩湖を奪ったかのように語られているが、実際は逆だった。
とくに大きな戦争となったのが、貞元十一年(795年)の戦いである。当時吐蕃がこの塩池(地名は昆明)を占領していたが、この年、唐軍と結んでいた南詔軍が失地回復を狙って昆明城に攻め入った。そのときまで吐蕃は30年以上昆明城を支配していた。
貞元十五年(799年)、吐蕃軍5万人の軍が攻撃を仕掛けたが、返り討ちにあった。貞元十七年(801)年、南詔軍は圧倒的な勝利を収めた。7つの城、軍の拠点5か所、要塞150か所、斬首1万級以上、捕虜6千人、投降者3千という戦果だった。(『資治通鑑』による)